外に出ると、辺りは真っ白だった。孝介は玄関の明かりを点けたまま扉の鍵を掛け、ゆっくりと待ち合わせ場所に向かって歩き始めた。
二日前から出始めた霧は、特に事件性のある出来事を呼ぶわけではなかった。が、やはり落ち着かない。雨のあと霧が出ることは何度かあったが、こうも続くのはやはりおかしい。夕方病院へ見舞いに行った時、遼太郎が真剣な表情で「気を付けろよ」と言ったのもうなずける。見馴れた町の見馴れない光景は、知らずのうちに神経を尖らせるものだ。
孝介は通りに出るたびに足を止め、きちんと左右を確認した。今一番危険なのは自転車だった。ライトの光は霧に吸収されてしまうし、タイヤの音も意識を集中させないと、どちらからやって来るのか判別がしづらい。目の前を漂う薄い霧を手で払うが、気が付くとすぐに戻っている。孝介は小さくため息をつくと、安全を確認したのちに一歩を踏み出した。
足立は四六商店の前に居た。ガードレールに腰掛け、煙草をくゆらせながら宙をぼんやりとみつめている。
「足立さん」
声を掛けると煙草を指に戻し、「やあ」と小さく笑った。
「すみません、遅くなっちゃって」
「いやいや、呼び出したの僕だし」
足立は孝介が側にやって来るのを待ってガードレールから腰を上げた。最後に煙草を大きく吸い込み、上の方に向かって煙を強く吐き出す。そうして足元に短くなった煙草を落とすと靴の先でもみ消した。
「ポイ捨て禁止」
「うはは。まぁまぁ、見逃してよ」
そう言って孝介の顔をみつめ、それから不意に視線を外した。
「ちょっと散歩しよっか」
返事も聞かずに歩き出す。孝介は戸惑いつつもあとを追った。
足立は一度アパートに帰ったあとらしく、私服に着替えていた。孝介も電話をもらった時、既に風呂を済ませていたので、今は普段着だ。霧のせいで長く外に居ると服がじっとりと湿った感じになる。髪もうっすらと濡れる。あまり長く屋外に居ると、寒さと相まって風邪を引きそうだった。
「菜々子ちゃん、面会オーケーになって良かったね」
信号で立ち止まった時、足立が言った。赤や青の光も、霧でぼやけてしまっている。
「はい。やっと安心出来ました」
「あとは早く退院出来るといいけど……どうなのかな。長く掛かりそうなの?」
孝介は首を振った。
「わかりません。正直、原因不明なので……」
「そっか」
足立はポケットに両手を突っ込み、鍵束をかちゃかちゃと鳴らした。言葉を探している時の癖だ。
「まぁ、元気になるまで毎日見舞いに行きますけどね」
そう言って孝介は青になった横断歩道を先に歩き出した。
「ついでに堂島さんに報告してあげてよ。あの人、気が付くといつも病室抜け出してて、しょっちゅう看護師さんに怒られてるんだから。今日なんか僕まで一緒にお説教されちゃったよ」
「あはは」
「自分だって重傷なのになぁ」
足立の言葉は、とばっちりで叱られる不満だけから出ているわけではないようだ。信頼出来る上司に一日でも早く復帰してもらいたいのだろう。心配なのは、みんな一緒なのだ。
「生田目のことだけどさ」
鮫川方向に足を向けながら足立が言った。
「前も言ったかも知んないけど、ちょっと時間が掛かりそうなんだ」
「……そうですか」
「まだ意識がはっきりしてなくて話をまともに聞ける状態じゃないし、その……いつまでこんな状態が続くのかもわからないし」
「……」
「マスコミはもう飽きてきちゃってるみたいだけどね」
今度は孝介が言葉を探す番だった。
生田目が捕まった当初、マスコミは犯人と被害者のことをこれでもかというくらい面白おかしく暴き立てた。犯人と最初の被害者が不倫関係にあった為、よからぬ噂が尾ひれを付けてあちこちにまで波及したようだ。最近ちょっとまいってますと、小西が苦笑していたのを思い出す。心無い報道や週刊誌の煽り文句をみつけるたびに怒りが湧くが、自分たちに出来ることはもう何もない。沈静化するのを待つしかないのが不甲斐なかった。
「あの――さ」
歩きながら足立がちらりと振り返った。孝介の顔を一瞥したあと、何を言うでもなくまた前を向いて歩き続ける。
「なんですか?」
「んー……」
足立は鮫川の土手へ上がる階段に向かっているようだった。霧で視界が悪い為にあまり離れたくないが、近付き過ぎるのもなんだか怖い。そもそもこうやって呼び出されるのは久し振りのことだったし、今の孝介は足立とどんな距離で向き合えばいいのかがわからなかった。
拒絶された日の痛みはまだ胸にある。だけど救われた時の温もりも、まだ孝介を包んでいる。
「テレビのなかの――っていう、あれなんだけど」
不意を突かれて孝介は足を止めた。足立は土手に上がる階段を半ば上りつつある状態で、同じく足を止めて振り返っている。暗がりではあるが側にある外灯が柔らかく辺りを照らし出している。しかし足立の姿は霧にまぎれており、外灯の明かりも霧に遮られて表情まではわからない。
「ちょっと詳しく聞いてもいい?」
「……はい」
足立が歩くのにつられて孝介も歩き出した。短い石段を上り、人気のない土手に出る。普段は見晴らしの良い河川敷も、今は霧に覆われてしまっていた。
まるでテレビのなかみたいだった。
「あの、最初に言っとくけど、別に尋問とかそういう意味で聞くわけじゃないからね。僕の個人的な興味で知りたいだけだから」
「……まあ、調書に書ける内容じゃないですからね」
孝介は苦笑まじりに応えた。振り返った足立は何故か不安そうな顔をしていた。
土手を歩きながら孝介は説明した。マヨナカテレビのこと、初めてテレビに入った時のこと。何故霧が出た日に死体が現れるのか、死因が何故はっきりしないのか。シャドウのこと、ペルソナのこと――勝手に彷徨い出たもう一人の自分のこと。
「君は?」
「え?」
「君のは出たの? その……『隠している本当の自分』ってやつ」
「俺は――」
そういえば現れていない。無理矢理テレビに入れられた連中はともかく、陽介や千枝、元からテレビのなかに居たクマでさえ、ペルソナを得るにはもう一人の自分と対峙する必要があったのに。
出ていないと言うと、足立は笑った。
「裏表がないからかな」
「……それってつまり、俺が単純だってことですよね」
「素直だっていうことだよ」
そう言ってまた足立は笑った。
「足立さん、信じてないでしょ」
「……ま、話半分くらいに聞いてる」
その言葉には少し腹も立ったが、仕方ないかというあきらめもあった。実際半分でも信じてもらえれば上等なのかも知れない。自分が逆の立場になって、いきなり「テレビのなかの世界がうんたらかんたら」などと大真面目に説明をされたら、受け入れることは難しいと思う。だから反論する気にはなれなかった。
「でもまぁ、信じるよ」
不意に足立が立ち止まった。つられて足を止めると、突然右の二の腕を掴まれた。
「こことか、腰のひどいアザとか、膝の擦りむいたのとか、全部それが原因なんでしょ?」
「……はい」
「別に全部が全部、君のドジってわけじゃないよね?」
「はい」
「……あんなの見せられたら、信じないわけにいかないじゃない」
そもそも最初から疑っていたと足立は言った。ただ孝介が隠したがっているようだったから、気付かないフリをしていたのだそうだ。それを言われた瞬間、頭を殴られた気分になった。足立は薄々気が付いていて、それでも知らないフリをしてくれたというのに、自分はどうだ。子供染みた正義感で必要のないことまで暴き立てようとした。なんて乱暴で愚かなことをしたんだろうか。
「ごめんなさい。俺――すごい失礼なこと、足立さんに」
「んー? いやぁ別に? 何もされてないよ?」
「でも――」
続けて謝ろうとするのを足立は遮り、いいんだよと言ってくれた。そうしてふと真面目な顔付きになり、
「生田目が逮捕されたってことは、もう君が怪我する必要はないんだよね?」
「はい……多分」
「多分?」
孝介は霧について説明した。
二日前から広がっているこの霧は、恐らくテレビのなかと何らかの関係がある。もし数日待って霧が晴れなければ、仲間を誘ってテレビのなかを探りに行こうと孝介は考えていた。ただし来週は期末テストがあるから、行けるとすればそれが終わってからになる。少なくともこのまま放っておいていいものだとはみんな考えていない。
「原因は別なとこにあるかも知れないじゃない」
「それはわかりません。ただ霧が出るようになった時期と、友達がマヨナカテレビの噂を聞いた時期がほぼ一緒なので、原因は向こうにあると考えて間違いないと思います」
「……でも、もう戦ったりする必要はないんでしょ?」
足立はそう言って孝介の体を引き寄せた。
「もう君が怪我する必要はないんだよね?」
「……今のところは」
「ホントに?」
孝介は返事が出来なかった。今の状況では絶対に大丈夫とは言い切れない。言葉を濁していると、孝介は突然抱き締められた。
「あ、足立さん?」
「もうやだ。怪我しないで」
「……」
「お願いだから無茶しないで」
痛いほどの抱擁に息が止まりそうだった。暗さと霧とが相まって、孝介は一瞬自分がどこに居るのかわからなくなる。しばらく茫然としたのちに、ようやくここが土手の上だということを思い出した。
「あの……人が来たら不味いと思うんですけど」
「僕は困らない」
やけにきっぱりと言い切るので反論の言葉が出なかった。孝介は戸惑い、だが次第に心地よさに負け、同じように背中へと腕を伸ばしていた。孝介が抱き付くと、足立はそれに応えるように更に強く抱き締めてくれた。痛ければ痛いほど、苦しければ苦しいほど、これまで交わせなかった想いが伝わってくるようだった。
しばらくすると腕の力が緩み、ゆっくりと足立が顔を上げた。納得がいかないという表情だった。だが目が合うと口の端を持ち上げるようにして小さく笑い、誤魔化す為か、耳の付け根辺りに突然キスをしてきた。孝介は足立を茫然とみつめた。すぐに離れていった、少しかさついた唇の感触を何度も思い返しながら、そっと袖を引いた。
足立は躊躇しながら顔を寄せてきた。静かに、触れるだけのキスを一度した。唇が離れたあと、孝介は息を吐き出し、足立にもたれ掛かった。足立は片手で孝介の体を支えてくれた。そうしてしばらく動かなかったので心配になったようだ、「大丈夫?」と言いながら顔を覗き込んできた。
「……はい」
幸せというのがどういうものなのか、初めてわかった気がした。
孝介は急に恥ずかしくなり、足立の腕から離れて歩き出した。そろそろ帰ろうと言うので、嫌だったが仕方なく来た道を戻り始めた。