「……あーっと、アイスコーヒーと午後の紅茶、どっちがいい?」
「紅茶って何味ですか」
「ストレート」
「じゃあ紅茶で」
 部屋は相変わらずの汚さだったが、テーブルの上だけはなんとかしようと奮闘したらしき跡が見て取れた。整頓しようという心掛けは偉いと思うが、この部屋を綺麗にしたければまずは物を捨てるところから始めた方がいいんじゃないだろうか。部屋の隅で雪崩を起こしている雑誌の山を見て孝介は考えた。
「先週どっか行ってたんだって?」
 両手にグラスを持った足立がやって来た。
「林間学校だったんです」
「へー、いいなぁ。キャンプとかしたの?」
 受け取った紅茶に口を付けて孝介はうなずき返す。
「一応テント張ったりはしましたけど。でも殆どゴミ拾いに行ったようなもんですよ」
「学校の行事なんてそんなもんでしょ。夜にテント抜け出して女の子のとことか行った?」
「うち、それみつかると即行で停学なんです」
「そりゃ厳しいね」
 足立はアイスコーヒーをひと口飲むとグラスをテーブルに置き、代わりにレンタルショップの袋を拾い上げた。もう一本は言葉の通り海外のサスペンス映画のようだ。パッケージからDVDを取り出して機械にセットしている。
「足立さんはその映画、観たことあるんですか?」
「もう三回くらい観たかな。結構お気に入りでね」
 リモコンを取り上げてディスクをスタートさせる。そうしてこちらに振り返り、
「後味の悪い映画なんだ」
 そう言って微笑んだ顔がなんだか怖くて、孝介は一瞬身動きが出来なかった。
 動揺を悟られまいとグラスを口に運んでいると、足立はベッドに乗り、孝介の背後へと腰を下ろした。そうして腹の辺りを両腕で抱え、ぴったりと体を密着させてきた。
「はー、落ち着く。――あ、ごめん、コーヒー取って」
 リモコンを脇に置いて腕を伸ばしてくる。孝介は前のめりになってグラスを拾い上げ、足立の手に渡してやった。足立はコーヒーをひと口飲んだだけでまたグラスを戻してくる。どうやら映画を観ているあいだ、ずっとこの体勢でいる気らしい。
「足立さんって、この恰好好きですよね」
「なんか落ち着くんだよねー。なんかをぎゅーってしてるのってさ。そういうの、ない?」
「俺は――」
 少なくとも何かを抱えて落ち着くような記憶はない。だが今こうして背後から抱き締められ、背中全体に足立の体温を感じているのは心地良かった。
「俺は、背中に人が居ると落ち着きますかね」
「今みたいに?」
「はい」
「ふうん」
 別の映画の予告編が始まった。出てきた車のデザインになんとなく古臭さを感じる。どうやら結構昔の映画であるようだ。
「選手交代」
 そう言っていきなり後ろへ引っ張られた。何事かと思っていると、持っていたグラスを奪われテーブルに置かれてしまった。そうして何故か目の前に足立が座り込んできた。
「ちょっと試しにやってみてよ」
 足立はそう言うと孝介の腕を拾って自分の腹に巻き付けた。仕方なしに力を込めたが、別段面白いとは思わなかった。足立は意外にがっしりとした体つきをしているので、頑張って腕を伸ばさなければならない状態だ。これでは抱き締めるというよりは「しがみついてる」と表現した方がよさそうである。
「……なんか疲れるんですけど」
「うん。僕も落ち着かない」
 気抜けした声で足立は言い、腕のなかから逃げていった。そうして再び背後に回るとお馴染みの動作で抱き付いてきた。
「やっぱりこっちの方がしっくりくるや。はー、落ち着く」
 深々とため息をつくのがおかしかった。孝介は思わず苦笑を洩らした。結局抱き枕の代わりにされてしまうらしい。まぁいっか、と力を抜いてもたれかかった時、突然首筋にぬるりとした物が触れて身を起こした。
 驚いて振り返ると、舌を出したままの足立がきょとんとした目でこちらを見ていた。そうして今更自分の行動に気が付いたと言いたげに舌を仕舞い込み、
「映画観てていいよ」
「……わかってますよ」
 にたりと笑って、今度は同じ場所へ唇を押し付けてくる。シーツを握り締めて映画に集中しようとしたが、流れ始めた字幕を読もうとした途端にうなじを軽く噛まれ、更にねぶられて、思わず声を洩らしてしまった。
 そうするとやり過ぎたと思うのか、足立は少し離れていく。だが息を整えてまた画面に集中しようとすると、邪魔をするように足立の呼吸が近付いてくる。何度も首筋を吸われ、舌先でくすぐられ、なのに他の場所へは一切手を出されないのがもどかしい。耳の縁を齧られてとうとう我慢が出来ず、足立の腕を掴んでいた。
 映画が始まってどれくらいが過ぎたのかなど、既にわからなくなっている。振り返って睨み付けたが、足立は静かに笑うだけだった。
 不意に抱き寄せられて唇が重ねられた。やり場のなかった快感を足立の熱に求めて、何度も息を交わした。耳に飛び込んできた怒声で我に返ったが、もはや映画を見続ける気にはなれなかった。
 陶酔のため息を吐いて孝介は足立に寄り掛かった。
「……も、映画観れないじゃないですか」
「あれ、映画観に来たんだっけ?」
 驚いて顔を上げると、足立はにやにや笑いながら孝介の髪を梳いた。
「足立さんが電話してきたんじゃないですか。レンタルしたから一緒に観ようって――」
「そうだったっけ?」
 とぼけた口調で言い、眉間に唇を触れてくる。そうしてまた唇を奪われ、わずかな抵抗として手首を引っ掻いたが、いつの間にか逆に押さえ込まれていた。
「ごめん。何話したのか忘れちゃった」
 離れていく真っ黒な目がおかしそうに笑っている。決して忘れてなどいないとその目が語っていたが、ワイシャツのボタンを外す手の動きに抗うことなどもう出来なかった。
 林間学校のあの晩、ずっと帰りたいと願っていたことを思い出した。苦しいほどこの男に会いたかったことを思い出した。けれど、どんどん惹かれていく自分も怖かった。どうせ遊ばれているだけだ。それがわかっていても、ふとした瞬間に見せる真剣な眼差しに包まれたとたん、否も応もなく滅茶苦茶にもてあそんで欲しいと思ってしまう。
 この人は何が面白くて俺なんかを構うんだろう。
 いつか飽きられたらどうなるんだろうと考えた瞬間、全身を恐怖が走り、絡め取られた手を握り締めていた。足立は不思議そうにこちらを見た。あの真っ暗な目が何かを探るようにじっと覗き込んでくる。
 吸い寄せられるようにしてキスを交わした。互いの手が熱かった。


 靴箱のなかには砂埃と革の匂いが詰まっていた。菜々子は三和土で膝立ちになって棚の奥を覗き込んでいる。上から二段目、ちょうど棚の真ん中辺りに求める品があった。腕を伸ばして取っ手を掴み、手前へ引っ張ろうとしたけど、予想外の重さに驚いて一度手を離してしまった。
 だけど、今家には自分しか居ない。やるしかない、と気合いを込めて再び取っ手を握り締めた時、足音が聞こえて玄関の扉が開いた。
「――菜々子、何してるんだ?」
「お兄ちゃん」
 まるで天啓のように孝介が帰ってきた。菜々子は取っ手を片手で握ったまま靴箱のなかを示してみせた。
「あのね、これ出して欲しいの」
「どれ?」
 菜々子が手を離したあとを孝介は覗き込んだ。「これでいいの?」と言いながら軽々と引っ張り出された物は、遼太郎が使っている工具箱だった。鉄で出来ている為に空でもかなりの重さになる代物である。
「ありがとう」
「そんなの、何に使うの?」
「あのね」
 菜々子は一度台所に戻ってテーブルの上に置いておいた紙コップを持ってきた。
「今日学校でね、糸電話作ったの。それでね、おうちにある糸でもためしてみましょうって先生に言われてね、毛糸みつけたから作ろうと思ったの」
 作り方は簡単だ。紙コップの底に穴を開けて糸を通し固定するだけ。しかし鉛筆では思うような穴が開かずに困っていたところ、遼太郎の工具箱の存在を思い出したというわけである。
「糸電話か、懐かしいな」
 孝介は嬉しそうに言って工具箱のフタを開けた。
「お兄ちゃんも作ったことあるの?」
「あるある。やったよ、小学生の時。結構ちゃんと聞こえるんだよね」
「うん。さなちゃんの声がすぐ近くで聞こえるんだもん。すごくビックリした」
 工具箱のなかには色々な物が収められていた。油で汚れたボロ雑巾、柄の長いドライバーと大きなレンチ、ニッパーやラジペン、かなづち、様々な大きさのネジと釘。
 そういえば菜々子が小学校に上がる前、遼太郎は時々この道具箱を持ち出して車の側で何かをしていた。近くに寄るといつもガソリンの匂いがしたのを覚えている。車のラジオを付けて一人で黙々と作業をこなす遼太郎は、どことなく楽しそうだった。最近はそんな顔を見ることもなくなってしまったが。
「あった。これだろ? 探してたヤツ」
 そう言って孝介が取り出したのは千枚通しだ。まさに求めていた品である。「ありがとう」と言って菜々子は上り框に座り込み、あらかじめ印を付けておいた二つの紙コップの底に穴を開けた。孝介に頼んで工具箱を仕舞ってもらい、居間に戻って毛糸を通した。コップの内側の毛糸をセロテープで留めて出来上がり。
「はい、お兄ちゃんの分」
 片方の紙コップを孝介に渡して菜々子は奥の部屋に向かった。糸がぶつからないよう少しだけ隙間を残して襖を閉め、「いーい?」と声を掛けた。
「いいよ。菜々子喋ってみて」
「うん」
 菜々子は紙コップを両手に持ち、糸が緩まないよう軽く引っ張りながら口を当てた。
「もしもし、菜々子です。聞こえますか?」
 ワクワクしながらコップを耳に当てる。少し待ったのちに、ぼんやりとした孝介の声らしき物が聞こえてきたが、はっきりと何を言っているのかはわからなかった。
「お兄ちゃん、聞こえる?」
 もう一度紙コップに向かって言い、返事を待つ。しばらくしたあと、やはりぼんやりとした声が伝わってきたものの、何を言っているのかは聞き取れなかった。
「菜々子」
 三度目に話し掛けようとした時、襖が開けられた。孝介は紙コップに繋がる毛糸を指先でつまみ上げ、
「毛糸じゃ駄目みたいだな」
「うん……」
 何がいけなかったのだろう。確か学校で作った時は裁縫をする時の細い糸を使った。ああいう糸じゃないと駄目なのかも知れない。
「タコ糸とかあるかも知れない。探してみよう」
「でも紙コップがもうないの。大きい穴開けちゃったけど、これでもできるかな?」
「……どうだろうな」
 さすがの孝介も首をひねっている。少し考え込んだあと、ふと目の前にしゃがみ込んできた。
「それじゃあ、一緒にジュネスに買いに行こうか」
「ジュネス!? 行く行く!」
 菜々子は喜び勇んで答えて部屋から飛び出した。「着替えてくるから待ってて」と孝介が立ち上がった時、不意に携帯電話が鳴り出した。画面を見た孝介の顔が一瞬強張るのを、菜々子は見逃さなかった。
「……もしもし」
 紙コップを菜々子に渡して孝介は背を向けた。ジュネスに行けると喜んだのも束の間、一瞬にして菜々子の胸の内に不安が広がった。
「いえ、今日は、その――」
 うつむきがちに声を聞く孝介の表情は暗い。菜々子は思わず孝介のズボンを掴んで引っ張っていた。
「菜々子だったら、いいよ。お買い物、今日じゃなくても」
 孝介はこっちを見下ろして笑いかけてくる。そうして大丈夫だよと言うように首を振り、頭を撫でてくれた。
「すみません。……はい、また」
 電話は終わってしまった。自分のせいで断ったのだろうか?
 ドキドキしながら言葉を待っていると、携帯電話を仕舞い込んだ孝介が振り返り、再度笑いかけてきた。
「じゃあ着替えてくる」
「……いいの? 用事じゃないの?」
「違うよ。大丈夫。――ついでに夕飯の買い物もしてこようか」
 そう言って歩き出した孝介のあとを、菜々子は追うことが出来なかった。返事がないのを不審に思ったのか、階段を昇ろうとしていた孝介は足を止めて振り返り、こっちを見て不思議そうに首をかしげた。
「菜々子?」
「……えっと、ジュネスじゃなくって、近くのお店だったら、すぐに帰ってこれるよね」
 そうしたら電話を掛けて、お兄ちゃんは出掛けられるよね。そう思いながら言ったのだが、孝介はますます不思議そうな顔をした。そうしてちょっと笑いながら反対側に首をかしげてみせた。
「お兄ちゃんはジュネスに行きたいと思うんだけど、菜々子は他の店がいいの?」
「……ううん。ジュネスがいい」
「じゃあ一緒に行こう。あそこなら道具も全部揃うと思うよ」
「――うん」
 やっと菜々子は安堵して紙コップをテーブルに置いた。そうしてコップを繋ぐ毛糸を眺めて、思い出した。この赤い毛糸は、昔母親が編んでくれたマフラーと同じ色だった。


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