「もうちょっと話聞いてもいい?」
「いいですよ」
「テレビのなかってどんな風になってるの?」
あちこちに配線があるのかと足立は言った。孝介は笑って首を振った。
「色々です。商店街にそっくりのところもあるし、外国にあるお城みたいな場所もあるし」
「お城? なんで?」
「さあ……テレビに入れられた人によって場所が出来るので、その人によるとしか……あと、こんな風に霧が凄いです」
明るくはあるが明確な目印がないので、クマやりせが居なければ簡単に帰る道を失ってしまう。現実世界でも交通事故は増えているようだ。このままの状態が続けば、様々なところでもっと影響が出るだろう。
「手、繋いでもいい?」
「え?」
「家まで送るよ。それまではぐれないようにしないと」
そう言うと、孝介の返事も聞かずに手を握ってきた。前後から誰かが来るとか、そうしたらその誰かに見られるとか、ちっとも心配していないようだった。
――あぁ、もう。
本当になんて強引な男なんだろうか。そしてなんでその強引さが嫌じゃないんだろうか。今が夜で本当に良かった。嬉しくて恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しくてたまらないこんな顔、とてもじゃないが見せられやしない。
戻りの道行きはどちらも黙りがちだった。そして幸いにも誰かとすれ違うことはなかった。元から八時を過ぎれば人通りはほぼ絶える。このままずっと歩いていたかったが、足立に手を取られたまま、結局は家に帰り着いてしまった。
玄関の鍵を開けて振り返ると、足立はポケットに両手を突っ込んで孝介をみつめていた。家に入るのを見届けるつもりらしい。
「あの……」
「ん?」
口を開いたはいいが、上手く言葉が出てこなかった。ようやくのことでお茶でも飲んでいってくれと言ったが、
「もう遅いし、帰るよ」
「……」
あっさりとした返事。孝介は迷った。
「明日は仕事早いんですか」
「いや、午後からだけど」
「……」
「なに?」
足立は優しく顔を覗き込んできた。孝介は口を開き、言葉が出なくて口を閉じる。じっと見られているのが恥ずかしく、でも離れるのも嫌でたまらない。孝介は足立が着ている上着を指でつまむとそっと引き寄せ、帰っちゃヤダと囁いた。
「子供みたいなこと言うね」
足立はあからさまに苦笑した。
「……どうせガキですよ」
「うはは。逆切れだ」
腹が立って顔を上げると突然キスをされた。孝介は驚いて目をぱちくりとさせた。唇を離した足立は、こちらが驚くほど真剣な表情をしていた。
「ごめん。今日は帰る。一緒に居ると何するかわかんなくて、自分が怖い」
その言葉で、何故か泣きそうになった。
足立は片手を上げると孝介の頬に触れた。額を合わせて目を覗き込み、
「また明日電話するから。明後日会おう」
そうして、もう一度キスをしてくれた。腕から力が抜けて孝介は棒立ちになっていた。顔を上げた足立は泣き笑いのような表情をしていた。最後に髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回すと、おやすみ、と囁いて背中を向けた。
足立の姿が霧に紛れるまで、孝介はその場に立ち尽くしていた。
孝介の生活に足立の姿が戻ってきた。ほぼ毎晩のように会っていた。外で食事をしたあと家まで送ってもらい、そのまま足立を引っ張り上げた。
最初の晩はお互いむさぼるように抱き合った。うわごとのように足立は綺麗だよと囁いたが、そう言われるたびに悲しくてたまらなかった。綺麗でなど居たくなかった。思いっきり汚して欲しかった。
疲れて眠り、目が醒めると早朝だった。驚いたことに足立は既に起きていた。寒かったですかと孝介は訊いたが、そうじゃないと足立は首を振った。
「幸せすぎて苦しくて、ちょっと寝たんだけど、なんか起きちゃった」
そうして、ずっと寝顔を見ていたのだと言う。孝介は恥ずかしさに言葉を失った。一人だけ呑気に寝ていたのがなんだかバカみたいだ。頭を抱き寄せて布団を掛け、寝なきゃ駄目ですと言ったが、足立の手は腰の辺りで怪しく動き始めていた。
寒々しい空気のなかに孝介の嬌声が短く響いた時、足立の息は既に荒くなっていた。まるで嵐に呑み込まれるようにして交わり、心地よい疲労のなかでうとうとして、そのまま二人とも遅刻しそうになった。その時、朝は我慢しよう、という協定が二人のあいだで結ばれた。
少しずつ足立の私物が増えていった。着替え、歯ブラシ、専用のタオル、食器、煙草の買い置きとライター。足立は仕事が終わると堂島家へまっすぐ帰ってくる。孝介はお帰りと言って足立を出迎え、足立も、ただいまと恥ずかしそうに応えてくれた。
少しずつ未来の展望を話し合った。いつになるかはわからないが、とにかく一緒に暮らしたい。どこでもいいから部屋を借りて、毎朝毎晩、顔を見て一日を過ごそう。多分しばらくは東京と稲羽市とで離れて暮らすことになる。それは仕方がない。孝介はまだ養われている身だ、どうしたって限界はある。
「別に警察は辞めてもいいんだけどね」
ある晩、足立はそんなことを言った。居間のソファーでダラダラというかイチャイチャしていた時だ。足立に膝枕をしてもらっていた孝介は、その言葉を聞いて飛び起きた。
「それは駄目です。絶対に駄目です」
「えー? なんでー?」
「いいですか。いくらドジやって左遷されたからといっても、一応あなたは国家試験を通った一級のキャリアなんですよ。そんな人が警察辞めて野に下ってなんの意味があるんですか? そんなもん、一般企業からしたらデカくて使えないお荷物でしかありません。雇ってもらえたとしても警備会社がいいとこですよ。一応剣道やってたから腕にはちょっと自信があるかも知れないですけど、ナイフ持った強盗が目の前に居たら立ち向かえますか?」
「う……努力はする」
「でしょ? そんなヘタレな警備員、盾にも使えませんよ。それだったら石に噛り付いてでも警察に残っててください。腐っても警察大学校卒業したキャリア様なんだから、冷や飯食いでもそれなりの恩恵はある筈です。そして俺を養ってください」
「く、腐ってないよ!? まだ賞味期限内だよ! っていうか君、結局は自分の将来が心配なだけでしょ!」
「当然です」
足立は顔を両手で覆って泣き真似を始めた。その横に孝介は座り直し、テレビのリモコンを取り上げた。
「まぁ、万が一クビにでもなったら、俺が養ってあげますけど」
言った側から後悔していた。こんな恥ずかしいこと、言うんじゃなかった。足立は泣き真似をやめていた。ちらりと横目で見ると、びっくりして固まっている。
「……やばい、かっこいい」
「知ってます」
「うわ、憎たらしい」
「足立さんよりマシです」
襲われた。
毎日一緒の布団で眠った。夜勤の時は仕方ないが、どんなに遅く帰ってきた時でも孝介は足立を出迎えた。無理しなくていいよと言われたが、他に大してしてあげられることもないし、正直この生活がいつまで続けられるのかもわからない。それならせめて顔が見たかった。一分でも一秒でも長く一緒に居たかった。
今でも時折、足立は何かを考え込んでいる。でももう何を悩んでいるのかと聞き出すようなことはしない。足立は何かを抱えている。何かを抱えているということを孝介は知っている。孝介が知っているということを、足立も知っている。今はそれで充分だった。いつか話してもらえるなら、それまでに受け止められるだけの人間になっておこうと思う。
「早く大人になりたい」
そう呟いた孝介を、風呂上がりの足立が無言で立たせた。向かい合い、互いの頭の上を見比べて言うには、
「もう身長は充分だからね」
「……足立さんも気を抜いて横に成長しないでね」
「注意します」
幸せだった。陳腐だけど、他に言葉がみつからない。
だから最初は何が起きたのか理解出来なかった。菜々子はまるで眠っているようにしか見えなかった。直視したくない現実ほど、有り得ないくらいリアルに感じられるのだと、この時初めて思い知った。
確かに病状は思わしくなかった。一進一退を繰り返し、今日は顔色が少し良かったと思えば次の日には元に戻っている。原因もわからず、手の施しようがないと医者も言っていた。だけど菜々子は家に戻りたがっていたし、その為に頑張ると弱々しくも笑っていた。
菜々子の顔色は青白さを通り越して紙のように白かった。さっきまでの苦しそうな息遣いも表情も全部消えている。だけど、手のなかにはまだ温もりが残っている。そんなことが起きる筈はない。
「……菜々子?」
呟いた瞬間、病室に静寂が訪れた。顔を上げた孝介の目に留まったのは、電源を切られ、画面が真っ暗になる寸前の心電図モニターだった。あらゆる線が平坦になっていた。脈拍無し、心拍数無し、呼吸無し。静かになったと錯覚したのは、危険を知らせる単調な警告音が切られたからだ。
呼吸無し。
孝介の心も静かだった。眠ったように見える菜々子の表情と同じくらい決定的に止まっていた。誰かの怒鳴り声も泣き声も話し声も、何も耳に入らなかった。病室の隅で怯える生田目の顔を見た時には、既に孝介のなかで決まっていた。
――殺してやる。
それは最初、小さな呟きだった。だが小さくとも確かに孝介自身の言葉だった。何故自分に影である「もう一人の自分」が現れないのか、初めて理由がわかった気がした。
隠したい自分なんかどこにも居ない。今の孝介は欲望のままに生きている。
病室の隅へと大股で踏み込み、悲鳴を無視して生田目の首根っこを掴む。どこにぶち当たろうがお構いなしに引っ張り出してテレビの前へ据え付けた。
殺してやる。
胸倉を掴んで引きずり上げ、後ろ頭をテレビに沈めた。同じことをした筈の殺人者は目の前でだらしなく暴れ続けた。みっともなく泣きわめくたびに、孝介の心は静かに固まり、ひとつのことしか考えられなくなっていった。
殺してやる……!
そうしてはいけない理由がみつからなかった。鼻先までを沈め、肩を突っ込み、テレビの枠にしがみつく両手を外して脚を抱え上げる。迷いはなかった。孝介にとってそれは既に決められたことだった。赤く染まった視界のなかで、静かに行われるべき儀式だった。
これがお前への罰だ。恐怖に苛まれて目一杯苦しみながら死ねばいい。お前がどれだけ泣いて詫びても菜々子はもう生き返らない。
殺されたんだから殺してやって何が悪い?
「やめてよ先輩!」
引かれた腕を乱暴に払いのけた。複数の悲鳴が上がり、そこで初めて孝介は気が付いた。真っ赤だった視界が徐々に正常になっていくにつれて、部屋に居るのが自分一人ではないことがわかってきた。
りせは床に倒れている。側には直斗がしゃがみ込み、目が合うとどういうわけかうつむいた。千枝と雪子は互いに抱き合い、恐怖の眼差しを投げかけている。
「…………なんでだよ」
完二は迷う素振りで陽介を見た。こぶしを握り締めた陽介は、最後に止まった孝介の視線を受けてもたじろがなかった。孝介はすがる思いで親友を見続けた。
「お願い、やめて」
雪子のか細い声が沈黙を破った。怒りと興奮で顔を上気させた陽介は、背後に居並ぶ仲間の姿をちらりと眺め、そうしてまた孝介を見た。口惜しそうに唇を噛み、しばらく考えたあと、ゆっくりと首を横に振る。
味方はどこにも居なかった。
脚を抱える腕から力が抜けた。生田目の体がずるずるとテレビから吐き出されてくる。床に落ちた生田目は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま再び床を這って逃げ出そうとした。孝介はその後ろ姿を茫然とみつめた。
綺麗に止まった菜々子の寝顔。
そうさせない為に自分たちが居たんじゃなかったのか。全てを終わらせたんじゃなかったのか。
終わった筈なのに。
「なんでだよ!!!!!」
孝介の咆哮に怯え、生田目は頭を抱えてうずくまった。その口から洩れるかすかな悲鳴以外、誰も何も答えなかった。