薄明りのなかで伸ばした手を捕えられた。足立がなんだろうと思って見ると、孝介は掴んだ手をどこへ持っていけばいいのかと思案顔だ。無言でもう一方の手を伸ばすとそっちも掴まれてしまった。
「なに?」
尋ねても返事はない。孝介は困った顔で握った両方の手をベッドに落とし、あの、と呟いたままうつむいてしまった。こんな態度は今日が初めてではなかった。察しの付いた足立は向かい合う恰好でベッドに座り直し、腕から力を抜いた。
「今度はどこ?」
「……」
孝介は足立の手を放すと、静かにワイシャツのボタンを外し始めた。僕がやりたかったんだけどなぁと思ったが、この時ばかりは仕方ない。おとなしく孝介が半裸になるのを見守るだけだ。
全てのボタンを外し終えた孝介は、ズボンからシャツの裾を引き抜き、右側の方をめくり上げた。そうして腰の辺りを示し、「見えますか?」と訊いた。
「……見える。すっごい見える」
「目立ちます?」
「だって範囲が広いもん。うわ……久々にすっごいの来たね」
右の脇腹から背中に掛けて大きなアザが出来ていた。薄明りのなかでもはっきりとわかる程ひどいアザだ。
「なに、どうしたのこれ」
めくり上げていた裾を戻しながら「体育の授業で」と孝介は笑った。
「柔道だったんですけど、受け身取り損ねちゃって」
「それにしても、……ええぇ」
隠そうとする腕をどかしてもう一度じっくりと眺めた。見た感じでは腫れてはいないようだが、あまりに広範囲なのでさわるのもためらってしまう。
「い、痛い?」
「いや、痛みはもうないんです。内出血がひどかったから見た目は派手なんですけど」
水泳の授業がない学校で助かったと言って孝介は苦笑する。だがこっちとしてはそんな単純な理由で喜んでもらいたくなどない。
「あの……何回も訊くけど、いじめとか体罰とかじゃないんだよね? 君が毎回ドジやって、それでそんな大怪我してるんだよね?」
「そうです。全部自滅です」
孝介がケロリとした顔をしているのが逆に堪えた。足立は腕を伸ばして孝介の頭に手を置くと、髪の毛がぐしゃぐしゃになるほど撫で回した。
「えー、もうやだぁ。君、体育の授業、全部見学してなよ。なんか見てるこっちが心配になるよぉ」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないよ。ハードル跳んだら足引っ掛けてずっころんで膝怪我するしさ、跳び箱やったら手ぇ着く場所間違えて前のめりになって肩打つしぃ。ただでさえバスケ部でしょっちゅう傷だらけなのにさあ」
「足立さん、よく覚えてますね……」
孝介は恥ずかしそうに顔をそむけた。怪我をしている本人が何故こんなに平気な顔をしていられるのか、足立には全然理解出来なかった。
「やだ、もう。君、体育禁止」
「禁止って。出来るわけないじゃないですか」
「そうだけど……」
髪の毛を直してやってから孝介の体を抱き寄せた。座ったまま背後から抱き締めると、孝介は逆に心配するような目を向けてきた。
「足立さん……?」
しばらくのあいだ言葉が出てこなかった。不安と怒りの両方がない混ざった、おかしな気分だった。足立は無言で孝介の体を抱き締め、それから思い切り大きなため息をついた。
「もうやだ。なんか、元気なくなっちゃった」
孝介に止められるまではやる気満々だった筈なのに、今ではすっかり萎えてしまった。孝介はあわてて「すみません」と謝ったが、謝るようなことじゃないのはお互いわかっているので、余計に会話が続かなくなった。
「……君、意外とドジなんだね」
「まぁそうですね」
「ドジ。ドジ。……バカ」
「……すいません」
テレビも点いていない部屋のなかはやけに静かで、わずかに開けた窓から雨の音が忍び込んでくるだけだった。いつの間にか二人で窓の方を眺めており、それに気付いた足立は孝介の横顔に頬を押し付けて笑った。
「寒くない?」
「平気です」
薄明りのなかで孝介も笑った。そうしてまた窓の方へと目を向けた。雨は午後になって降り始めた。夏の終わりの雨はべとべととまとわりつくようで、なんとなく好きになれない。
「やっぱ寒いや。窓閉めるね」
ベッドから降りて窓を閉めた。雨音は昼間よりも強くなっているようだった。
「やまないのかな」
「みたいですよ。明日も降るって天気予報で言ってました」
「やだなぁ」
足立は孝介の体を抱き締め、ベッドに横になった。枕を譲ってやり、自分は腕枕で孝介の顔を見上げ、ゆっくりと髪を梳く。枕に顔の半分を押し付けた孝介は足立の指が動くたびに、くすぐったそうに笑った。
「なんか、いつもと違う感じに見える」
「そう?」
そのままじっと見られるので、なに、と足立は訊いた。
「寝てる時の足立さんって、なんか知らない人みたいに見えるんですよ」
「知らない人?」
「はい」
孝介が枕を半分押しやってきた。足立は枕に頭を乗せ、孝介が落ちてしまわないようきつく抱き締めた。
「そんなに顔違う?」
「違うっていうか……普段あんまり見ない表情してる」
「どんな表情?」
うつむいた恰好で喋られるので、孝介の息が首元に掛かってくすぐったい。少しだけ身を離すと、孝介は不安そうに目を上げた。
「凄く真面目そうな顔」
「…………え、なにそれ。普段は全然真面目じゃないってこと?」
「そういうわけじゃなくって」
「いやだってそういうことでしょ? 寝てる時は普段見ない顔してるんだから、いつもは全然真面目そうじゃないってことでしょ? 違うの?」
「それは」
「なに、いつもの僕は駄目ってこと? え、なにこれ、もしかして僕フラれるの!? まさかすっごく真面目でかっこいい誰かに乗り換えようとかって――」
「いいから落ち着け」
「あだっ!」
額にデコピンを喰らっておとなしく口を閉じた。頭突きが来なかっただけまだ幸せだ。
孝介は呆れたように一度息を吐いた。そうしてためらってから、
「全然見ないってわけじゃないんですよ」
そう言って枕に頭を乗せ直した。
「そうなの?」
「……最近はよく見ます。何か考えてるみたいな顔」
「僕が?」
孝介は小さくうなずいた。心配そうな目が、何かを探るようにこっちをみつめている。足立は小さく笑い返してまた孝介の髪を梳き始めた。
「何か心配事でもあるんですか?」
「心配事? ないよ、別に」
「……嘘だ」
「嘘じゃないってば」
「……」
何かを呟いたようだが聞こえなかった。やがて孝介は足立の手を逃れて身を起こした。
「……俺じゃ頼りになりませんか?」
「……」
「そりゃ年下だし未成年だし、出来ることなんて殆どないかも知れませんけど、でも俺――」
「やぁらしぃなぁ」
「え?」
裾をどこかに引っ掛けたらしく、シャツの片側が肩から落ちそうになっていた。視線に気付いた孝介が直そうとするよりも早く足立は腕を伸ばし、孝介の体をベッドに横たえ、上にのしかかった。
「そんな格好で迫られちゃったら、元気出さないわけにはいかないでしょ?」
「……も、足立さんっ」
「心配ならしてるよ」
足立の呟きに、孝介は抵抗をやめた。不安そうな目をまっすぐに向けてくる。足立は口の端を持ち上げて小さく笑い、
「また君が怪我するんじゃないかって、いっつも心配してる」
「……」
孝介は気まずそうに目をそらせた。足立はその額に唇を触れ、ゆっくりと髪を梳いた。
「お願いだから無茶しないで」
自分でも驚くほど真剣な声が出た。
孝介はしばらく無言だった。やがてこっちに向き直り、まるで叱られた子供のような声で小さく、ごめんなさいと呟いた。足立は満面の笑みで孝介を抱き締めた。背中に伸びた手が最初はためらいながら、やがてしっかりと抱き付いてきた。