「……居ませんよ」
「なんで?」
「……まだ俺しか気付いてないから」
言葉の意味を理解するのに少し時間が掛かったようだ。真意を汲み取った時、足立はわずかに首をかしげ、それで? というように孝介を見た。
「どうするの? 一人で僕を捕まえて英雄にでもなる? それともあの子たち呼んでくる? それならここで待ってるけど――」
「一緒に、手を汚したいって」
口のなかが乾いている。上手く舌が回らない。
「あれ、本心ですか。それとも俺が泣いてたから、慰めてくれただけですか」
「……なんで泣いてるの」
「答えてくださいっ」
孝介は乱暴に涙を拭って足立を睨み付けた。再び心臓が早く脈を打ち始めていた。頭で考えるよりも早く口が勝手に喋っている。自分が何を言おうとしているのかが理解出来ない。
まるで夢でも見ているみたいだった。ひどく現実的で、胸が痛くなるほどリアルな夢。だけどここは、リアルな夢だと錯覚してしまうほどひどく現実的な、生の世界だ。
「本心だよ」
ふと真剣な表情になって足立が呟いた。
「君の為だったらなんでもする」
「……今日、うち来てくださいね」
「……」
足立はすぐには答えなかった。何故か困惑気味に視線をそらせて、誰かの助けを求めるように天を仰いだ。
「自分が何言ってるかわかってる?」
「――俺はっ」
胸が詰まってしばらく喋れなかった。孝介は深く息を吸い込み、気持ちを落ち着かせる為にゆっくりと吐いた。その時わずかにうつむいた視界の隅を、霧が漂っているのを見た気がして孝介は振り向いた。
窓のない階段の踊り場に、上の方から少しずつ霧が下りてきている。まるで生き物のようにうねり、踊り場までやって来てまず足立の姿を包み込んだ。あっと思った次の瞬間に霧は払われており、そこに居るのは――いつもの、普段の、ついさっきまで目の前に居た足立だった。言葉を切ったまま黙り込んでいる孝介を、少し心配するみたいな目でみつめている。
「……俺、足立さんが好きです」
霧のなかにあっても足立は変わらない。――変わる筈がない。
「足立さんは、俺のことどう思ってるんですか」
「好きだよ」
一片の迷いもなく足立は答えた。曇りのない瞳が孝介をみつめている。孝介は吸い寄せられるようにフラフラと目の前へ歩いていって、ほんの鼻先で立ち止まった。足立が目の奥を覗き込んできた。孝介も同じように目のなかを覗き込んだ。
暗闇がそこにあった。ずっとみつめていると闇の奥へと引きずり込まれ、何も考えられなくなっていく。
「……綺麗だよ」
うっとりと夢を見るような目だ。出会った頃から何度もこの目を向けられた。孝介だけをみつめる目、他には何も見えない目。もし本当に自分が綺麗なのだとしたら、それはきっと足立のなかに潜むこの闇をみつめているからだ。足立のなかの闇が綺麗だからそれを見た自分が綺麗に見えて、その綺麗にうっとりする足立に孝介はもっと見惚れてしまう。
そこには何もかもがあって、何もない。
綺麗だ。
「世界で一番愛してる」
そのキスはこれまで経験したなかで最高に甘く、それでいて重々しい現実の味がした。
孝介は霧のなかを彷徨っていた。どことなく見覚えのある道だと思って右側を見れば、そこにはいつも目にする車庫の姿があった。堂島家のはす向かいの家のガレージだ。孝介が通りかかったせいでセンサーが反応し、霧が広がるなかに小さなライトの淡い光を発した。
ということは――と逆の方を見ると、少し先のところに懐かしい堂島家の玄関があった。霧のなかで見上げるそれは、一見本物のように感じられるが、どことなく自分が知っている堂島家とは違っているような気がした。
どこが、とはすぐには言えない。だけど、何かが違っている。
孝介は恐る恐る玄関に近付いていった。なかには誰も居ないようだ。玄関も、台所の窓にも、二階のどの部屋にも明かりは点いていなかった。制服のポケットを探ると、きちんと鍵はある。だがすぐになかには入らずに、まず車庫の方から確かめることにした。
シャッターが上がったままの車庫は空になっていた。遼太郎の車はない。これはまあ、時間的に仕事から戻っていないだけだろう。他には菜々子が使う子供用自転車が一台。あるのはそれだけだ。多分ここは、何も変わっていない。
孝介は意を決して玄関に向かった。持っている鍵で扉を開けてなかに入る。
「ただいま」
返事はない。少し時間を置いてからもう一度ただいまと言ったが、やはり返ってくる声はなかった。孝介はしばらく玄関に立ち尽くし、がらんとした家の空気を感じていた。
――ここはどこだ。
靴を脱いで家に上がる。台所と居間の電気を付ける。やけに綺麗に片付いているのが不思議だった。菜々子のぬいぐるみもないし、遼太郎のコーヒーカップもない。
――二人ともどこに行ったんだ。
生活の痕跡が欠片もみつからない。
俺は一体どこに迷い込んだのか。
ふと寒気を覚えて我が身を掻き抱く。その時孝介は見覚えのある物に気が付いた。台所のテーブルに封の開いた煙草の箱がある。中身を調べるとまだ三本ほど残っていた。足立が愛用している銘柄だ。
「足立さん?」
どこかに隠れているのかと思って声を掛けたが、相変わらず返事はなかった。いよいよ本気で不安になった孝介は、家中を隅々まで探し回った。本来人が隠れそうもない天袋のなかまで確認したが、やはり家のなかには誰一人居なかった。
――なんだ、これ。
見た目も作りもまるっきり自分が知っている堂島家だ。なのに、肝心の住人が居ない。
孝介は恐ろしくなって玄関を飛び出した。だが外には霧が漂い、辺りは薄暗く、下手に歩き回ると遭難する恐れがあった。何故自分一人だけでこんなところに居るのか理解出来なかったが、このまま外に出るのは危険だ。仕方なく孝介は家に戻り、ソファーに座り込んで頭を抱えた。
なんでこんなことになっているのかが思い出せない。
しばらくのあいだ断片的に残る記憶を順番も滅茶苦茶なまま頭のなかで並べていたが、ふと視線を上げた時、電話機の姿が目に入って孝介は立ち上がった。
今更のようにポケットから携帯電話を取り出す。しかし画面は真っ暗だった。電源ボタンを押したが反応はない。バッテリーが切れたのか――それとも、この霧のなかでは使えないという意味か。
孝介はフラフラと電話の前へ歩いていって受話器を持ち上げた。繋がっていることを知らせるツーという音が延々と続いている。ボタンを押そうとして指を伸ばし、だけど、どこに掛けたらいいのかがわからなくて手を戻す。110番? 119番? そもそも菜々子はどこへ行ったんだ? 何故叔父さんは帰ってこない?
「……どこだよ」
絶望と共に受話器を置いた。
ソファーに戻り、横向きに座って両膝を抱え込んだ。この霧はいつになったら晴れるのか。果たして夜は明けるのか。この無人の家に誰かが戻る日はやって来るのか。答えの出ない疑問がグルグルと頭を回る。
孝介は今、一人だ。
どうしようもなく一人きりだ。
テレビは怖くてつけられなかった。電源を入れたら、画面の向こうに見知らぬ自分が立っている気がした。怯える自分を見て、所詮お前なんかその程度だと笑われるような気がした。外ではきっと自分が出ていくのを何者かが待ち構えている。薄暗い外に出て視界の効かない霧のなかで、自分を食い物にしようと息を潜めている。
カチカチと何かが鳴った。自分の歯の根が噛み合わず、歯と歯がぶつかる音だった。
どれ位そうしていたのかわからない。突然玄関の扉が開いた。
「ただいまー」
孝介は驚いてソファーから飛び降りた。あわてて駆け寄ると、足立が扉に鍵を掛けているところだった。
「……お帰りなさい」
「お、たっだいまー」
三和土の足立はこちらを見上げて呑気に笑っている。霧の世界、無人の家のなかで、足立だけが妙に目立って見える。孝介は茫然と突っ立っていた。足立は何も言わない孝介を見て首をかしげ、「どしたの?」と呑気に訊いた。
「……足立さん一人ですか?」
「一人だよ。なんで?」
――なんでだろう。
誰かが自分を捕まえに来るのだと思っていた。大勢の人間が押し掛けてきて、有無を言わせずに連れていかれるのだと思っていた。そうでなければ永久に一人きりでここに居続ける羽目になるのだと、漠然と考えていた。
「君こそ、一人なの?」
ふと笑顔を収めて足立が訊いた。何故そんな当たり前のことを訊かれるのかわからなかったが、孝介はうなずいた。
「一人ですよ。……ずっと一人でした」
「そう」
足立は靴を脱ぎながら「僕もだよ」と呟いた。
「僕もずっと一人きりだった」
目の前に立って、真剣な顔でみつめてくる。
「……足立さんには、俺が居るじゃないですか」
「うん。そうだね」
そう言って小さく笑い、額を軽くぶつけられた。互いに抱き合い、腕のなかにちゃんと相手が居ることを確かめる。足立はここに居た。孝介もここに居る。
「君もだよ」
耳元で足立が囁いた。
「君にも、僕が居るよ。一人じゃないよ」
「……じゃあ二人きりだ」
「そうだね」
何故かおかしくて孝介は笑った。霧のなかをどうやって足立がここに辿り着けたのかはわからない。でも、もうそんなことはどうだっていい。一人だと思っていた世界に、足立が居てくれた。そして今も居てくれる。それで充分だった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
顔が近付いてくるのを見て、孝介は静かに目を閉じた。完全に目を閉じる寸前、足立の瞳の奥で暗闇が小さく笑っているのが、かすかに見えた。
ニュースを見ていると天気予報が始まった。予報では今日の霧は薄めだと言う。電車が遅れなければそれでいい。孝介はグラスのジュースを飲みながら考えた。
「そろそろ時間だろ」
「うん」
遼太郎の言葉に返事をしてジュースを飲み干した。グラスを置き、荷物を持って立ち上がる。
「悪いな、最後だってのに送ってやれなくて」
「いいよ。仕事でしょ? 気を付けてね」
靴を履く後ろに遼太郎が立っている。孝介は身支度を整えて振り返った。遼太郎は柱に片手をついてこちらを見下ろしていた。
「――なあ」
声に孝介は顔を上げた。自分よりも背の高い叔父だ、かなり見上げる恰好になる。
「お前、ここに来たこと後悔してるか?」
「えぇ?」
何を言うのだと孝介は笑った。しかし遼太郎は真剣な表情で返事を待っていた。だから孝介も真剣に言葉を探した。
「してないよ。俺、この町に来てよかったと思ってる」
「……」
遼太郎は何か言いたそうに口を動かしたが、すぐには言葉が出なかった。しばらくして、そうか、と呟いただけだった。
「姉さんたちによろしくな」
「叔父さんも、菜々子によろしく伝えて。早く元気になれって」
「ああ。たまには電話してやってくれ」
「わかった」
そうして互いに言葉を失った。孝介は息を吐くと、深々と頭を下げた。
「お世話になりました」
「……元気でな」
孝介は玄関を出た。薄い霧が出迎えてくれた。
電車は貸し切り状態だった。孝介は網棚に荷物を載せると進行方向に背中を向けて腰を下ろした。未練がましいなぁと自分でも思ったが、どうしても最後までこの町の風景を目にとどめておきたかった。
色々なものに出会えた町。
自分の人生を変えた町。
後悔はしていない。一切していない。
心残りがあるとすれば、今日からしばらく足立に会えないことだけだ。ゴールデンウィークには泊まりに行くと約束をしたが、ひと月以上も先の話。まるで十年も待たなければいけないような心境だった。本当にやっていけるだろうか。孝介の心には不安しかない。
電車が川を渡っていく。孝介は少しのあいだだけ目を閉じた。鉄橋を渡り終えた時、いつやって来たのか目の前に一人の青年が座っていた。向かい合う格好で腰を掛け、手に持った写真をやたら熱心に眺めている。
孝介はまた窓の外に目を移した。流れ去る風景が悲しかった。
「――随分熱心に見てるんですね」
次の駅に着いて、そこを出発しても青年はずっと写真を眺めていた。だから思わず声を掛けていた。電車は相変わらず二人の貸し切り状態だった。
「ああ。大事な物だからな」
青年は言った。
「そんなに?」
「俺の宝物だ」
「へえ……」
たかが写真がそんなに大事なのだろうか。孝介はふと興味が湧き上がり、そっと上の方から覗き込んでみた。青年と同じ年頃の仲間が集まって写っている、集合写真のようだった。
「あんたは持ってないのか?」
「俺ですか? 俺は、別に――」
写真だったら携帯電話に山ほどデータが残っている。足立が単独で写っている物、二人で一緒に撮った物、何気ない風景、消してと懇願されただらしない寝顔も何もかも。
大事な思い出だ。
「――そうか、あんたはそれを選んだのか」
「はい」
俺にとっては宝物です。孝介は言った。心の底からの言葉だった。それを聞いた青年が顔を上げた。自分とそっくり、瓜二つの人物が目の前で穏やかに笑っている。
「後悔はしてないな?」
孝介は同じように笑い返した。
「あなたが微塵もしていないのと同じくらいに」
「そうか……」
そうしてまた写真に目を落とし、そうか、と繰り返した。
電車が短いトンネルに入り込んだ。トンネルを抜け、窓の外に風景が戻った時、既に青年は消えていた。
孝介は一人きりだった。
窓枠に肘を付き、そのまま頬杖をついた。次の駅に着くまでずっと外の景色を眺めていた。
世界で一番・さいご/2014.08.03