足立の舐め回すような視線を孝介はわざと無視している。ベッドに腰掛け、グラスのジュースをゆっくりと飲み、時折天井に向かって吹き上げられる煙草の煙を目で追いながら、早く決めてくれないかなとこっそり思うだけだ。
「下半身も有り?」
煙草の灰を叩き落として足立が訊く。
「……どこまで?」
孝介も訊き返す。
「ズボンと靴下だけでいいよ。下着は穿いたまま。どう?」
「……値段による」
「四千円。――あ、待って。細かいのあったかな」
くわえ煙草で足立は財布を取り出し中身を確認した。そうして札を数えると、「あった」と嬉しそうに笑って煙草をもみ消した。
「いいですよ」
グラスをテーブルに置いて孝介も苦笑した。この男はどんな時でもまるで子供のように笑う。その無防備な様があるからこそ、これが続いてしまうのだ。
「じゃあ決まり」
足立の声に応えるように孝介は立ち上がり、ベルトを外して学生ズボンを脱いだ。床にズボンを放り投げて足立を見ると、奴は座り込んだままこちらを見上げてニヤニヤ笑っていた。
「靴下履いたままって、ちょっと間抜けでいいね」
「……今脱ぎますよ」
「駄目。僕が脱がすの」
座ってという言葉に従い、孝介はベッドに腰を下ろした。
足立がのそのそと床を這って目の前へやって来る。あらわになった両脚をじっと眺め、そっと片手を伸ばして太腿に触れた。滅多に他人がさわる機会のないそこはやけに敏感で、そんな所を観察されていると思うだけで恥ずかしくてたまらない。だがそっぽを向いていると、いつの間にか脚の付け根付近に足立が顔を寄せ、舌を触れていたりするからもっとたまらない。
孝介は口にこぶしを当てて、洩れそうになる悲鳴を必死にこらえた。足立は構わずにもう一方の太腿へ手を乗せ、鼻先に当たるワイシャツの裾を邪魔そうにめくり上げた。
「我慢出来なくなったら言いなよ。してあげるから」
股間を見ての発言だ。
「自分で出来ますよ……っ」
足立の舌が太腿を這い、途中何度もきつく吸い上げられる。そうする合間に手が靴下を脱がしにかかっており、足首、かかと、そして剥き出しになった足の甲へと唇を触れて、足立は一度大きく息を吐く。その感触がなんだかじれったくてたまらず、背後に両手をつきながら、孝介も同じように息を吐いた。
「……足立さんって変態ですよね」
もう何度目になるのかわからないその台詞を、今日も繰り返してしまう。足立はふくらはぎを撫でさすりながらちらりと目を上げた。
「その変態に、喜んで体売ってるのはどこの誰だろうね?」
「……」
「嫌なら断ればいいのに」
変だねぇと呟いて笑い、小指と薬指とのあいだに舌を差し込んだ。
「ちょ……っ!」
はずみで足を引っ込めかけたが、足立の両手が膝下とかかとをがっしり掴んで離さなかった。そのまま小指を口に含まれ、軽く噛み付かれた時、どうやっても誤魔化し切れない嬌声が孝介の口からこぼれ落ちた。
自分がこんな声を出す羽目になるなんて、引っ越してきたばかりの頃には想像もしていなかった。その姿をおかしそうに笑いながら観察されるなんて考えてもみなかった。
足立の手が触れるたびに、悪寒に似た何かが腰を通って背中を駆け上がってくる。それは閉じていたいと思う孝介の口を無理矢理に開かせて、自分でも初めて聞く奇妙な声と息遣いを、喉の奥から引っ張り上げる。
音がうるさいと言って足立はテレビを消した。静かになった部屋で聞こえるものは、孝介が洩らす悲鳴と乱れ始めた呼吸、足立が吐き出す息の音だけだ。
下半身と指定のあった通り、足立は脚にしか触れてこない。肝心の部分は目の前にありながらも素通りされている。孝介は我慢出来なくて足立の髪の毛に手を差し込んだ。付け根付近を舐めていた足立は動きを止めてこちらを見た。
「なに?」
「…………二千円あげるから」
意図は伝わったようだ。足立は身を離して「いいよ」と笑い、ティッシュを何枚か引き抜いた。
脇に座り込んだ足立は少し斜めになるよう孝介に指示した。言われたとおりに半身を引いて、腕が伸びるのを黙って見守る。足立はためらうことなく孝介の下着のなかへ手を差し入れ、熱くなったそれをやんわりと握った。
「……っ」
安堵と快感の為に、たまらず息を吐き出した。足立はじれったいほどにゆっくりと手を上下させている。肩口に顔を寄せて嫌々をするように首を振ると、不意にアゴを押し上げられた。
「顔見せてよ」
足立の嘲笑うような視線が見守っていた。孝介は恥ずかしくなって目をそらせたが、顔を伏せることは辛うじてこらえた。
手の動きを速めながら額がぶつかるほどに顔を寄せて、足立はじっとこちらを観察している。時折意図せずして声が洩れると、奴は嬉しそうに口の端を持ち上げて嗤った。文字通り舌なめずりしてこちらを見る目は今でも怖いが、それ以上に抗うことの出来ない快楽を、この男は与えてくれる。
「――ね、千円戻すからキスしていい?」
興奮した様を隠そうともせずに足立が訊いた。色よい返事をせがむかのように、親指が先端を撫でて通り過ぎていく。快感に酔いながら「いいですよ」と答えたとたんに唇が押し付けられ、生温かい舌が侵入してきた。
我慢出来ずに抱き付いていた。夢中で息を交わし、それに応えるように足立の手の動きも速くなる。
唇を離した孝介は小さく喘ぎながら無意識のうちに腰を浮かせ、耳元で鳴らされた足立の苦笑で我に返った。腕の力を緩めると足立はまた真正面に顔を持ってきて額を寄せ、下の方から覗き込んできた。
「イキそうなんでしょ。いやぁらしい顔」
「……っ」
熱くなった体が羞恥の為にもっと熱くなる。
震える指で足立の首元にしがみつき、終わりを延ばそうと孝介は大きく息を吐く。だが限界は近かった。相変わらず足立の目はこちらを探るようにじっと据えられており、その冷静な視線にいっそう恥かしさが募る。終わって欲しいような、もっと続いて欲しいような、自分でも判別の付かない混乱に迷い込み、孝介は知らずのうちに足立の名前を呼んでいた。
気持ちいいのかと訊かれてはいと答え、もっととねだりながら何度もキスをした。いつまでも足立とこうしていたかった。今日が過ぎてしまえば、次はいつ連絡が貰えるのかわからなくなる。
だが終わりはやって来た。足立の手のなかに熱を吐き出して、孝介は切れ切れに息をついた。快感に痺れる指で足立の頬を撫でると、奴は妙に冷静な顔でこちらを見返してきた。
「もうちょっと脚さわらせて」
「……はい」
淡々と後始末をしながらの台詞だ。息を整えながら孝介は足立の言葉を思い返していた。
『物々交換みたいなもんだよ。一方的に僕が搾取するんじゃ悪いしね』
足立は金を落とし、代わりに孝介は体を与える。これは契約だ。ここ二ヶ月近く、誰にも内緒で二人はこんなことを続けている。
足立との出会いは稲羽署の取調室だった。ジュネスのフードコートで刃物を振り回している危険人物として警察に引っ張られ、陽介とは別々に、事情聴取という名のお説教を受けた。その時孝介を担当したのが足立だった。
話の内容はあまり覚えていない。一応事件があった直後だからバカな真似はしないようにと釘を刺されたが、それ以外は半分以上奴の愚痴を聞いていたようなものだった。話長いなぁとか、早く終わってくれないかなぁ、などとぼんやりしていると、突然足立が妙なことを言った。
「…………君、綺麗な顔してるねぇ」
「はあ?」
驚いて顔を上げると、机の向かい側で足立がしげしげとこちらをみつめていた。
「いや、顔っていうか、肌。はー、男でもこんな綺麗な肌の子って居るんだねえ」
孝介は思わず、どうも、と呟いていたが、咄嗟に身を引いていた。向かい側に座った足立は机の上に身を乗り出すようにしてこちらをみつめている。なおもまっすぐ向けられる視線に耐えられなくて、孝介は顔をそむけた。それでもまだ視線は絡み付いてきた。
「……あの、なんですか?」
取り調べに肌の検査がある、などという話は聞いたことがない。今ここには二人だけだ。鍵は掛かっていないようだが、閉められたドア、狭い部屋、二人きり、というシチュエーションに加え、現在進行中で近付いてくる足立の視線に、孝介は嫌でも恐ろしい想像を掻き立てられた。
「あのさ、ちょっと顔さわってもいい?」
「はあ!?」
追い打ちにこの台詞である。足立は許可を得る前から早々と腕を伸ばして更に近付いてこようとしていた。
「だって綺麗なんだもん」
「綺麗って、あの……」
「ね、ちょっとだけ」
「嫌です」
孝介は腰を下ろしたパイプイスごと身を引いた。足立はこちらの言葉を聞いているのかいないのか、どことなく夢見るような顔で腕を伸ばしてくる。孝介はもっと身を引いた。足立ももっと身を乗り出した。
「……あの、これ、なんの冗談ですかっ」
「いや、冗談じゃなくって」
余計たちが悪い。
がつん、という衝撃が足元で起こった。驚いて振り返ると、もうすぐそこが壁だった。足立はイスから立ち上がり、机をよけてそろそろとこちらに歩いてきていた。孝介も同じように立ち上がってパイプイスと共に部屋の隅へ逃げた。なんだってこんなに執着されるのかさっぱりわからなかった。肌が綺麗とかっつったって、俺今あごにニキビあるんですけどと叫んだが、足立はいっこうに聞いてくれなかった。人生終わった、と本気で観念した瞬間だった。
「おぅ足立ぃ。ここに月森って――――――何やってんだ?」
「はへっ!?」
まるで天啓のように取調室のドアが開き、叔父の遼太郎が姿を現した。その時孝介は部屋の隅でパイプイスを盾のように持ってうずくまり、足立はその脚に手を掛けたところだった。あと少しでも遼太郎の登場が遅れたら、そこに足立の死体が出来上がっていたかも知れない。九死に一生を得た気分とはまさにこのことだ。
そんなことがあったせいで、孝介は必要以上に警察に対して警戒するようになった。
そもそも雪子の失踪は殺人事件と何らかの関わりがあるのではと言われていたし、ここで何か付け入る隙を与えたら特捜隊の捜査も進まない。一番いいのは雪子の件で全てが終わりになることだったが、犯人が捕まったという話はこれっぽっちも聞こえてこないし、捜査が進展している様子もない。
だが雪子がそろそろ登校出来そうだという頃には、取調室での記憶も薄れかかっていた。あれ以来(当然のことながら)警察のお世話になるようなことはなかったし、まぁ所詮はあの時だけのことだしな……と孝介が安堵しかけたその晩、何故か遼太郎が足立を伴って帰ってきた。
忘れてた。いや、忘れてないけど忘れてた。
遼太郎が刑事だというのは承知の上だったが、まさかこんなところで足立と再会するなどとは夢にも思っていなかった。
「ども。足立です」
自己紹介なんかされなくたって顔も名前も嫌というほど覚えている。というか、いきなり記憶が噴出した。
従妹の菜々子は滅多にないお客さんにやや興奮気味だったが、孝介の気分は最悪だった。しかも案の定、飯の最中もたまにぼけぇっと横顔をみつめてくることがあった。気付かないフリで押し切ろうと思ったのだが、それは甘かったらしい。