「ね、ちょっとだけ顔さわってもいい?」
はからずも二人きりになってしまった瞬間、すかさず足立がそう訊いてきた。
「嫌です」
「えー、だめー?」
「駄目」
「なんでー?」
「『なんでー?』じゃないですよ。だいたい、この間からなんなんですか? 男の顔さわりたいとか、普通じゃ有り得ないと思うんですけど」
「だって綺麗なんだもん」
さも当然のように言い切られるので咄嗟の言葉が出なかった。
「言われない? っていうか、君モテるでしょ。かっこいいもんね」
「…………足立さんってゲイですか?」
「違うよ」
目を輝かせながら足立は言った。僕、綺麗なものが好きなんだ。
「なんか、綺麗とかかっこいいとかってさ、一種の才能だと思うんだよね。そういうのってさ、存在するだけで凄いことだからさ」
だから見たいしさわりたい、出来る範囲であれば自分だけのものにしたい――。
孝介は一瞬迷った。さわられることには勿論抵抗があったが、ここで拒絶を繰り返した結果、どこかに監禁されるような事態になってもたまらない。それならばいっそのこと覚悟を決めて要求を呑んでおいた方がいいのではないだろうか?
「……顔だけでいいんですよね?」
「さわってもいいの!?」
「だから、顔だけですよっ!?」
結局根負けして足立を部屋に招き入れた。菜々子は早々寝床に付き、遼太郎は風呂に入っている。何かあれば大声を出そうと決めて孝介は部屋のドアを閉めた。
ソファーに寄り掛かるようにして座り、テーブルをどかした足立が向かい側に座る。そうして、いざ、と腹をくくった瞬間、
「ごめん、手洗ってくる」
せっかくなのに僕が汚しちゃいけないもんね。そう言って足立は立ち上がった。冗談だと思ったのに、奴は真剣だった。
やがて戻ってきた足立は「まだ冷たいかも」と言って真っ赤になった両手をこすり合わせて、にへらと笑った。
――変な人。
あらためて向かい側に座る足立を見て、つい苦笑が洩れた。
最初は怖い、気持ち悪いしかなかったが、その思いも少しだけ薄れていた。確かに変わっているようだが、危惧するほどヤバい人物ではないのかも知れない。
「えと……じゃあ、失礼します」
「はい」
手が伸ばされた。孝介はわずかに視線をそらせてその時を待った。指先が触れた時、思わず目をつぶってしまった。
「あ、まつ毛長い」
至近距離に足立の顔があった。吐く息がかからないようにと斜めを向いていたのに、それを正面に直された。肌を観察する為なのだろうが、足立は上体を乗り出してこちらをみつめてくる。
「……顔、近いんですけど」
「あ、ごめん」
だってせっかくだし。そう言って座り直しながら足立はだらしなく笑った。
「意外としっとりしてるんだね。なんか桃の表面みたいに見えてたから、も少しスベスベしてるのかと思ってた」
「残念ですか?」
「ううん。綺麗だよ」
うっとりとした表情。からかうつもりなど微塵も感じられない声。本気なんだ、と今更ながらに孝介は驚いた。この人は本気で俺なんかのことを綺麗だと言ってるんだ。
目線を下げていても、熱っぽい瞳が自分を追い掛けているのがわかった。考えてみれば物心ついて以来、こんなに近くで誰かと会話を交わすことなどなかった気がする。自分の呼吸も相手の呼吸も、意識しなくてもわかってしまうくらい近く。
「……すごいなぁ」
これがおんなじ人間なんだなぁ。本当に感心したように呟くのが不思議だった。足立だって、そりゃ言ってみれば美男子というわけじゃないが、そこまで不味い顔でもない。もっと服装をちゃんとして、あちこち好き放題に跳ねている寝癖を整えれば――と、そこまで考えて、ふと思った。
でもそんな風にちゃんとした足立だったら、多分どれだけ頼まれても顔なんかさわらせなかっただろうな、と。
前髪をよける指の動きで孝介は我に返った。驚いてつい身を引いてしまったその動作に、足立は一瞬傷付いた表情を見せた。
「あ……ごめん」
「いえ――」
足立は離してしまった両手を持て余している。孝介は少し迷ってからその手に頬を押し当てた。
「いいですよ。大丈夫」
怖々と足立の手が動き始めた。
「……髪も、さわっていい?」
「どうぞ」
手が差し込まれ、髪を梳いていった。頭の形を確かめるようにゆっくりと、何度も何度も。
目を上げると、足立の恍惚とした瞳がぼんやりと見返してくる。髪を撫でられながらしばらくみつめていた。ようやく視線に気付いた足立がこちらを見て、今更照れたように「綺麗だねぇ」と呟いた。
孝介の口から苦笑が洩れた。
「足立さんって変な人ですね」
「――そういう君も、結構変わってると思うよ?」
「足立さんに言われたくないです」
「このやろっ」
足立は笑いながら孝介を押さえ込み、後ろ頭にげんこつを押し付けてきた。しばらく二人で抱き合いながら笑って騒いだ。散々笑って、笑い疲れて息を整えて、足立の腕がやたら自然に自分を抱き締めていることに気が付いた時、孝介は驚いて顔を上げた。
その勢いにつられたのか、足立も同じように驚いて顔を上げ、自分が何をしているのかを悟りあわてて両手を離した。
しばらくどちらも動けなかった。すぐ側にある足立の顔をみつめ、こちらを見返す視線が恥ずかしくて目を落とすと、足立の片手が行き場を失くしていることに気が付いた。
孝介は迷って目を上げた。足立が不安そうにこちらを見ていた。うっとりと夢見るような瞳のなかで、本当に触れてもいいのかと迷っている。
大人でもこんな顔をするんだと思ったら、なんだか可笑しくなってきた。大丈夫だと答える代わりに、孝介はそろそろと顔を寄せていった。足立の指先が頬に触れた。もうさわられることに違和感は覚えなくなっていた。
「……綺麗だよ」
熱っぽい囁き声。孝介は困って微笑した。
足立は頬に手を置いたまま何かを考え込んでいた。瞳があちこちに揺れ、目線が重なると何かを決意するのに、またすぐ迷って逃げていく。
――何考えてるんだろ。
目の奥を覗き込もうと孝介は顔を寄せた。その時には互いが何を望んでいるのかわかっているような気がした。やがて足立がこちらを見た。見られたことにたじろいで視線を落とすと、いつの間にか足立の鼻先がすぐそこにあった。落とした目線を持ち上げるように、あごに当てられた指へとわずかに力が加えられた。抗うことは簡単な筈なのに、何故か孝介はそうしなかった。
唇が重なって、すぐに離れていく。
ほんの数センチ先にある足立の目を孝介は見上げた。あからさまにねだっているように見えなければいいけどと思いながら二度目の口付けを受けた。緊張で震えているのがわかった。生温かいものが唇を押し開くのに合わせて噛み締めていた歯を少しだけ開き、これでいいのかなと混乱しつつも同じように舌を差し出した。
舌先が絡み合った瞬間、言葉にならない悲鳴が洩れていた。足立の背広にしがみつき、背筋を駆け上がった快感の為に逃げ出しそうになる自分を、必死になって押さえつけた。足立は頬に触れていた手を孝介のうなじに差し込んだ。足立の熱が心地よかった。触れられているあいだ、それを一度も嫌だと感じなかった事実に、初めて孝介は思い至った。
唇が離れた。言葉もなく、孝介はただ震えていた。切れ切れに息を吐き、足立を見ようとした時、不意に強く抱き締められた。
背中を抱き返す腕が震えている。息をするのが難しかった。心臓がばくばく言っている。自分たちは何をしたのだと確かめたい気もしたけど、言葉にしたとたん、何故か冗談になってしまいそうで怖かった。
髪の毛を梳く足立の手の動きが孝介を落ち着かせてくれた。互いにギクシャクしながらゆっくりと身を起こし、最初のように座り直した。足立の腕が伸びて自然な手付きで頬に触れ、感触を楽しむように親指を滑らせていく。
「……ありがと」
もう会えないのだろうかと、最初に考えたのはそれだった。部屋に来てから三十分も経っていない筈なのに、これまでとはいろんなものが変わってしまった。なんだか信じられない気もするが、それは確かに二人のあいだで起こったのだ。
「えと――」
足立はふと我に返ったような顔付きで手を離した。がりがりと髪の毛を掻き、困ったようにこちらを見る。
「あの……また会ってもらえないかな」
「え……」
「やだ?」
奴の不安そうな視線で孝介は我に返った。大あわてで首を横に振った。
「よかった」
――なにそれ。
なに、その子供みたいな笑顔。
足立は、孝介がこれまで出会った大人の誰とも違っていた。曲がったままのネクタイ、あちこち好き放題に跳ねている髪の毛。だらしない口元。子供みたいな笑顔。綺麗なものが好きだと言い、綺麗なものにさわりたいと言う。その為には相手がどれだけ困惑しようともお構いっこなし。
なのに、どこか遠い。
なにこれ。なんなんだ、この人。
携帯番号を訊かれ、孝介はつっかえながら答えた。足立は番号を打ち込んで一度だけ孝介の携帯電話を鳴らした。
「今度電話するね。よかったらアパート遊びに来て。…………ちょっと、汚いけど」
「――はい」
足立が腰を上げるのにつられて孝介も立ち上がった。ドアを開ける手前で足立は立ち止まり、ためらいがちに振り返った。
手を伸ばされたのと、こちらが腕を伸ばすのと、ほぼ同時だった。足立は孝介の体を強く抱き締め、それまでの緊張を解くかのように大きく息を吐き出した。
そうして突然笑い出すので、孝介は驚いて顔を上げた。
「いやー…………なんだろなぁ」
力の抜けた笑い声だった。
「なんてーの? なんていうか……あれ?」
「……」
「僕ら、なんでこんなことになってんの?」
そんなの知るか。
「…………こっちの台詞です」
今なら全部冗談に出来る。ただ単に顔をさわられた、それだけだと互いに認識を改めて、終わりに出来る。足立がそうしたいのならそうすればいい。孝介は腕を下ろして棒立ちになり、半ば怒りと共にうつむいた。
沈黙があった。やがて足立の腕に力が込められ、拒絶されていないことを確かめるように、ゆっくりと抱き寄せられた。
「ごめん」
孝介は失意と共にその呟きを聞いた。この時間はなかったことにされるらしい。まぁ、それもそうか。足立の肩にあごを乗せて孝介は考える。それはそうだ、自分だって何が起きたのか、今に至ってもよく理解出来ていない。笑い話にもならないような些細なこととして忘れるのが、多分一番いい方法なのだ。
「謝ってもしょうがないのはわかってるんだけど、ごめん」
足立の言葉が喉の奥に引っ掛かるのがわかった。痛いほどに抱き締められ、苦しくなって離れようとした時、足立のかすれた声が囁いた。
「……君が好きだ」
息が止まった。