孝介の体はいつも傷だらけだ。理由はわかっている。転校してから入ったというバスケ部のせいだ。
 部活仲間に一人、背が低いクセにやたらと突っ込んでくる奴が居るらしい。練習試合でも敵味方関係なくぶつかってくる為、昨日は背中をやられただの今日は腕をやられただのと、痛い話の枚挙に暇がない。
 そんな乱暴なプレーでファールを取られたりしないのかと訊くと、プレーヤー同士のぶつかり合いなんてしょっちゅうだと孝介は笑った。
 勿論度を越した行為や意図的なものだと見なされればペナルティを課せられるが、そいつの場合は単に熱が入り過ぎるだけなのだそうだ。一応自覚もしていて、なるべく抑えながらプレーをしているようだが、やはりチャンスと見ればじっとしていられないらしい。
 学校内での活動だし、そもそも足立は孝介の保護者でもなんでもないから文句を言える筋合いではないが、何かあった時の為にその一条とやらの名前だけはしっかりと手帳に収めておいた。もし上手いこと機会が得られれば、たっぷりいたぶってやろうと密かに計画中だ。
 しかし孝介の負傷はそれだけにとどまらない。それほど不器用にも見えないのだが、何故か結構な頻度で怪我をする。大抵は体育の授業中で、鉄棒から落ちただの短距離走で転んだだのと、ひどい時には三ヵ所くらい目立つアザをこしらえてくることもあった。
 金のやり取りがあった頃からそうだった。服を脱がせるたび目に付く傷跡を訝しんでいたが、ある時今日のように脱ぐのを嫌がり、それでも無理矢理シャツを剥ぐと、肩に大きなアザがあるのをみつけた。
『……なに。いじめでもされてんの?』
『違いますよ』
 孝介は不機嫌そうにそっぽを向き、部活でパスを取り損ねたのだと言い訳をした。どう見てもボールが当たった跡ではなかったが、足立はそれ以上詳しく訊かなかった。だが以来、ことあるごとに孝介の体を別の意味で観察するようになった。
 今日はここに擦り傷がある。今度はここにアザがある。ドジなんだねと嘲笑すると、孝介は怒ったように口を閉ざし、そうですねとだけ呟いた。
 夏を迎えても孝介のドジは相変わらずだった。足立は何度も確認した。いじめじゃないの? 先生に体罰くらってるとかじゃないの? あ、もしかして堂島さんにやられてるとか!? ホラ、僕なんかしょっちゅう殴られてるからさあ――。
 けれど孝介はそのたびに笑って否定した。全部自分の不注意が原因だから心配する必要はない、そもそも叔父さんは理由もなく人を殴ったりなんかしませんよ、と。
 ――それってつまり、僕に殴られる理由があるってことだよね。
 ちょっとだけ引っかかったが、まぁ置いておこう。
 孝介は大した怪我じゃないと言うが、会うたびに新しい傷をみつけるのは正直辛い。彼の言うことを信じて、しょうがないなぁドジだなぁと、一緒に笑うのもそろそろ限界だ。
 いつも心配でたまらない。
 君の嘘が僕にはばれていないという嘘が、一体いつまでばれずにいるのか。


 バチバチという物音に気付いて足立は顔を上げた。ガラス窓に小石が当たるような硬い音。しかしここは三階だ。そんな物が飛んでくるとは思えないし、たとえ本当に誰かが石を投げているのだとしても、警察署に向かってそんなことをすれば、すぐにみつかって捕まってしまう。
 気のせいかと思い直してパソコンに向かおうとしたとたん、またバチバチという音が聞こえた。ただでさえやる気の出ない仕事にもっと集中出来なくなる。
「雨だろ」
 その様子に気付いたらしい堂島が、同じく顔を上げて窓を示した。
 足立はもう一度振り返って窓を見た。磨りガラスの向こうはまだ三時にもなっていない筈なのに薄暗い。その時また例の音がした。どうやら雨が風に吹かれて窓に叩き付けられる時に、バチバチと音が出ていたようだ。
「風あるんですかね」
「一応台風らしいからな。足が速いとは言ってたが……この分だとどうだろうな。帰る頃にはやんでくれると有り難いんだが」
 そう言って堂島は目の前のパソコンに手を伸ばし、キーボードを叩き始めた。こんな天気の日に外へ出なくていいのは嬉しいが、会議室に籠りっ放しで資料を作り続けるのも飽きてしまう。足立は首を回し、両腕を伸ばしながら大きなあくびをした。
「堂島さん、休憩しません?」
「いや、俺はいい。したきゃ勝手にしてこい」
 堂島は動こうとしない。しばらく迷った末に、もう少しだけ我慢することにした。溜めていた必要書類の作成だけで今日一日は終わりそうだ。
 八月に久保美津雄が逮捕されてからは比較的平穏な日々が続いている。ちょこちょこ事件は起きているが、春からの忙しさを考えればまるで別物だ。恐らくこれが稲羽市本来の姿なのだろう。のどかで、まるで眠っているかのような静かな空気。好きかと訊かれれば肩をすくめるしかないが、少なくとも早く家に帰れるのは有り難かった。
 元々仕事は好きじゃない。刑事という職業に情熱なんて欠片も持ち合わせていない。ここに居る自分はただの死人だ。文句を言われない程度に義務をこなし、代わりに金を貰って一日を終える。運が良ければ孝介に会える。会えない日は彼を思いながら枕を抱いて寝る。そしてまた空白の一日が始まる。その繰り返し。
 今日も明日も明後日も。
 ――いつまで続くんだろ。
 不意に手が止まった。幾つか文字を打ち込んで上手くまとまらず、バックスペースで消していく。その時またバチバチという音が聞こえて足立は顔を上げた。
 磨りガラスの向こうは薄暗い。窓に叩き付ける雨の音が激しくなればなるほどに、もっと降れと無意識のうちに願っていた。大雨で、大風で、全部壊れてしまえばいい。孝介さえ無事であれば、こんな田舎町に未練など有りはしない。
「また霧が出るな」
 堂島の呟きで我に返った。見ると堂島は資料をめくる合間に、同じように窓の方を向いていた。
「ここんとこ多いだろ。台風だから余計だ。夜中に通り過ぎたあと、気温が上がって霧になるぞ」
「事故とか起きないといいですね」
「そうだな。まぁそんな遅くに出歩く酔狂な奴も居ないとは思うが」
 苦笑を残して堂島は資料へと目を戻した。
 そもそもここでは遅い時刻に遊べる場所がない。八時を過ぎると大抵の店が閉まってしまう。赴任した当初、どこへ行くにも車がないと不便だという事実に打ちのめされた記憶がある。それを思い出して足立は笑い、
「もし居たとしても地元の悪ガキどもでしょうし、大丈夫ですよ。もう事件は解決したんだから」
 返事はなかった。堂島は資料に目を落としたまま動かない。
 足立はパソコンに視線を向けた。
「お前は本当にそう思ってるのか」
「え……」
「……俺だけか」
 顔を上げたが、堂島は相変わらず資料を見ていた。沈黙が恐ろしくて会話を続けようとしたが、咄嗟に上手い文句が思い浮かばなかった。
「……や、だって、久保が逮捕されたじゃないですか」
「諸岡の件でな」
 短い指摘だったが、有無を言わせぬ迫力があった。足立は言葉を呑んだ。そうして、やっぱりあきらめてなかったのかと内心でため息をついた。
 堂島は当初から久保美津雄を連続殺人事件の犯人として扱うことに反対していた。
 本人の自供があり、現場検証を経て奴が実行犯だと確認されたのは、諸岡金四郎殺害に関してだけだ。四月の二件に関しては曖昧な供述ばかりで、正直久保が逮捕される以前と状況に殆ど違いはない。つまり何もわかっていないということだ。死因も、殺害現場も、正確な死亡日時も判明していない。
 アリバイに関しては久保も嫌疑を掛けられる範囲に入っているが、同程度に怪しい奴なら他にいくらでも居た。つまり久保が犯人でない可能性は充分にあるのだ。むしろ「俺がやった」と自供しながら詳しい説明が何ひとつ出来ないところから、四月の件は別に犯人が居るとの見方がもっぱら優勢だ。
 それでも現場に関わる殆どの人間は、久保が全ての事件の実行犯だということで手を打ちたがっていた。怪しいところは多々あるが、それらはこれからの捜査で片が付くと思っている。初動から顧みて一切の手抜かりはなかったが、実際には三人もの犠牲者を出し、税金泥棒だの無能だのと散々叩かれてきたのだ。ここで名誉挽回と行きたいのが皆の本音だろう。
 だが同時に、捜査に関しての意欲は急速に失われつつあった。どれだけ調べてもやはり新事実は出てこない。いくら靴の底を擦り減らしてみても、昨日と同じように今日という日が過ぎていく。そして一日ごとに人々の記憶は薄れていく。変わらないのは死んでしまった人間だけだ。彼らは既に死に、今も死に続けている。
「堂島さんは誰が犯人だと思うんですか」
 バチバチという音がまた鳴った。さっきよりも間隔が短く、頻繁に聞こえる。本格的に嵐が近付いてきたようだ。
 堂島は足立の言葉に顔を上げた。
「それがわかりゃあ、捕まえに行ってる。アホなことを訊くな」
「真犯人なんて居ないかも知れませんよ」
「……そうかもな」
 面倒臭そうに資料を放り投げ、堂島は天井を仰いだ。
「本当に久保が三人とも殺したのかも知れん。だがそれにしたって、証拠が出ない限りはあいつを捕まえるわけにはいかない。どっちにしろ捜査を続ける必要があるだろ」
「もし出なかったらどうします?」
 ちろりと堂島がこっちを見た。
「お前は山野真由美と小西早紀が、自分で民家の屋根だの電柱だのに登ったと思うのか。わざわざ自分でぶら下がって、そこで自然死したと思うのか?」
 彼らは今も死に続けている。
「そんな偶然が一体どれだけの確率で起こるんだ。あ?」
「……さあ」
「必ず手を下した誰かが存在する。久保かも知れんし、他の誰かかも知れん。それを調べるのが俺たちの仕事だろ」
「……」
「一服してくる。お前も休め」
 足立はキーボードを叩いて文字を打ち込み、すぐに消した。堂島が会議室を出ていくと部屋は急に静まり返った。背後で鳴るバチバチという音だけが奇妙に甲高く続いている。
 嵐は確実に近付いている。


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