吐き出した煙は外灯の淡い光のなかでふらふらと揺れて消えていく。足立はさっきから自販機を睨み付けて、おとなしくコーヒーにしとけばよかったと後悔を続けていた。試みに買い込んだやそぜんざいだが、思った以上に甘みが強くて美味くない。お菓子は好きだが、飲み物はやはりあっさりとした味わいの方が好みだ。
「足立さん」
 一人でとろとろと後悔を続けていたら、暗がりから声を掛けられた。足立はガードレールに腰掛けたまま振り返り、そこに立つのが孝介だと確認したあと、挨拶代わりに缶を持ち上げてみせた。
「珍しいの飲んでますね」
「うん。やめとけばよかったって思ってる」
「嫌いですか? やそぜんざい」
 美味いと思うけどなと言うので、半分しか入っていないそれを押し付けてやった。孝介は困惑の体で缶を受け取ったが、文句も言わずに口を付けるところを見ると、美味いと思うのはどうやら本心であるらしい。
 孝介はそのまま隣に腰掛けてきた。時刻は八時になろうとしている。足立は閉じられたシャッターを眺めながら煙草を吸い込んだ。宙に向けて煙を吐き、「出てきて大丈夫なの?」と今更のように訊いた。
「叔父さんが帰ってきましたから」
「そっか」
「っていうか、足立さんの方が先に帰れるんですね」
「無駄な仕事はしない主義なの」
 言った瞬間、しまったと思った。
 四月に起きた連続殺人事件は依然として捜査が進んでいない。ちょこちょこと人間が消えて、数日後に戻ってくるという不可解なことも起こっているが、事件性が認められずに放置されている。実際誰かが居なくなったという話が持ち上がっても、身代金を要求されるか、それが死体となって発見されない限り、今後も警察が動くことはないだろう。
 足立は殺人事件の犯人(?)を知っているし、誘拐が誰の手によって行われているかもわかっている。どこを探したって証拠などみつかる筈もないから、当然仕事などする気にはなれない。
 孝介が不思議そうな目でこっちを見ていた。足立は誤魔化すようにまた煙草を吸い込んだ。
「今日はお偉いさんと打ち合わせがあるって言ってたしね。僕みたいな下っ端はお呼びじゃないのよ。先に帰っていいって堂島さんも言ってくれたし」
「ふうん」
 だから帰りがけに電話を掛けたのだが、今日は都合が悪いと断られてしまった。あきらめて一人で晩飯を食い、やることもなくテレビを見ていたら孝介から電話があった。
『用ってわけじゃないんですけど……』
 彼は電話になると口数が減るようだ。電話なのにそれでどうすんのと思っていたら、いつの間にか少し出てこないかと誘いを掛けていた。どうせ煙草を買うついでもある。ちょっとでいいから顔見せてよと優しく言うと、逡巡したのちに孝介は同意した。
 ――ちょろいよなぁ。
 所詮は高校生かと思いながら煙草を足元に投げ、踏み潰して火を消した。
 孝介はやそぜんざいをゆっくりと飲み下す。片方の手がガードレールの縁に置かれていた。足立は煙草を捨てて空になった手でその手を握り締めた。孝介はちらりとこっちを見て、また顔を戻していった。
「足立さんって、女の子みたいですよね」
「はあ? なにそれ」
「だって……すぐに手握ってくるし、部屋に居る時もやけにくっつきたがるし」
 足立は握った孝介の手を見下ろして、ぽいと捨てた。
「じゃあいいよ」
 孝介は何も言わずに手をガードレールに戻した。あまりに何も言わないのでまた見ると、缶を唇に当てたまま何事かを思い悩んでいるようだった。
「……別に嫌ってわけじゃないですよ」
 そう言ってうかがうようにこっちを見た。足立が手を差し出すと、真似をするみたいに孝介も手を伸ばす。そのまま乱暴に握り締めて足立はこっそりとため息をついた。
 ――何考えてんのかねぇ。
 事件から二ヶ月以上が過ぎた。天城雪子から始まった誘拐事件は今のところ全て秘密裡に解決されている。何日か前には久慈川りせが姿を消したが、それもどうやら無事に保護されたらしい。死ねばよかったのに、と足立は残念だったが、どうせ死ぬならその前に悪戯くらいしてやりたかった。なにせ元アイドルである。根は青臭いガキだが、死んでしまうのであれば惜しむことも出来た。
 だが生田目はかなり手際がいいらしく、気が付いた時にはテレビのなかに居た。あんなところまで追いかけていく気力はさすがになかった。
 だって、あからさまにヤバそうだし。
 しかしこいつは――孝介やその周囲の数人は、そんなところへわざわざ乗り込んでいってまでりせを助けている。どうやら事件の犯人をみつけようと躍起になっているらしい。よっぽど暇なんだなと呆れるが、同時に感心するのは、そんな事実などおくびにも出さないことだ。
 現職の刑事である叔父の家に住み、同じく刑事である自分とこうして会っていても、そんなことなど微塵も感じさせない。堂島は確かに孝介に対してなんらかの疑念を抱いているようだが、それもどちらかといえば事件に巻き込まれることを懸念してであるらしい。関係ない奴が現場を引っ掻き回すな、怪我する前にとっとと帰れ――ということだろう。
 なんの為にそんな無茶をするんだか。正直足立には理解不能だ。他人の為に労を厭わないなんて、そんなのは一番馬鹿げている。
「……あの……」
 声に顔を上げた。孝介は飲み終わった缶を足元に置いて一度こっちを見た。何かを言うように少しだけ口を動かして、でも言葉は出てこないままうつむいてしまった。
「なに?」
 握った手を引き、身を寄せて横顔を覗き込む。孝介は足元を見下ろしてじっと何かを考えているようだった。
「……足立さんは、なんで――」
「うん?」
 また言葉が止まってしまう。奥歯を噛み締めながら首を振り、「なんでもないです」とだけ呟いた。
「なに。途中でやめないでよ、気になるでしょ」
「すみません」
 ――何考えてんだろ。
 本当に犯人を捕まえられると思っているんだろうか。どこまで続ける気でいるんだろう? こんな風にして誘いを掛ければあっさりと出てきてしまう自分自身を、どう思ってるんだろう。
「――ねえ、ちょっとだけ部屋来ない?」
「え?」
 ――何考えてんだろ。
 どうしたら吐かせられるだろうか。果たして吐かせることが出来るのか? だがそんなことはどうでもいい、今は無性にこの子供をいじめたかった。甘い言葉で騙して誘惑して、それをどこまで我慢出来るのかを見たくなった。今日はあまり時間が取れないだろうが、それなら明日がある、明後日がある。
 孝介は困惑した目で考え込んでいる。足立は更に手を引いて顔を寄せた。
「ね。少しでいいから」
「……」
「駄目?」
「……駄目じゃ、ないですけど……」
 堂島も帰ってきたという話だから菜々子のことは心配しなくていい筈だ。だが孝介はまだ逡巡を繰り返していた。足立はもっと身を寄せて、耳元にささやきかけた。
「外じゃしたくてもキス出来ないよ」
「……っ」
 孝介が手を握り直してくる。足立は人差し指をくすぐりながら返事を待った。
 ふと孝介が顔を上げた。相変わらず何かを言いたそうなのに、言葉はひとつも出てこなかった。
 ――何考えてんだよ。
 頑なに明け渡すことを拒絶するその胸の内に、一体何が隠されているのか。洩れ出てくるのは苦しそうな吐息ばかりだ。うつむいてしまった孝介の顔を足立はそっと覗き込んだ。
「ね、来なよ。ちょっとだけ」
 ためらう瞳が静かに持ち上げられた。すがりつくようなその眼差しに、足立は一瞬我を忘れそうになった。
「…………はい」
 足立は手を離し、髪の毛がぐしゃぐしゃになるほど孝介の頭を撫でた。ガードレールから腰を上げて「行こう」と笑いかける。空き缶を自販機側のゴミ箱に入れたあと、孝介は置いていかれまいと駆け寄ってきた。
 田舎のいいところは、唯一人通りの少ないことだと、足立は思った。


「――お前たち、なにやってんだ?」
 遼太郎の声を合図に菜々子は襖を開けた。新聞を片手に持つ遼太郎は、階段の上から菜々子の手元まで伸びた糸を不思議そうに見下ろしている。
「あのね、糸電話!」
「菜々子と一緒に作ったんです。この前毛糸で作ったんだけど、全然聞こえなくて――な?」
「うん」
 孝介は階段の途中に腰を下ろして糸電話の片方を持っていた。珍しく三人が揃っている、のどかな日曜の午後のことだ。
 このあいだジュネスで縫い糸と紙コップを買ってきた。新たに作ったこれは、毛糸で試した時よりずっとよく声が聞こえた。菜々子はそれを自主研究と称してノートにまとめ、先生から大きな花丸を貰ったのだった。
 その話を聞いた孝介は例の赤い毛糸を持って学校へ行った。数日後、毛糸は可愛いウサギの編みぐるみになって戻ってきた。孝介が「完二お兄ちゃん」という人に頼んで作ってもらったのだそうだ。
 白いウサギは冬でも寒くないよう、菜々子と同じ赤いマフラーを巻いていた。今は菜々子の携帯電話にストラップとして付けられている。花丸のご褒美だと言った孝介も、それを渡す時すごく嬉しそうな顔をしていた。
「ねえ、お父さんもお話ししようよ」
「え、俺もか?」
 いいと言う前に、孝介が階段を下りてきて遼太郎に紙コップを手渡した。遼太郎は戸惑いながらも階段を昇り、糸を引っ張った。
「いいよ、お父さん」
 菜々子は襖を閉め、紙コップを耳に当てる。
「あーと……その、……そうだ、いつも朝飯ありがとうな」
 照れくさそうな遼太郎の声が耳元に広がった。菜々子は声を殺してくすくす笑った。が、それ以上の言葉が続かない。どうやら終わりだったらしい。今度は菜々子がコップに向かう番だ。
「あのね、食べたい物があったらいつでも言ってね。菜々子、がんばって作れるようになるから。――どうぞっ」
 いつの間にか襖が少し開いて孝介が覗き込んでいた。何を喋っているのか気になるのだろうか。菜々子は笑いながら背を向けた。これは遼太郎と二人っきりの会話、菜々子と遼太郎だけの秘密のお喋りである。
 孝介が電話を取る時、どうして背を向けるのかが少しわかった気がした。秘密というのは嬉しくて、独り占めしていたいと思わせるものなんだ。電話の向こうに居る人と一緒に持つ、大事な宝物。
「えーっとな、…………あぁもう、孝介、代わってくれ」
 なのに、早々に匙を投げる遼太郎の声が階段の上から飛んできた。
「えー、お父さんとお話ししたい」
「お父さんは話すのが苦手なんだよ。聞いてるだけならまだしも」
「だって三人じゃ、糸電話できないもん」
 せっかく遼太郎とも遊べるかと思ったのに。菜々子は床に垂れてしまった糸を恨めしげにみつめた。
 しばらく考え込んだあと、ぽんと孝介が手を打った。
「三人で話そう」
「え、できるの?」
「お兄ちゃんに任せとけ」
 孝介はにっかりと笑って菜々子の手から糸電話を回収していった。
 しばらく経ったのちに手渡された物は、一風変わった糸電話だった。紙コップから糸が伸びているのは同じ。だが糸の端にはクリップが付けられていて、それがコップ三つ分一緒になっている。菜々子は襖の向こうに、孝介は階段に、遼太郎は居間のテーブルにとそれぞれ位置し、糸が緩まないよう紙コップを持った。
「いい? 俺から喋るよ」
「おお」
「うん!」
 菜々子は紙コップを耳に当てて息をひそめた。
「もしもーし。聞こえますかー?」
 驚いたことにしっかり聞こえた。糸は切れていてクリップでつながっているだけなのに、糸が繋がっているのと同じくらいちゃんと声が伝わってくる。
「すごい、聞こえたよ!」
「驚いたな」
「これで三人でも話せるだろ?」
「うん! ――あ、ええと、菜々子しゃべってもいい?」
 階段に向かって声を掛けると、「いいよー」とコップから大きな声が聞こえてきた。
「えと、こうやってなんでもできるお兄ちゃんはすごいと思います。お父さんはどうですか、どうぞ」
「確かにすごいな。糸電話を三人で喋るなんて発想、俺にはなかったぞ。――どうぞ」
「お父さん、どっちにどうぞ?」
「あーっと、孝介だ」
 隙間から覗く遼太郎は、なんとなく隠れて姿を見張っているようで面白い。そして姿の見えない孝介の声がちゃんと耳に届くのも面白い。すごく不思議な感じがして、なんだかワクワクする。
 孝介は編みぐるみを作ったお友達が、他にも欲しければ作ってくれると言っていることを教えてくれた。作ってもらうのは嬉しいけど、出来たら自分で作ってみたいと菜々子は言った。今度時間が出来たら一緒に教わりに行こうと話がまとまったところで、遼太郎が全然会話に参加していないことに気が付いた。
「お父さんもお話してください。どうぞ」
 菜々子がそう言って隙間から覗くと、遼太郎はテーブルに広げていた新聞からあわてて顔を上げた。そうして紙コップを口に当て、
「あーっと、……少々小腹が減った気がするな。菜々子は腹減ってないか?」
「んとね、……ちょっと空いたかも。お兄ちゃんは?」
「うん、軽く食いたい気分だな。――買い物行く?」
「行きたい!」
「菜々子はどこがいい?」
 勿論、
「ジュネス!」
「じゃあお父さんのところに集合だ。お兄ちゃんと競争!」
 最後の言葉を聞くと同時に菜々子は襖を開けて駆け出していた。遼太郎は呆れながらも腕を広げて待ってくれている。同じように腕を広げて、
「菜々子が一等賞!」
 大きく宣言し、父親の力強い腕のなかへと飛び込んだ。


菜々子が一等賞/2012.11.14


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