電車は一応なんとかなった。ラッシュの時間でなかったのが良かったのだろう。乗り込んでから降りるまで、ずっと戸口に立って外の風景を眺めて過ごした。駅を出てからは、この辺りにも田んぼの姿が結構見えた。田舎だなと改めて思ったが、出所してすぐ東京に追いやられるよりはずっとマシだったんだと、本当に思う。
 畑中硝子店は住宅街のなかにぽつんとあった。三階建てマンションの一階部分が店舗になっており、すぐ隣には作業場があった。入口の脇に看板が掛かっていて、「畑中硝子店」の文字の下に「サッシ/バスルーム」などと書かれている。
 入口は二間ほどの広さで、店のなかにはアルミサッシの見本のような物が飾られているのが見えた。
「ごめんください」
 ガラス戸を開けてなかに入り、足立は声を掛けた。店のなかには誰の姿もなかった。奥に、住居に続くらしき戸口が見えたので、恐る恐る歩み寄ってまた声を掛けた。
「はい、ただいま」
 中年の女性の声で返事があった。戸口の奥のドアが開き、背の低い女性が現れた。自分より幾分か年上のようだ。家族だろうかと思いながら名前を告げ、来意を説明すると、「あぁ、はいはい」と言って手を打った。
「今、社長呼びますから。ちょっとお待ちください」
 そうして通路に戻り、作業場に続くらしいドアを開けた。
「あー、どうもどうも」
 開けっ放しだったドアから出てきたのは、足立が見上げるほど背の大きな男だった。首に掛けたタオルで顔全体を拭きながら、店の隅にあるカウンターを示し、イスを勧めてくれた。
 畑中一雄。渡された名刺にはそう書いてあった。
「いや、稲羽市に叔母が一人で住んでましてね、それが昔当て逃げされたことがあったんですよ。堂島さんにはそん時世話になったんですわ。本当は担当が違うらしいんですけど、まぁ色々と話聞いてくれてね。その御縁で」
 聞けば堂島家の玄関を新しくしたのも畑中だという。
「ガラス屋さんって、単に窓ガラスの修理するだけかと思ってました」
「いやあ、仕事は色々ですわ。サッシの交換もやるし、ヒンジの修理とかもあるし」
「ヒンジ?」
「手で押し開けするタイプのドアあるでしょう。あれの根元のトコにね、閉まり方を調節する部分があるんですわ。あそこが古くなるとギイギイ音がしたり、勢いよく閉まり過ぎたりするんで、修理しないといけないんですよ」
 他にもリフォームや、新築の家にガラスを入れたりすることもあるそうだ。
「現場仕事なんで、馴れるまではあれかも知れないけどね」
 話の途中で、さっき応対に出た女性がお茶を持ってきてくれた。大きなグラスに麦茶が入っている。畑中はぞんざいに手を上げると「家内です」と短く言った。足立はあわてて頭を下げた。
「店はこいつと、あと若いのが一人居るだけなんですわ。まぁ若いって言っても、高校出てすぐうち来たからね。もうベテランですよ」
「はあ」
 朝は八時半始業、定時は五時半だが、作業によっては残業もあるという。勿論残業代は出るし、年に二回、少しだがボーナスも貰えるという話だった。
 麦茶を飲み終えたあと、畑中が作業場を見せてくれた。大きなガラスが鉄製の枠のなかに何枚も収まっている。これを窓枠のサイズに合わせて切り取り、嵌め込むのだそうだ。
「え、手で切れるんですか?」
「切れますよ。勿論道具は使うけどね」
 そう言って見せてくれたのは、名前もズバリ「ガラスカッター」という代物だった。細長い握りの先端部分が、カッターの刃の代わりに小さな丸いボールになっている、一見しただけでは何に使うのかわからない道具だ。
「こうやってね」
 木屑の上に集められていたガラスの切れ端をテーブルに乗せ、定規を当てて上から下へと引く。そのあとガラスを裏返し、カッターの尻の部分で二三度切った部分をなぞると、簡単に二つに分かれてしまった。
「すごいっ」
「あんたもすぐ出来るようになるさ」
 畑中はやや誇らしげに笑って言った。
「どうだい。こんな仕事だけど、うち来るかい?」
 否やのあるわけがなかった。畑中は嬉しそうに背中を叩くと、「じゃあ決まりだ」と言って脇の入口に顔を突っ込み、「おーい」と奥さんを呼んだ。
「作業ズボン出してくれないか」
「わかりました。サイズは?」
「Lでいいんじゃないか。上着は在庫あったっけ?」
「あるけど、明日でいいわよね。着てくるんじゃ暑いだろうし」
「だな」
 足立は店のなかに戻された。イスに座るよう促される。その時電話が鳴って畑中が出た。どうやら資材の発注の連絡らしく、「いや、週末に間に合えば」などと言っている。
「……あの」
 電話が終わったのを見計らって声を掛けると、畑中はカウンターの向こうに座りながらこっちを不思議そうに見た。
「あの……自分のことは、聞いてますか」
 刑務所から出てきたばかりなのだとは、さすがに言いにくかった。だが畑中はわかっているようで、何度もうなずき、
「堂島さんからね。全部聞いてるよ」
「……」
「心配しなさんな。別に脱獄してきたってわけじゃないんだろ?」
 そう言ってからからと笑った。
「うちは前にも似たような境遇の人雇ったことがあるんですよ。そいつは結婚して、嫁さんの実家の方に移るっていうんで辞めてったけどね」
「そうですか……」
「仕事さえ真面目にしてくれりゃ構わんですよ。誰だって挫折する時もあるし、間違う時だってある。でもやり直せるのが人間だ」
 足立は一瞬言葉に詰まった。
「……ありがとうございます。よろしくお願いします」
 膝の上で両手を握り締め、深々と頭を下げた。
 タイミングを計っていたのか、話が終わったところへ奥さんがやって来た。手に紙袋を提げている。畑中がそれを受け取り、なかを示しながら説明してくれた。
「制服ってほど上等なもんじゃないけど、一応うちの作業着。着替えるところないんで朝来る時にはいてきてもらえますか。上着もあるけど、まぁ今は暑いし、お客さんのところ行くんじゃないなら、みんな着ないで済ませるかな」
「一応二本入れておきましたけど、もし古くなったりしたら言ってくださいね」
「はい」
 翌日からさっそく通うことになった。二人は店の外まで見送りに出てくれた。
「それじゃあ、失礼します」
「お気を付けて」
「明日からよろしくな」
「――はい」
 通りに出た足立は、夜になったらさっそく堂島に電話しようと考えた。そうして帰る道すがら、時計屋で小さな目覚まし時計と安い腕時計を購入し、汗を掻くだろうからとハンドタオルを何枚か購入し、着替え用にとTシャツを何枚か買い込んだ。学生の姿の目立つ駅前通りを歩き、ふと不動産屋の前で足を止めた。
 正面のガラスに幾つも物件の間取りが貼り付けてある。単身者用のワンルームや1Kの部屋を眺めてみた。家賃は確かに高くはないが、借りるとしたら部屋代だけでは済まない筈だ。礼金はなしのところも多いが、敷金はどうしても必要になるし、前家賃や仲介手数料を考えるとなると、ひと月やそこらであの部屋を出るのは難しいだろう。
 雇ってもらったばかりで金を借りることなど出来るわけがない。それに、堂島へ返す金もある。
 ――どうしよう。
 この前はすぐに出ていけばいいと安易に考えた。昨日の晩までそうするのだと思っていた。でも。
『俺が足立さん、捕まえたんじゃないですかっ』
 このままではまた同じことの繰り返しだ。逃げて、見ないフリで誤魔化して、自分だけが楽になれる。
 何も変わらない。
「……」
 不動産屋の入口が開いて、制服を着た女性が出てきた。足立を見るとにこりと笑い、
「お部屋をお探しですか? 他にも物件がございますし、よろしかったら――」
「あ、いえ」
 なかへどうぞと言われるのを断り、足立は歩き出した。
 来た時よりも電車は混んでいたが、不思議とあまり気にならなかった。
『誰だって挫折する時もあるし、間違う時だってある』
 帰りの電車のなかで畑中の言葉を思い返していた。でも、やり直せるのが人間だ――。


 孝介から電話があったのは六時少し前だった。今会社を出たので、七時頃には戻れると言う。面倒なので弁当でいいですかと訊かれ、足立は同意した。このあいだ貰ってきたメニュー表を見ながら弁当の種類を選び、電話を切ったあとは、ひたすら帰りを待っていた。
 玄関の扉が開く音が聞こえ、足立が迎えに出ると、孝介はちょっと驚いた顔をしてみせた。
「どうしたの?」
「いえ……誰かが居るのって、久し振りの感覚なもんで」
 お帰りと言うと、孝介は少しはにかみながら、ただいま、と返してくれた。
 飯を食いながら仕事の話をした。決まったことを伝えると、孝介は素直に喜んでくれた。
「叔父さんには報告しました?」
「うん。君が帰って来る前に電話した。『よかったな』って言ってくれて……」
「そっか」
 そう言う孝介も、やはり嬉しそうだった。心配してくれていたのだろう。そう思うと胸が詰まるようだった。
「……あの」
 飯が終わりかける頃、足立は改めて声を掛けた。
「……ちょっと相談っていうか、お願いがあるんだけど……」
「なんですか?」
 足立は箸を置き、グラスの緑茶をひと口飲んだ。
「あの、……ここの家賃と光熱費半分出すから、しばらく置いてもらえないかな。一時的にっていうんじゃなくて、その……同居人って形で」
「……」
「あの、勿論君が出ていけって言うんなら、すぐに――あ、いや、すぐには無理かも知れないけど、頑張ってお金貯めてなるべく早くに出れるようにするから」
 孝介は漬物を口に放り込んで考えている。しばらく返事はなかった。
「……駄目かな?」
 漬物を食い終えた孝介は、同じように箸を置き、こっちに向いた。
「俺も、ひとつだけお願いがあるんですけど」
「な、なに?」
「……もし将来的に足立さんがここを出ていきたいってなったら、その時は前もって話してください。……何も言わずに消えたりしないでください」
 そんなことかと拍子抜けしてしまった。だが孝介は真剣だ。足立は何度もうなずいた。
「わかった。約束する」
 足立の返事に、孝介は安堵したみたいに息を吐いた。
「よかった」
 そうして照れたように笑うと、片手を差し出してきた。
「じゃあ改めてってことで」
「う、うん」
 手を握り返して握手を交わした。共同生活の始まりだった。
 晩飯のあとに見たテレビはグルメ番組だった。カツ丼の美味い店を紹介している。飯を食ったばかりなのに、二人でやたらと「食いたい、食いたい!」と盛り上がった。
「ああいうのはお店に行くしかないよね」
「いや、カツ丼自体は家でも作れますよ。めんつゆがあれば簡単です」
「ホントに!?」
 思っている以上に孝介は料理が得意なようだ。少しやってみたいと言ったら、「初心者向けの本ありますよ」と言って自室から持ってきてくれた。和食中心の教本で、野菜の切り方や下ごしらえのし方、出汁の取り方まで写真付きで載っている物だった。
「すごいね。ちゃんとこういうの持ってるんだ」
「なんでも基本が大事なんです」
「なるほど」
 言いながら足立はページをめくってみた。ほうれん草のお浸し、かぼちゃの煮物、などといった料理が並んでいる。火加減の強さまで説明してあって、なるほど、これなら自分でも出来そうだ。
 ぱらぱらと見ていくと、筑前煮のページに何か文字が書き付けてあるのをみつけた。材料の欄にある「しょうゆ……大さじ2」の脇に、「1と小さじ2、薄味が好み」とある。孝介の字ではない。
 他のページも見てみた。何種類かの料理に、同じような文字で幾つか注意書きのようなものが書かれてあった。丸みを帯びた可愛らしい文字だ。確信を持てるわけではないが、恐らく女性の手によるものだろう。
『……彼女とか居ないの?』
『半年前に別れました』
 ――ああ、そっか。
 孝介からページを隠しつつ思った。――そうだよなぁ。変わってなくても、時間は過ぎてたんだよなぁ。
 そうしてページの陰から孝介の顔を盗み見て、その隣に座る見知らぬ誰かの姿を想像して、耐えられなくなって、足立は目を閉じた。自分勝手だなと、自らを嘲笑いながら。


なんでかなぁ・その2/2012.02.21


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