伸ばした手を捕まえられた。足立はハッとして目を上げた。孝介は気まずそうに視線をそらせ、わずかに唇を噛み締めていた。
「なに?」
はからずも詰問口調になってしまった。孝介はそろそろとこっちに向き直り、足立の手を放すと右側の袖をまくり上げた。
「……またやっちゃいました」
二の腕に大きな切り傷が走っている。まるで刃物で斬り付けられたかのような、まっすぐな傷痕。足立は無言で二の腕を取り、親指でゆっくりと痕をなぞった。その様子を孝介は緊張した面持ちで見守っている。叱られると思っているのだろう。
足立はわざとらしく大きなため息をついた。前に会った時から四日しか経っていない。これはまぁ、いくらかお小言を食らわせるべきではないだろうか。
「ドジ。バカ」
「すいません……」
孝介はまだ不安そうな表情を崩さない。足立は孝介の腕を引くと乱暴にベッドへ押し倒した。そのまま両手を握って頭上へ持っていき、身動き出来ないようにしておいて、上からじっと見下ろす。孝介は怯えて何かを言いかけたが、足立を見て言葉を止めた。
「あのさ」
このあいだの台風の晩、堂島が予言したとおりに霧が出た。だが死体はみつからなかった。
「もう嘘つかなくていいよ」
「え……」
孝介は緊張に顔をひきつらせている。足立はじっと目をみつめた。
「わざとなんだよね?」
「……何がですか?」
「君の怪我」
今日は二の腕の切り傷。この前は腰に出来た大きなアザ。その前は膝をすりむいていた。
足立は片手で孝介を拘束したまま、もう片方の手で脇腹を撫でた。感触に孝介がびくりと体を震わせた。だが目だけはじっとこっちを向いていた。
「わざとでしょ。痛いのとか血が出るのとか、好きなんでしょ?」
「違いますよ」
「嘘つき」
その前は腿にアザがあった。足首を捻挫したこともあった。頬に絆創膏を貼っているのも見た。孝介だけじゃない、花村とかいうあのガキも、女の子だって例外じゃなかった。
全部霧が出る前だ。
孝介は怯えた目で足立を見ている。ひたひたと軽く頬を叩いても、視線は揺らいでまた戻ってくる。
「……違います」
「ホントに?」
怒りと欲望で我を忘れそうになる。いっそのこと滅茶苦茶に犯してやりたいとも思う。いつまで君の嘘に付き合えばいいんだろう。こんなバカなことを言って自分を誤魔化して、君の本当の嘘に気が付いているよと言ってしまわないよう、いつまで自制すればいいんだろうか。
「一回試してみようよ。凄く気持ちいいかもよ?」
君の怪我はいつも霧の前にひどくなる。そして君が怪我をするたびに行方不明者は戻ってくる。
なんで気付かれないと考えてるんだ。なんで嵐が去っただけで満足しないんだ。――どいつもこいつも、本当にウザすぎる。
頬を軽くつねった時、孝介は一瞬だけ不快そうに唇を噛んだ。
「……いいですよ」
そうして、何かを決心したように足立をあらためて見据えた。
「足立さんがそうしたいんだったら、してください」
「じゃあさっそく」
「でもその代わりに――」
孝介が身をよじった。押さえていた手が外れたと思った次の瞬間、胸元へ伸ばしかけた手を捕えられていた。上体を起こした孝介は足立の手首を掴んだままこっちを睨み付けてきた。
「教えてください。足立さんはなんで『汚い』んですか」
「……っ」
孝介の言葉には有無を言わせぬ迫力があった。口惜しいが十も年下の子供に気圧されていた。足立はベッドの上で身を引き、言い訳を考えている自分に気付いて、あわてて孝介の手を払った。
「足立さん、前に言いましたよね? 自分は汚い人間だから一緒に居ない方がいいって」
「……今、そんな話してなかったじゃない」
「だから交換条件です」
孝介の視線から逃れるように向きを変えて座り直した。そうして孝介の言葉を頭のなかで繰り返し、こうかんじょうけん、と小さく呟いた。
「はい」
「…………ホントに、いいんだ?」
腹のなかで渦巻く怒りと苛立ちを、欲望を、お前にぶちまけても。
恐ろしい目をしていたと思う。期待と緊張で喉が渇き、足立は大きく生唾を飲み込んだ。見据えられた孝介は一瞬だけひるんだが、恐怖に耐えるようにそっと目を落とし、「いいですよ」と呟いた。
足立は体の向きを変えてそろそろと身を乗り出していった。うつむいた孝介の頬に指を触れると、彼はびくりと身を震わせた。そうして静かに顔を上げて足立を見た。
「……足立さんなら、なんでもいいです」
綺麗だ。
足立は軽く頬を叩いた。孝介は衝撃に目を閉じ、次の一撃に備えて身を固くした。だが足立は動かなかった。やがて何もされないのを不思議に思った孝介が恐る恐る目を開けた。その瞬間、足立は乱暴に髪の毛を掴み、そのままゆっくりと、本当にゆっくりと頭を揺らした。
「……バカ」
呟いて手を放す。そうして孝介の前から離れ、テーブルの上の煙草を取って火を付けた。
「足立さん――」
「今日は帰りなよ」
呼び出しておいて勝手だとは思ったが、これ以上自分を抑えていられる自信がなかった。今ここで我を忘れたら何を口走るかわからない。それが恐ろしかった。
孝介の嘘はまだばれていないと、それだけは守り続けなければ。
「……なんでですか?」
失望したような声が聞こえた。
「なんで、足立さんは――」
「帰りなよ」
「…………俺、そんなに信用ないですか?」
煙を吐く音がやたらと大きく聞こえた。
「信用があるとかないとか、そういうことじゃないんだよ。……君に聞かせる話じゃないの」
「……」
孝介は動かなかった。ベッドの上でわずかに身じろぎをしただけだ。ベッドがきしむ音、それから耳を澄ませれば、窓の外で降り続く雨の音が聞こえた。
何を考えているんだろうと足立は思う。この雨は霧を運んでくるものじゃないと確信して、ただ煩わしいと思っているのか。
「ここんとこ、ずっと何か考えてますよね」
不意に孝介がベッドを降りた。足立の脇に立ち、恐らくこっちを見下ろしている。足立は素知らぬフリで煙草の灰を叩き落とした。
「ずっと、何か悩んでる」
「……別に?」
孝介は怒りを抑えるように深く息を吐いた。そうして、嘘だ、と呟いた。足立は前だけを見て煙草を吸い込んだ。絶対に振り向くまいと決めていた。孝介の姿を目に入れたら決心が鈍ってしまいそうで怖かった。
嘘を暴くのはこんなにも簡単だ。知らないフリを続けることの方が百倍も千倍も難しい。
「俺、足立さんのことが知りたいんです。……教えてください」
ため息の代わりに煙を吐き出して煙草を消した。
「それ聞いたら、僕のこと嫌いになるよ」
「なりません」
「なるよ。絶対」
絶対にねと足立は繰り返した。
「……俺が聞いたらいけない話なんですか?」
足立は両膝を抱え込んだ。どうやったらこの場を誤魔化せるのかをさっきから一生懸命考えているが、ちっとも妙案が思い付けなかった。じりじりと胃が焼けるような痛みが続いていた。緊張で吐きそうだった。そうやってまとまらない意識を持て余しながら、どうして誰もかれも簡単にあきらめてくれないんだろうとぼんやり考えた。堂島しかり、孝介しかりだ。犯人が誰だろうとどうだっていいじゃないか。
結局あいつらは死んでしまった。
誰が殺したのかなんて確認して、それでなんになるっていうんだ?
膝に当てた自分の指がわずかに痙攣していることに気が付いた。それが恐怖による震えだと悟った瞬間、足立は本気で吐きそうになり、あわてて口を押さえた。
何故こんなみっともない姿を晒さなければいけないのだろうか。自分だって好きで嘘をついているわけじゃない、好きで知らないフリを続けているわけじゃない。でも今のままなら、少なくとも憎まれずに済む。呆れられ、離れていかれるかも知れないが、憎悪の眼差しを向けられるよりはずっといい。
「足立さん」
「…………やだ」
君の怪我は僕のせいだ。
僕が全部始めたんだ。
なんで今更そんなことが言えると思う?
「言ったら嫌われる」
「……そんなことありませんよ」
「やだ」
「足立さん――」
「うるさいなぁ!」
ヒステリックな叫び声が静かな部屋に響いた。いい歳をした大人がみっともないとか、子供相手にだらしないとか、そんな体裁を気にしていられる余裕はなかった。足立はうつむいて顔を隠し、ごめんと呟くので精一杯だった。
「……今日は帰って」
しばらくののちに、おやすみなさいと言い残して孝介は去っていった。ドアが閉められたあとも足立はなかなか顔を上げることが出来なかった。
うつむいて頭を抱えながら、結局いつかはこうなる筈だったんだと何度も自分に言い聞かせていた。出会った時にはわからなかったが、今思えば全てが当然の成り行きだった。
孝介たちが補導されたのは、あの日天城雪子を助けようとしたからだ。天城雪子が誘拐されたのは自分が生田目を焚き付けたからだ。生田目が自分の言葉にそそのかされたのは、山野真由美と小西早紀が死んでしまったからだ。
あの二人が死んだのはテレビに入れられたからだ。
あの二人をテレビに入れたのは僕だ。
全部僕が始めたことだ。僕が一番汚いに決まっている。地底の泥のなかから見上げた君があんなに綺麗に見えるなんて知らなかった。でも今思えば君が綺麗なのは当たり前なんだ、だって僕が一番汚い人間だから。
誰かが事件の真相を追い掛けていることには気付いていた。誘拐された人物が全員無事に戻ってきていたから。でもまさか君がそうだなんて思わなかった。よりによって君が。
「バカじゃないの……っ」
吐き捨てるように言って、笑おうとして、果たせなかった。こらえていた涙が次から次へと溢れて止まらなくなった。もう終わりだ。あんなに全身で向かってきてくれた彼を拒絶して、これまでどおりの日々を続けられるわけがない。
本音を言えば白状してしまいたかった。君が文字通り傷だらけになって追い掛けている犯人を知っている。君がよく知る人物だ。もうそんな辛い目に遭わなくていいんだよ――。でもそんなこと言えるわけがない。
たとえ呆れられて離れていってしまうのだとしても、憎悪の眼差しを向けられるよりはずっとましだ。君に憎まれるくらいなら嫌われてもいい、嘘をつき続けることを僕は選ぶ。
泥や嘘にまみれた僕にとって、君は絶対の光だった。
「馬鹿野郎……!」
足立は泣いた。うずくまり、何かに許しを請うように身を震わせながら長いあいだ泣いた。けれど誰も許してなどくれなかった。彼はこれまでそうだったように、そしてこれからもそうであるように、彼の世界で一番汚く、矮小な存在だった。
その彼は願う。――どうかあの子がこれ以上怪我をしませんように。どうかこれ以上辛い目に遭いませんように、と。
いつもいつも心配している。
君のことを。君の無事を。
そして君の嘘が僕にはばれていないという嘘が、どうかいつまでもばれませんように、と。
世界で一番・その3/2014.02.23