日は完全に落ちたようだ。霧が少し濃くなったように感じられる。
「……やっぱり生田目だった――ってことは、ねぇよな?」
 陽介の言葉に直斗が首を振った。
「昨日の話からそれは絶対に有り得ません。もし仮にあの話が全て嘘だったとしても、やはり彼には動機が存在しない。失踪事件は確実に生田目の犯行ですが、四月の二件の殺しに関しては真犯人が存在します」
「……四月には稲羽市に居た」
 確認するように呟くと、直斗はそうだという顔でうなずき返してくれた。
「真犯人は四月には稲羽市に居た。山野アナと小西さんの二人となんらかの接点があり、生田目の存在も知っていた。七月には久保美津雄をテレビに放り込み、二度にわたって脅迫状を先輩の家へ届けもした」
「俺らのことも知ってるし、下手したら菜々子ちゃんのことも個人的に知ってる可能性がある?」
「そうです。そして恐らくは、今現在もこの町に住んでいる人物――」
 もしかしたら自分が毎日会って言葉を交わしている可能性もある。二人の人間を殺しておきながら何食わぬ顔で、まるで当たり前のように。
 本当にそんな奴が居るのかと思わずにはいられない。しかしそれは実在する人物だ。そうでなければ一連の事件は起こらなかった。生田目が暴走し、誘拐事件が続くこともなかった。これは現実に起きていることだ。
 そいつは四月には稲羽市に居た。
 山野真由美と小西早紀の両者となんらかの接点があった。
 自分たちの行動を察知していて、生田目の行動もある程度把握していた。
 そして孝介や生田目と同じ能力を持っている――。
 ……?
 孝介は息を吐いて宙をみつめた。何かが閃きそうだった。俺は何かを知っていると感じた瞬間、記憶が勝手に逆回転を始め、意味のある項目を探し始めていた。何が出てくるのか自分でもわからなかった。孝介は耳の奥で再生されたその声を一方的に聞かされていた。
『お願いだから無茶しないで』
 懇願する足立の姿。何かを思い悩んでいる足立の姿。爪先からゆっくりと熱が失われていく。寒気に身震いをし、思考を止めようと思うのに、孝介の意志に反して記憶は勝手に再生を続けていた。
『とっくの昔に終わってるし、別にどうでもいいよ』
『知ったら、僕のこと嫌いになるよ』
『……嫌だ』
 全力で求めてくるクセに、ある箇所には絶対触れさせてくれなかった。全部を投げ出してくるクセに、ある部分には一歩も立ち入らせてくれなかった。
「不思議なのは目撃情報がひとつも浮かんでこないことです。元々この町に住んでいて多少でもおかしな傾向が見られたら、そういった噂のようなものが拾える筈なんですが、不審人物に関しては驚くほど情報が入ってこないんです」
「よっぽど馴染んでるんだろうなぁ」
 二人の会話は続いていたが、孝介の耳には一切届いていなかった。孝介には徐々に速度を増す自分の鼓動が感じられた。何故こんなに動揺しているんだと自分に問い掛け、答えを探しかけたがあわててやめた。口のなかが一瞬にして干上がっており、唾を無理矢理飲み込んだ時、その音があまりにも大きいので二人に聞かれてしまったんじゃないかとひどく恐れた。
 ――あぁそうだ、あの人はよほど深く馴染んでいた。あまりにも深く馴染み過ぎていて、俺には見えていなかった。きっと誰にも見えていない。その人をみつけられるのは、多分今の俺だけだ。
 俺はその人を知っている。ずっと前から知っていた。俺があの人をみつける以前から、向こうは答えをくれていた。ずっと目の前にそれはあった。手を伸ばせば簡単に届く場所にあったのに。
 なんで。

『僕は汚いから、好きになってもらえる筈なんかないなって』

 吐く息が白くけぶる。いつの間にか三人とも黙り込んで、ぼんやりと雪の降る空を見上げていた。どれくらい時間が経ったのかはっきりしない。景色は白くかすんでおり、そのなかで動く物は、空から頼りなく舞い落ちてくる小さな雪の粒だけだ。
「……あのさ」
 呟きに左右の二人が振り向いた。孝介は口を開いて一度閉じ、ポケットから携帯電話を取り出すと、わざとらしく時間を確認して困った顔をしてみせた。
「ごめん。俺、病院行かないといけないの忘れてた」
「ああ――そっか。二人とも、まだあれだもんな」
「悪いな。あと任せていいか?」
 直斗は一瞬、不満げに表情を曇らせた。しかしそれは束の間のことで、すぐに気を取り直し、
「わかりました。菜々子ちゃんと堂島さん、お大事に」
「ありがとう」
 携帯電話をポケットに戻して歩き出す。最初はゆっくりと、それからやや早足で。霧に紛れて二人の姿が見えなくなったことを確認したのち、孝介は携帯電話を再び取り出して電話を掛けた。コール音を聞きながら半ば駆け出している。電話は繋がらず、留守番電話に接続すると言われた瞬間に呼び出しを切った。だが一度考え直して再度電話を掛け、留守電にすぐ連絡してくれと伝言を残した。
 多分病院に居る可能性が一番高い。電話が繋がらないのならそうとしか思えない。頼むから俺が行くまでそこに居てくれ、頼むから。孝介は祈る思いで走り続けた。まるでテレビのなかをさまよっているような、そんな気が一瞬だけした。


 生田目の病室に向かう途中で足立をみつけた。制服を着た警官に何か指示を出して書類を渡している。そうして振り返り孝介の姿を見たとたん、足立は驚きと喜びを半分ずつ混ぜた顔で「あれえ?」と笑った。
「え、なに? どうしたの?」
「足立さん、あの――」
 背後に立つ警官が不思議そうな顔で孝介を見ている。ここで話をするのは不味い。孝介は足立の側に寄り、少し話があるんですけどと囁いた。
「あぁ、うん。いいよ。え、なに? 聞かれちゃ不味い話?」
「はい」
 孝介の切羽詰まった表情に何かを感じたようだ。足立は警官に振り返ると「ここはもういいから」と言い渡した。警官は短く敬礼を返し、失礼しますと言ってエレベーターの方へ歩き出した。生田目の病室はドアが全開になっており、空のベッドが丸見えだった。
「生田目は――」
「あぁ、別の病院に搬送した。その方がいいでしょ?」
 孝介はその問い掛けには答えず、足立の腕を引いて階段に続く扉を開けた。八階のここまで階段で上がってくるような奇特な人物はそうそう居ない。だが絶対に居ないとも限らない。孝介の声は自然と小さくなっていた。
「あの……足立さんは、あの」
「うん?」
「……違いますよね? 足立さんじゃないですよね?」
「何が?」
 わかるように説明してよと苦笑している。孝介は唾を飲み、言葉を探した。
「……足立さんは、山野アナが殺された時って何してたんですか」
「殺された時? いや、別に殺害現場に居たわけじゃないんだし、何してたって言われてもなぁ」
「じゃあ小西先輩が死んだ時は? 何度か会って話してるんですよね?」
「あぁ、うん。遺体の第一発見者だったからね。一、二回は会ってると思うけど……なんで?」
 孝介は先に立って階段を下りた。そうして踊り場で足を止めて振り返った。足立は階段の途中で同じように足を止め、こちらを不思議そうに見下ろしている。
「足立さん」
「はい」
「……違いますよね? 足立さんじゃないですよね?」
「だから何が?」
 足立は困惑顔で笑った。
「足立さんは、二人を殺してなんかいないですよね?」
「――――――――はあ?」
 何を言い出すのだと足立は呆れている。その表情ひとつで、自分が思い違いをしていたのだと納得することが出来た。そりゃそうだ、なんで足立がそんなことをしなければいけないのだ?
「僕があの二人を? え、それ本気で言ってるの?」
「いや、本気じゃないですよ、ただ念の為っていうか……」
「やだな、僕がそんなことするわけないじゃない」
「……そうですよね」
「そうだよ」
 孝介は息をついて壁に寄り掛かった。心配した自分がバカみたいだった。一気に力が抜けて、孝介は不意に苦笑を洩らした。
「すみません、わかってたんですけど、なんか怖くて――」
「テレビに入れただけだよ」
 言葉は耳を通り過ぎていった。孝介は最初何を言われたのか分からなくて顔を上げた。多分まだ笑っている最中の表情をしていたと思う。足立も同じように静かに笑っていた。そこに居るのは、いつもの彼だった。
「…………え?」
「僕はテレビに入れただけ。死んだのは二人の勝手」
「え……あの、」
「テレビのなかがあんな危険な場所だとは思わなかったけどね。でもまぁ、自業自得じゃない?」
 口のなかが干上がった。
「……からかってるんですよね……?」
 少し前、乞われるままに話をして聞かせた。テレビのなかがどうなっているのか、何故あの二人が死んでしまったのか。
 テレビのなかをうろつくシャドウのこと、霧が充満した世界のこと。
 犯人が持っているであろう能力のこと。
「足立さん」
「……」
 足立はポケットに両手を突っ込み、脇の壁に寄り掛かった。
「……そうだったら良かったのにね」

『なんで足立さんは汚いんですか』

「――嘘だ」
 足立は何も答えなかった。ポケットに突っ込んだ手で、鍵束をかちゃかちゃと鳴らしている。
「嘘だって言えよ!」
 孝介の怒鳴り声が響き渡った。足立はその姿を無表情に眺めていた。
「――なんで?」
 そうして逆に訊いてきた。
「なんでそんなにショック受けてるの? ずっと知りたがってたじゃない、僕が汚い理由」
「それは……でも、こんな――」
「僕が隠し事してるの、ずっと知りたそうにしてたじゃない。なんで? 理由がわかったんだから喜びなよ」
 そう言って階段を一段だけ下りた。
「そんな……まさかそれが理由だなんて、誰が思うんだよ!」
「僕は知ってたよ」
 うつむいてあごを掻き、また手をポケットに戻す。
「君たちが何やってたのかずっと知ってた。誰が誘拐してるのかもわかってた。でもほっといた」
「……なんで?」
 足立が顔を上げた。無表情は相変わらずだ。
「その方が面白いから」
 一瞬にして頭のなかが真っ白になった。孝介は駆け寄り、胸倉を掴むと無理矢理に階段から引きずり下ろした。そうして踊り場の壁に叩き付け、歯を食いしばりながら言葉を探した。抑制していないと滅茶苦茶に殴り付けてしまいそうで怖かった。
「ずっと騙してたのか」
「――そうだよ」
「二人をテレビに放り込んで、生田目が誘拐を繰り返すことも知ってて、ずっと俺を騙してたのか!」
「そうだよ」
「あんた刑事だろ!」
 足立は鼻で笑った。
「ただの公務員だよ」
 そうして、有無を言わせぬ強引さで孝介の手を外した。孝介は握られた手を振りほどいた。足立は乱れた襟元を直してこちらを見た。
「そんな御大層な正義感があったら、最初から人なんか殺さないよ」
「……なんでだよ」
 孝介は事実を受け入れたくなくて呟いた。茫然と言葉を口にしている今も、目の前の現実が信じられずにいた。激しい怒りの後ろには深い絶望が待ち構えていた。
「なんでそんなことしたんだよ……!」
 かちゃかちゃと音がした。足立がポケットに両手を突っ込んでいる。壁に寄り掛かり、少しうつむいて、ずっと言葉を考えている。
「君と、もうちょっと早く会えてたら、やらずに済んだかも」
「……」
「まぁ、結果論だけどね」
「……なに、それ」
「別に君のせいって言ってるわけじゃないよ」
 そう言って足立は小さく笑った。
「僕さ、左遷されてここに来たでしょ? なんかさ、もうどうでもよかったんだ。ほんとーに心底、どうでもよかった」
 異動が決定した時点で足立の人生は終わっていた。元々出世欲が強かったわけではないが、それなりの地位を築き、それなりに安泰の人生を送れるものだと思っていた。なのに勝手に梯子を外され、勝手にお前は終わりだと烙印を押された。
 誰がどうやって納得出来る?
 何かを考えるのも面倒だった。恨むことすら面倒だった。だから煩わしい物は全部捨てた。ウザい物、腹の立つ物、面倒な物、全部捨てた。あとがどうなるかなんて考えなかった。大事にしなきゃいけない物なんて何ひとつ存在しなかった。孝介以外は。
「綺麗ってのは、凄いね」
 足立は観念したように笑っている。
「僕ね、君に会って初めて後悔したんだ。初めて、やらなきゃよかったって思った。君たちがテレビのなか入ってるの知ってからは余計だよ。いつばれるのかってずっとビクビクしてた」
「……だからずっと考えてたんですか」
「そう」
 足立はうつむき、靴の片方を壁に立て掛けた。踵でこするようにして床に足を付き、また立て掛けている。二度、三度。
「最後までばれないといいなって思ってた。生田目が逮捕されたから大丈夫だと思ってたんだけど、ちょっと甘かったね」
「……」
「でもまぁ、君が捕まえてくれるんなら、いいや」
 すっかりあきらめたという表情で足立が顔を上げた。そうして階段の上を見上げ、下を見渡し、
「そういえばいつも一緒に居る子たちは?」
 今更のようにそう訊いた。



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