再びお茶を飲んでひと息ついていると、「そうだ」と言って孝介が立ち上がった。そのまま部屋へと消えていく。扉を開閉する少しの間に見えた彼の部屋は、他と同じく綺麗に整頓されているようだった。
「はい」
戻ってきた孝介が、突然何かを放り投げた。足立は驚いて身を引き、ぽんと跳ねて床に転がるそれをあわてて目で追った。
茶色い体に細長い手足が付いている。
「え……」
グラスをテーブルに戻し、まさかと思いながら足立は手を伸ばした。そっと顔を持ち上げると、間違いなかった。
「アイちゃん……!」
懐かしくてたまらず、両手で持ち上げて向かい合う恰好で座らせた。頭を撫で、じっと顔をみつめ、抱きしめた。
「……え、え、なんで?」
「荷物処分されるって聞いたから、叔父さんに頼んで引き取ってもらったんです」
孝介は部屋の前に立ったままこっちを見下ろしている。
「礼なら叔父さんに言ってくださいね。ホントは不味いらしいから」
「そうなんだ……ありがとう」
十二年経っているとはいえ、ぬいぐるみは綺麗な状態に保たれていた。所々ほつれたり糸が飛び出したりしているが、面影は記憶にあるままだった。
「……返せるとは思ってなかったですけど」
呟きに顔を上げた。孝介は腕を組んだまま硬い表情でこっちを見下ろしている。だが目はそらさなかった。しばらくそうしてみつめ合い、足立の方が我慢出来なくなって顔をそむけようとした時、不意に孝介が吹き出した。
「……え? なに?」
「いえ、別に」
孝介は表情を取り繕ったが、やがてまたくつくつと笑い出した。
「……な、なに? なに笑ってんの?」
「いえ――」
顔をそむけ、だがちらちらとこっちを見て、また笑う。
「なに。なんなの」
「――四十近いおっさんが、ぬいぐるみ抱いて喜んでるって、なんかこう……」
「……っ」
返事に詰まった足立は、助けを求めるようにアイちゃんを見た。だが勿論アイちゃんはなんの助言もくれなかった。
「だって、う、嬉しいんだもん。しょうがないでしょ」
やがて孝介はゲラゲラと笑い始めた。足立はそれ以上言い返すことが出来なかった。笑われるのは口惜しくもあったが、なんであれ孝介がちゃんと笑っているのを見たのは、出所以来初めてだった。
「喜んでもらえたなら良かったですよ。大事にしてた甲斐がありました」
笑い過ぎて腹が痛いと言いながら孝介は涙を拭う。そうしてそんな自分を恥じるようにまた目を落とすと、
「俺、部屋に居ますんで、何かあったら声掛けてください」
「あ、うん」
自分の分のグラスを持って部屋へと消えた。さっきと同じように閉じられた扉は、それでも自分を拒絶しているわけではないのだと、少しだけ思うことが出来た。
翌日、孝介に頼んで一緒に買い物へ行ってもらった。クリーニング屋へ行くというので付き合った。ネットで検索してもらった結果、畑中硝子店へは電車に乗る必要があるとわかり、念の為に駅の改札と券売機を見に行った。
「人混み苦手で、電車乗れるんですか?」
「…………頑張る」
逃げるわけにはいかないのだと、何度も自分に言い聞かせた。
昨日とは違ったルートでマンションの周囲を歩いてみた。コンビニに行きたいと言ったら、脇道から行った方がいいと孝介が教えてくれたのだ。駅前通りの商店街を昨日とは逆に向かい、パン屋と美容院のあいだの細い道を進む。曲がってすぐのところに小さな飲み屋が何軒か集まっていたが、そこを過ぎると店は殆どなくなってしまった。
道の途中に狭い公園があり、小学生の男の子三人がジャングルジムの周りでアイスを食べていた。どこからか電話のベルが聞こえ、音に振り向いた時、布団を取り込もうとしている年配の女性の姿を見掛けた。今日も陽射しは厳しいが、土地のせいか風向きのせいか、あのまとわりつくような熱気は感じない。
「結構普通の住宅街なんだね」
「栄えてるのは駅の周辺だけですよ。ちょっと外れれば、すぐにこんな感じです」
コンビニでジュースと雑誌を買って帰った。マンションに帰り着くと安堵のため息が洩れた。町に体を馴らすのは、やはり簡単にはいかないようだ。
食事は全て孝介が作ってくれた。あまり料理はしないと言っていたが、案外手馴れているように見えた。そういえば昔から結構器用な方だったな、と足立は思い出していた。会社でもソツなくなんでもこなしてるんだろうなと想像出来た。
夕飯の時、テレビを見ながら孝介が訊いた。
「足立さんは、まだあの力あったりするんですか?」
箸を持つ手が止まった。返事がないのを訝しんだのか、孝介がこっちを向いた。特に何か意図があるようには見えなかったが、すぐには返事が出来なかった。
「ないよ。もうない」
「ふうん」
「……」
孝介は再びテレビへと視線を投げた。
「……え、君は?」
「俺もないです。高校出たくらいになくなりました」
「そっか」
「足立さんは?」
またこっちを向かれる前にと、足立はテーブルを見下ろした。再会したばかりの時はわけもなく見ることが多かったのに、何故か今は目が上げられない。
「僕は、捕まってすぐかな。なんか、役目が終わったみたいに、すぐ」
「なるほど」
カブの浅漬けを口に入れて目を上げた。孝介はニュース番組をやたら熱心に眺めている。
「……あれって、結局なんだったのかな」
「……」
すぐには返事がなかった。孝介は飯の残りを掻き込み、味噌汁を飲み込んでから、
「俺らは道具だったんですよ」
ぽつりと言った。
「道具?」
「シミュレーションの因子みたいなもんです。たまたまあの時期、稲羽市にやって来たのが俺らだった、ってだけですよ。他に理由はないと思います」
「……なにそれ」
それだけ? 足立が茫然と訊き返すと、孝介は難なくうなずいてみせた。
「え、じゃあ――」
「もし他にもよそから人間が来てたら、もしかしたらそいつが誰かをテレビに放り込んでたかも知れない、俺らじゃなくて他の誰かが犯人を捕まえたかも知れない、そういうことです」
――なにそれ。
ぼーっとしていたせいで口のなかの物をこぼしそうになり、あわてて飲み込んだ。中途半端に噛み砕いた食べ物が喉につかえ、足立は急いでお茶を飲み干した。その様子を、孝介はじっとみつめている。
「……でも現実には俺らにあの力が与えられて、足立さんは人を殺して、俺は殺さなかった。それだけのことです」
「……」
「立場が違ってたら、俺がやってたかも知れない」
「君はそんなことしないよ」
孝介は否定も肯定もせずに、じっとこっちをみつめたままだ。視線に耐えられなくて足立は目をそむけた。
「……だって、理由がないじゃない」
「足立さんにはあったんですか?」
「……」
箸を戻して足立は首を振った。今も昔も、誰も殺される理由なんてなかった。
力を失ったあと、足立は二重の意味でほっとした。もう何があっても、誰かをテレビに放り込まなくて済む。そして自らそこへ逃げ込むことも出来なくなった。自分が引き起こした現実に、嫌でも向き合わせてもらえる。もし自力でそう出来る勇気があれば、今はもっと違っていた筈だ。
「でも、君はしないよ」
「……」
うつむいた視界のなかで孝介の手が動き始めた。
「それは買い被りです」
足立は何も言えなかった。
夕飯の後片付けを終え、二人はそれぞれ自室に戻った。孝介は部屋の扉を開け放つことがないので、なかで何をしているのかはわからない。足立は風通しを良くする為もあって、部屋の扉は開けている。こうしていると居間を見ることが出来て、居間が見えるとそこには孝介の生活の破片が見えて、なんとなく安心出来るのだ。
ベッドに寝転がって雑誌を読んでいたが、途中で飽きて放り出してしまった。のそりと起き上がり、ぼんやりと明かりが付いたままの居間をみつめた。
電源の入っていないテレビの画面が、ここから半分くらい見える。
『だって、理由がないじゃない』
『足立さんにはあったんですか?』
自分が年を取ったという感覚は薄いが、だからといって稲羽市で暮らしていた当時のことを鮮明に覚えているわけでもなかった。ただあの頃は義務も責任もなく、ひたすら自由だった気がする。
毎日漠然と死ぬことを考えていて、もし生田目が捕まったら次は誰をそそのかしてやろうとか、次にテレビに入れるとしたら誰にしようとか、そういったことばかりを夢想していた。考えるだけならそれまでにも同じようなことをたくさん想像した。だけど当時、その力が自分にはあった。やろうと思えばいくらでも出来た。
シミュレーションの因子。ただの道具。
でも、それがなんだっていうんだろう。力を与えられた人間が居て、孝介は殺さず、自分は殺した。結局のところ自分はそういう人間だったということだ。別の今など有りはしない。ただ違った形で、同じように最悪の今を迎えていただろう。
周りに違和感を覚えるのは当然なのかも知れない。あの頃の自分と今の自分は、多分何も変わっていない。
「……」
――電車、乗りたくないな。
ぼんやりと足元を見下ろしながら思った。
生きるのは誰の為なのか。なんの為に明日を迎えるのか。答えなどどこにもみつけられない気がする。
「足立さん」
声に驚いて顔を上げると、孝介が部屋の入口に立ってこっちを見ていた。
「な、なに?」
「アイス食べたくないですか」
「アイス?」
「ちょっとコンビニ行ってくるんで、よければついでに買ってきますよ。どうします?」
「……えっと」
孝介は手にした財布で自分の足を叩きながら返事を待っていた。
「……じゃあ、食べようかな」
「わかりました。何味がいいですか?」
「え、……っと」
「チョコとバニラと抹茶。三択」
「……ちょ、チョコ」
「わかりました」
行ってきます、と言って孝介は部屋を出ていった。玄関の扉が閉まる音を聞いた時、今逃げたら怒るかなと、ちらりと考えた。一人で部屋に取り残されると、また逆に落ち着かない。
十五分ほどで孝介は戻ってきた。買い物袋を提げたままずかずかと部屋へやって来て、ベッドに寄り掛かるように座り込んでしまった。
「はい」
「あ、ありがと」
渡されたのは丸い紙パックに入ったチョコ味のアイスだった。コンビニで貰ったスプーンを袋から取り出して手渡してくれる。孝介も同じ種類らしく、パッケージが似ていた。続いて取り出したのは「御霊前」と書かれた香典袋だった。
「……え、どうしたの、それ」
「同僚の親父さんが死んだって、さっき連絡があって」
「そう……」
「そろそろヤバいみたいな話は聞いてたんですけどね」
「……今年は暑かったから」
「そうですね」
だが孝介の親くらいと考えれば、まだそんな歳でもない筈だ。人ってのは無秩序に死ぬものなんだなと、無責任に考えた。
「そうだ、言うの忘れてた」
アイスを食いながら孝介が振り向いた。足立は床に足を落としてベッドに座り、孝介はそのすぐ側の床に腰を下ろしているので、かなり大きく首を傾けなければならない。上から見下ろすと、ほんの一瞬だけだが、高校生の頃の面影があるような気がした。
「菜々子には事件の話しないでもらえますか。あいつ、当時のこと殆ど覚えてないんで」
「――うん。わかった」
「なんか大きな病気で入院したって思ってるみたいなんです。まぁ、入院のことも言われて思い出すくらいだから、事件の話振っても殆ど他人事でしょうけど」
「そうなんだ……」
複雑な気分だったが、少しだけ安心出来た。あんな記憶など無い方がいいに決まっている。
孝介はスプーンを口にくわえたままベッドの上を見回し、腕を伸ばして枕元のアイちゃんを引き寄せた。そうして胸に抱えると、妙に満足げな顔でまたアイスを食べた。その動作が手馴れているのが、なんだかおかしかった。
「ガラス屋でしたっけ。何時くらいに行くつもりなんですか?」
「まだわかんないな。……とりあえず電話して、都合聞いてみないと」
「――まさかと思うけど、電話は大丈夫ですよね?」
返事をしないのが答えのようなものだった。しばらく黙っていると、孝介が呆れ顔でこっちを見上げてきた。
「だ、大丈夫っ」
「ホントですか?」
「電話は掛けるよ。せっかく堂島さんが紹介してくれたんだし」
「……」
孝介は二口ほど無言でアイスを食べ、いきなり立ち上がった。アイちゃんを抱えたまま自室へ戻り、少しして戻ってきた時には手にメモ用紙を持っていた。
「一応渡しておきます。俺の会社の番号と、携帯番号。あとここの電話と叔父さんち」
「あ、ありがと」
「なくさないでくださいね」
「うん」
足立はメモ用紙を折りたたむと財布のなかに仕舞い込んだ。そうして再びベッドに腰を下ろした時、思わず苦笑が洩れた。
「なんか僕、三歳児みたいだよね」
電車に乗れない、電話が掛けられない、人混みが怖い、買い物が出来ない。親の庇護がなければ何も出来ない子供のようだ。孝介も座り込んで、同じように苦笑した。
「実際には三十九歳児ですけどね」
「君に怒られてばっかりだし」
「……別に怒ってないじゃないですか」