眠ろうと努力はした。部屋の電気を消して布団に入り、目を閉じて眠ろうとした。しかしどれだけ時間が過ぎても眠気は一向にやって来なかった。
 環境を変えればなんとかなるだろうかと孝介は毛布を持って居間に行き、テレビを付けたままソファーで横になった。翌日は学校が休みだから別に遅くまで寝ていても平気だ。眠くなるまで起きていれば、そのうちきっと眠れるだろう。そんな投げやりな気持ちで鬱々と時をやり過ごそうとした。
 だから実際にどれだけ眠ったのかははっきりしない。ただ気が付くと上から足立が顔を覗き込んでいて、それに気付いた時、既に孝介は目を醒ましていた。
「……どしたの? 具合でも悪いの?」
 眠っていたという実感が全くない。孝介は体を起こしてソファーに座り直した。足立は腰をかがめてじっと顔を覗き込んでくる。
「え、なに、風邪? 大丈夫?」
「……今日は来れないって言ってたのに」
 額に手を当てられたまま孝介は呟いた。風邪じゃないですよと言うと、それでも不安そうな表情を残して足立は目の前に腰を下ろした。
「来れないって言ってたのに」
「あぁ、うん。少し時間があったから、ご飯のついでにちょっとだけ顔見に来たんだ」
 そう言って孝介の片手を取り、自分の手の平に挟んだ。手の甲を撫でたあと、温めるように包んでくれる。
「……なんで?」
「え?」
 眠っていたという事実が思い出せなかった。それ以前に、自分の体が家に戻っていることが不思議で仕方がなかった。
 孝介の意識はまだ生田目の病室に居た。仲間に取り囲まれ、脚を抱え上げたところで止まっている。誰もが非難の視線を送っているのがわかった。怒りに腕を震わせながら孝介は立ち尽くしていた。あともう少しなのに、何故誰も自分を許してくれないのかが理解出来ない。
「なんで駄目なの?」
 言葉の意味がわからないという顔で足立は首をひねった。孝介は停滞した意識のなかで続く言葉を探した。
「なんで殺したら駄目なの?」
「……」
 足立はうつむき、なんでだろうねと呟いた。
「あいつは菜々子を殺しただろ? なんで仕返しに殺すのがいけないんだ? みんなだって」
「菜々子ちゃんは死んでないよ」
 続けて言葉を口にしようとした時、不意に涙が落ちそうになり、あわてて口をつぐんだ。
「……わかってる」
 呟きに足立が顔を上げた。安心したように笑っているのを見て、やっと止まっていた心が動き出すのを感じた。足立の手を握り締め、安堵に息を吐いて涙をこぼす。そのあいだに足立は腰を上げて隣に座り込んできた。ゆっくりと髪を梳いたあと、しっかりと抱き締めてくれた。
「結果論だけど、やらなくて良かったじゃない」
 孝介は首を振った。
「俺、……でも、本気だったよ。本気であいつのこと……っ」
 殺すのが何故いけない?
 その疑問に対する答えを、孝介はみつけられない。足立も長いあいだ黙ったままだった。孝介は涙を止められなかった。何故泣いているのかも自分ではわからなかった。
「でもさ、結果としてやらなくて良かったって、自分では思ってるんじゃないの?」
「……知らない」
「だから今、安心して泣いてるんじゃないの?」
「知らないよ……!」
「きっとそうだよ」
 菜々子は生きていた。奇跡的に息を吹き返してくれたのだ。孝介は言葉を失い、しばらく泣いた。確かにこの涙は安心したせいなのかも知れない。だけどあの時抱いた殺意も、今手の平に乗せられそうなほど鮮明に覚えている。
 孝介が落ち着くまで、足立はずっと側に居てくれた。肩を抱き、もう片方の手で孝介の手の甲を撫でてくれていた。
「……でも、もしまた同じようなことがあったらさ、連絡ちょうだい」
 息が整った頃に足立が言った。孝介は意味がわからなくて足立を見た。
「僕も手伝ってあげるから」
 ――何言ってんだろう、この人。
 バカにされているのかと疑ったが、足立は静かに笑うばかりだった。
「……そこは普通、止めるもんなんじゃないんですか」
「止めて欲しいの?」
「……」
 わからない。何度か繰り返し自問してみたが、本当に答えが出なかった。
「わかりません……どうなんだろ。ただ、足立さんを巻き込むのは、やだな」
「僕は除け者にされる方がやだな。どうせなら一緒に手を汚そうよ」
 そうして、当然でしょ、と言うように笑った。その笑顔があまりにも無邪気で、呆れながらも嬉しくて、孝介はまた泣いた。


 振り返ってみると、色々な意味での分岐点に立っていたのだと孝介は感じる。あの時生田目をテレビに放り込んでいたら、今とは全く違った未来があった筈だ。それがどういう世界なのかは想像するしかない。あとになってみればなんでも言える。全ては結果論だ。
 その瞬間に出来るのは、選択することだけだ。


 白い風景のなかに、白くて小さな物が落ちてきた。
 ――雪?
 孝介は足を止めて頭上を仰ぎ見た。しかしいくら待っても続く物は落ちてこなかった。
「月森?」
 道の少し先のところで陽介が足を止めている。孝介はあわててあとを追った。
「どしたん?」
「いや、雪が降ってきた気がしたんだけど……」
 一緒に歩き出しながら陽介も空を見上げた。同じように孝介も空を見たが、やはり雪は降ってこなかった。
「見間違いだったかも」
「まぁ、この霧じゃわかりづれぇよな」
 陽介は周囲を見回して苦笑する。そうだなと孝介も答え、上着のポケットに両手を突っ込んだ。
 吐く息が白い。ここ何日ものあいだ、世界はうっすらと白に染まっている。
 夕方だった。日は暮れかかっており、特捜隊のみんなは町を歩き回って疲れた足を、愛家目指して引きずっていた。さっきから千枝が「肉丼〜、肉丼〜」と呪文のように唸り続けていてやかましい。完二が「チャーシューメン倍盛〜、倍盛〜」と続け、それに乗ったりせが「回鍋肉〜、回鍋肉〜」と歌うように繰り返している。
「やめろお前ら、すっげぇ怪しい集団だぞ」
 雪子が我慢出来ずに吹き出した。りせに腕を引っ張られる直斗はあからさまに困惑顔だ。先行きの見えない状況のなかで、いつもどおりのみんなに少しだけ安心した。
 ここ数日で色々なことが変わってしまった。菜々子の容態が急変した。遼太郎はふさがりかけていた傷口が開いてしまった為に絶対安静を言い渡されている。殺人犯は生田目でないことが判明した。そしてクマが居なくなった。
 変わらないのは町を覆う霧だけだ。
「あああぁぁ、つっかれたぁ」
 愛家のイスに腰を下ろした途端、千枝はテーブルに突っ伏した。他の皆も似たり寄ったりだ。疲労感だけが蔓延していて、総出で行った聞き込みになんの収穫もなかったことが見て取れた。孝介はこっそりとため息をついてメニューに目を落とした。半ば予想していたことではあるが、やはり状況は厳しいようだ。
「っつうかさ、この期に及んで真犯人がまだ町に残ってると思うか?」
 食事の最中、陽介が言った。
「もうどっかに逃げちゃったとか?」
「え、でも月森くんのところに脅迫状が届いたじゃない。っていうことは、少なくとも先月の頭までは居たんじゃないの?」
「僕はまだこの町に残っていると思います」
 そう答えたのは直斗だった。皿に盛られた五目炒めのなかからキクラゲだけを選り分けている。
「脅迫状の内容から見て、長期的に先輩たちを観察していたことは間違いありません。これだけ長いあいだ状況を見守っていた真犯人が、特別な事情がない限り現場を離れるとは考え難い。むしろ生田目の処遇がどうなるのか気になっているんじゃないでしょうか」
 そう言ってキクラゲを口に運んだ。嫌いなのかと思ったらそうではなかったらしい。
「……真犯人ってさ、私たちの知ってる人なのかな」
 りせの呟きに皆が振り返った。
「もし知ってる人だったら、なんか怖いなって思って。だって二人も人を殺しておいて、それでも顔を合わせたら普通に話してたかも知れないんでしょ? ちょっとぞっとするっていうか、どういう神経してんのかな、って……」
「殺人犯というのは、案外普通の人ですよ。なにも特別な人だけがなるわけじゃありません」
 直斗の言葉には妙な説得力があった。そのせいだろうか、みんな何かを考え込むような顔で静かに食事へと戻っていった。
 孝介も箸を動かしながら、その通りだなと内心で同意していた。一昨日は一歩間違えれば自分もそうなるところだったのだ。多分それは些細なきっかけでも行われる。殺人を犯す者とそうでない人を分けるのは、本当に僅かな差なのだろう。
「話を整理しましょう」
 食事を終えたあと、直斗が言った。
「まずマヨナカテレビという現象は稲羽市のなかだけで起こっています。真犯人がどういう形で関わっているのかはわかりませんが、それを利用しているのであれば、少なくとも山野アナと小西さんが殺された当時、真犯人が市内に居たことは間違いありません」
「で、脅迫状の件から見て、恐らくはまだこの町に居る、と……」
「そうです。そして脅迫状が直接先輩の家に届けられたという事実から、誰がさらわれた人を助けているのかはわかっている筈です。僕たちが今日こうして集まっていることも、もしかしたら知られているかも――」
「え、気が付かないとこで見られてるかも知れないってこと? うぅわ、きっしょ」
 今更のように声を上げ、千枝は我が身を掻き抱いた。
「それと、生田目の行動もある程度は把握していた可能性があります。それから脅迫状なんですが」
 直斗は一旦言葉を切り、水の入ったグラスを口に運んだ。
「僕は個人的に、二通目の内容がひどく気に掛かるんです」
 皆は不思議そうに顔を見合わせた。
「二通目って……なんで?」
 雪子の質問に答える為か、直斗は手帳を取り出している。
「『今度こそやめないと、大事な人が入れられて、殺されるよ』……生田目本人が書いたのであれば、ひどく挑発的な文章だと思います。でも真犯人が書いたと考えると、少し不思議な気がしませんか」
「なんでだよ。先輩や俺ら振り回して楽しんでるだけじゃねぇか」
「そもそも真犯人の目的はなんなんだ?」
 孝介は思わず言っていた。考えがまとまらず、少しイライラし始めていた。詰問口調に驚いたのか、陽介がびっくりした顔で振り向いた。
「単にあの二人を殺したいだけなら、目的は果たした筈だろ? なんでそのあとも町に残ってたんだ? 下手したら逮捕されるかも知れないんだぞ?」
「それは――」
「……捕まらないという絶対的な自信が真犯人にはあったから、ですかね」
 呟いた直斗も、そうだという確信があって口にしたわけではないようだ。恐らく状況を振り返ったらそうとしか思えないから、という程度だろう。孝介は思わず天を仰いだ。
「ちょっと考え直してきます」
 手帳をポケットに戻したあと、暗い表情で直斗が立ち上がった。その後ろ姿を見送った孝介は、グラスの水を飲み干して同じように席を立った。
「――先輩」
 店の外で直斗は空を見上げていた。つられて空を見ると、小さくて白い物がひらひらと頼りなく落ちてきているのが見えた。
「雪か……」
「はい」
 やっぱり降っていたようだ。
「どうせならもっとちゃんと降ればいいのにな」
「この辺りはあまり積もらないそうですよ」
 そうして、少し残念ですねと呟いた。直斗もあまり積雪とは縁がないようだ。しばらくのあいだ、二人とも無言でちらちらと降る雪を見上げていた。
「うお、さっぶ」
 やがて陽介もやって来た。我が身を掻き抱き、しきりに寒い寒いと繰り返す。
「そんなに寒いなら無理して出るなよ」
「いや、なんか煮詰まっちまってよ」
 ここに居る方が、頭が冴えていいと言う。そうして直斗の真似をして空を見上げ、雪か、と呟いた。
 孝介はポケットに片手を突っ込んでぼんやりと霧を眺めていた。ここ数日で霧は濃さを増し、今では殆どテレビのなかと変わらないくらいだった。
 山野真由美と小西早紀はこの霧のなかをさまよって自らの影に出会い、殺された。ふとどこかに誰かの影をみつけてしまう気がして、孝介は思わず目を伏せた。
「直斗」
 陽介が呼びかけると、直斗ははいと答えて振り向いた。
「お前、二通目の脅迫状が気になるって言ってただろ。あれ、どういう意味だ?」
「……なんとなくですが、菜々子ちゃんのことを知っているような感じがしませんか」
 孝介はぎょっとして振り返った。
「いやでもさ、新聞に取材されたんだろ? それで噂が広まったんじゃねぇか」
「確かに『稲羽市で話題になった人物』という意味で誘拐の目標になるのはわかります。でも春に二人の女性を殺害した人物が、何故わざわざ今になって警告をしたんでしょうか」
「……ちっちゃい子がさらわれんのが忍びなかったから……とか」
「そうだとしても、なんだかちぐはぐな印象を受けるんです。もしかしたら真犯人も、菜々子ちゃんが巻き込まれるなんて思っていなかったんじゃないでしょうか」
「――俺の知ってる人ってことか?」
 菜々子を知っている、という言葉が妙に心に残った。直斗は少し考えたあと、わかりませんと首を振った。
「先輩がこの町で知っている人物というと、どういった人たちですか」
「俺が知ってるのは……お前らと学校の先生と、バイト先の人と商店街の人……菜々子の友達とかは殆ど知らないな。話は聞くけど、うちに遊びに来たことはないし。あとは――」
 孝介は考え、口を閉じた。無言で首を振ると、左右の二人は揃ってため息をついた。



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