夢見心地というのがどんなものなのか、それからの孝介は嫌というほど思い知ることになった。
授業を受けていても、陽介たちと話していても、頭の片隅では常に足立のことを考えていた。足立の声の聞こえないのが淋しくてたまらず、居ないのが当然なのに、常にどこかで足立の姿を捜してしまう。
――なるほど、これが恋の病というものか。
時々そんな風に自らを揶揄して、意識して諌めないといけないくらい、本当に足立のことばかりを考えている。
だが足立を好きなのだろうかと考えると、正直わからなかった。まだあれから二人きりで会うことは出来ていない。ゴールデンウィークもあったが、刑事というのはあまり世間様の休日と関係してはいないようだ。実際叔父の休暇も流れてしまった。いつも通り仕事だよと情けなく笑う足立に、頑張ってくださいと電話口で語りかけるので精一杯だった。
足立はどういう人なんだろうと思う。何を考え、何を目指し、どうやってその日を終えるのか。食べ物は何が好きで、趣味は何があって、どんな癖を持っているのか。
何を綺麗だとして、何を綺麗ではないとするのか。
足立を知りたかった。自分を知ってもらいたかった。顔を見て話したかった。足立に触れて欲しかった。会えないせいで思いばかりがどんどん膨らんでいく。
――あぁちくしょう。
ホントに病気だこの野郎。
ゴールデンウィークが明けると、翌週はすぐに中間テストだ。やっと落ち着いて休めそうだと連絡が来たのは、テスト二日目の晩のことだった。
『よかったら遊びにおいでよ。なんにもないけどさ。お菓子とジュース買っておくし。何がいい? 何が好き?』
「いいですよ別に、そんなの」
『じゃあうち来る前にジュネスで買い物しよ。あ、そういえば午前中で終わるんだっけ? お昼どこかで食べてこっか。奢るよ』
電話口の向こうで足立はやけにはしゃいでいた。
『そうだ、あのね、一個だけ言っておくけど』
「なんですか?」
『僕の部屋、汚いから。覚悟しておいて』
「覚悟ってなんですか」
言い種がおかしくて孝介は笑った。しかし足立は「ホントなんだってば」と真剣に言い募る。
『一応頑張って片付けるつもりではあるんだけど、僕、元々掃除が苦手なんだよねぇ。だいたい引っ越してきてから碌に部屋整理する時間もなくってさぁ』
例の殺人事件のせいだと言う。孝介は一瞬返事に詰まった。
「……捜査は進んでるんですか?」
『え? いや、まぁ、あんまりはねぇ。一人目が殺されてからそろそろひと月は経つんだけど、いやもう一向にさぁ』
どれだけ上手くやったのかは知らないが、とにかく何も出てこないのだと足立はぼやいた。テレビに入れられて殺されているのだから、確かに証拠などみつかる筈はない。こうなると現場を押さえるしかないようだ。でも、果たしてそんなことが可能なのだろうか?
足立が言うように、現在警察は休む間もなく動いている。被害に遭った人物の関係者は全て洗われ、アリバイも確認された。そのなかで一番怪しいと目されていた生田目太郎は、早いうちから白だと断定されたそうだ。だいたい、本当に生田目がやったのだとしたら、二件目の小西早紀が殺されたのはどんな理由だ? 雪子がテレビに入れられたのは? まだ次もあるとしたら、それは何が原因で?
流しの犯行だと考えるのは無理がある。しかし町の住人が犯人なのだとしたら、自分は今、犯人と同じ空の下に居ることになる。
「あの……」
足立のぼやきはまだ続いていた。今日も遼太郎に殴られたという話で吹き出してしまったが、もう一度声を掛けると、なに? と足立は訊いてきた。
「……あの、俺、明日本当に行ってもいいんですか?」
『え、いいよ? なんで?』
「いや、疲れてるところに俺が行ったら、ゆっくり休めないんじゃないかなって……」
『そんなことないよ。むしろ来て欲しいよ? 部屋は汚いけど』
「片付けるんじゃないんですか」
一応頑張るけどと言って足立は誤魔化すみたいに笑った。そうしてためらったのちに、
『……もしかして僕、無理に誘ってる?』
見える筈もないのに孝介は首を振っていた。
「そんなことないです。嬉しいです」
『ホント? あの、我慢しなくていいからね? 嫌なら嫌って言ってくれれば――』
「嫌じゃないですよ。行きたいです」
安堵のため息に続いて、よかったぁという声が聞こえた。子供みたいに笑う足立の姿が目に浮かぶようだった。
『早く休みにならないかなってずっと待ってたんだ。その……会いたかったからさ』
「……俺もです」
どうして今目の前に足立が居ないんだろう。どうしてまだ「明日」じゃないんだろう。面倒なテストなどすっ飛ばして、時間が半日でも巻き上がってくれればいいのに。
「じゃあ明日、学校が終わったら電話します」
『うん、わかった。待ってるね』
そうしていつもなら「じゃあね。おやすみ」と言って電話が切られる筈だったが、何故か今夜はそうならなかった。再びためらうような空気があってから、「あのさ」と足立が呟いた。
『もし来たくなくなったらそう言ってね。別に構わないからさ』
遠慮を通り越した、もどかしいほどの消極性に、孝介は思わずため息をついた。
「そんなことありませんよ。……なんでそんなこと言うんですか」
むしろこちらから断って欲しいのかと勘ぐってしまう。足立は、いやぁとか、そのぉとか、何やら煮え切らない様子だ。
『……なんか、知らないうちに嫌われるようなこと言ってないかなぁってさ、凄く心配なんだ。僕の勝手で付き合わせるんじゃ申し訳ないな、って』
「そんな――」
『……好きだよ』
「……」
『本気なんだ』
孝介は受話口から顔をそむけ、相手に気付かれないように強く、胸に詰まった息を吐き出した。
――やっぱり居なくてよかった。
目の前に足立が居なくて助かった。明らかに赤面していると自分でわかるくらい、こんな情けない顔、絶対に見られたくなんかない。
翌日は学校が終わった後、一度家に戻ってから足立と待ち合わせた。昼飯を奢ると言われていたが、足立の前でどんな顔をして飯を食えばいいのかわからなかったので、申し訳ないが断った。ジュネスで買い物をし、足立の車でアパートに向かった。
「えーとね、最初に謝っておくけど」
車のドアにロックを掛けながら足立が言った。
「……部屋、あんまり片付いてないんだ」
「いいですよ、別に」
「ホントに汚いからね。あの、無理なら正直に言って。足立さんこんなの最低ですって思ったら素直にそう言ってくれていいから」
ここまで念押しされると、どれだけ汚いんだろうと逆に興味も湧いてくる。しかし(残念なことに?)孝介が想像したほどの汚部屋ではなかった。物が乱雑に放置されている為に汚く見えるだけで、ゴミがあちこちに散らばっているというわけではない。部屋に招き入れた足立は、それでも不安そうな表情を崩さなかった。
「だ、大丈夫? 帰りたくなったとか――」
「ないですよ」
再度の確認を経て、ようやく足立は安心したようだ。「よかったぁ」という言葉と共に腹の底から息を吐いて、破顔してみせた。
「部屋のせいでフラれたらどうしようかと思っちゃった」
「そんな」
気にし過ぎですよという言葉は、孝介の体を抱き締める腕の強さに潰された。
「会いたかったよ」
耳元での囁き声にめまいを覚えた。がちがちに強張った腕を上げて、孝介はぎこちなく背中を抱き返す。
「……俺もです」
足立は両手で孝介の頬を包み込み、恐る恐るといった風に顔を近付けてきた。重なり合った唇はすぐに離れたが、目線が交わった瞬間、もっと深く重ねられた。
ようやく自由になった時、二人はどちらからともなく熱い息を吐き出していた。ぼうっとしたまま足立を見ると、奴は照れたように笑って孝介の頭を撫でてきた。
「……えと、ジュースでも飲もっか。あ、あの、どっか適当なとこ座って」
「はい」
足立は可笑しいくらいに動揺していた。孝介は幸福感に包まれながら髪の毛を梳き直す。
言われて部屋を見回したが、座れそうな場所はベッドくらいしか見当たらなかった。どうしようと思った時、ふと棚に並べてあるゲームのパッケージに目が止まった。随分昔に発売されたシューティングゲームだ。懐かしくて思わず手に取ってしまった。
「あ、それ知ってる?」
グラス二つにジュースを入れて戻ってきた足立が、孝介の手元を見て嬉しそうに訊いた。
「友達の家で何回かやったことあります。難しいんですよね。一番簡単なルートしかクリア出来なかったな」
「僕、結構得意だよ」
「最強ルート行けます?」
「クジラでしょ? 行ける行ける」
「ホントですか!? ちょ、見せてくださいよっ」
グラスをテーブルに置いた足立は、しょうがないなぁと嬉しそうに言ってゲーム機本体を引っ張り出した。
「でも三十分くらいやりっ放しだよ? 君、暇じゃない?」
「大丈夫です。達人の技を目に焼き付けてますから」
「達人って程でもないけど……」
ディスクをセットして電源を入れる。コントローラーを持った足立は、ベッドに寄り掛かるようにして腰を落ち着けた。孝介はその脇に座り込み、棚に並ぶ他のゲームタイトルを目で追った。
「シューティング好きなんですか?」
棚にはあと五、六個ゲームが置いてあるが、そのうち二つはパズルゲームで、残りは全部シューティングゲームのようだ。
「まぁそうだね。RPGもやってみたんだけど、レベル上げが面倒になっちゃってさ」
ゲームが始まった。足立は何度もやり込んでいるらしく、敵の出てくる位置を把握していて画面に姿が現れた瞬間、あっという間に撃ち落してしまう。
「君くらいの歳でこのゲーム知ってるなんて、珍しいんじゃない?」
「そうですか? ああ、でもその友達、確かお父さんがゲーム好きだって言ってたな」
「だろうね。このゲーム、君より年上の筈だよ」
言われてパッケージを見ると、確かに足立の言う通りだった。そんな風に雑談を繰り広げながらだったが、足立は難なくステージをクリアしていく。孝介が絶対に倒せなかった大ボスすら呆気なく煙を上げて沈んでしまった。結局三十分も掛からずに目的のラスボスまで進み、多少攻撃を受けながらもノーミスでクリアとなった。