菜々子が初めて携帯電話を持ったのは六歳の時だった。
 通話機能と防犯ブザーが付いているだけの本当に単純な電話だったが、それは今までのどんなプレゼントよりも嬉しかった。何故ならそれは、ボタンひとつで遼太郎と繋がるからだ。
 自分が持つまでは、大人たちがいろんな場所で携帯電話を広げているのが不思議だった。
 一生懸命にボタンを押している人、何かをじっと眺めている人、時々大きな声で怒鳴っている人も居る。何があんなに楽しいのかわからなくて、何度か遼太郎の電話をいじらせてもらったことがあった。だがそこに映し出される文字は菜々子には全然読めない物ばかりで、少し遊んだだけで飽きてしまった。
 でも今ならどうしてみんながあんなに電話ばかりいじるのかがわかる。これは、大事な人といつも一緒に居るという証なのだ。
 電話には1から3まで数字の付いたボタンがあり、一番は遼太郎の携帯電話、二番には自宅の電話が登録されている。三番は小学校の事務室だ。
 電話を渡される時、どの番号も簡単に押してはいけないのだときつく言い渡された。
 ――大人も子供もみんな自分のペースを持って生活していて、それはみんなそれぞれ違っている。自分が暇だからといって相手もそうだとは限らない。たとえば自分が寝ている真夜中にいきなり電話が掛かってきたら迷惑だと思うだろ? 相手も同じだ。
 充電を終えた携帯電話を受け取り、じゃあいつならお父さんに電話してもいいの? と菜々子は訊いた。遼太郎はしばらく考え込み、どうしてもお父さんの力が必要になったら、その時は電話を掛けなさいと言った。まずは自分でなんとかする。それでも駄目なら周りの人にお願いして力を貸してもらう。それでもどうにもならないって時にだけ掛けなさい。
 それを聞いた菜々子は、自分でも駄目で、周りの大人でも駄目な時ってどんな時なんだろうと不安になった。その顔を見たのか、遼太郎は穏やかに笑って頭を撫でてくれた。
 大丈夫だよ。そんなことが起きないようにお父さんは頑張ってるんだ。お父さんのお仕事は、みんなが安心して暮らせるようにする為なんだぞ。
 『みんな』のなかに、菜々子も入ってるの? そう訊くと、遼太郎は勿論だと言ってうなずいた。一番に菜々子が居るんだ。お前がいつでも笑って過ごせるようにって、お父さんは毎日頑張ってるんだよ。
 菜々子は嬉しくて言った。じゃあ、お父さんに電話する時って、一回もないかもね――。
 勿論そうあってくれることが一番だった。こんな幼い子供に携帯電話を持たせるなんて、遼太郎の常識では考えられないことだ。だが父と子の二人きりになってしまった今、我を通してばかりもいられない。何かが起こってからでは遅いのだ。
 電話というよりは防犯ブザーとしての意味合いの方が強かったが、それでもすぐに連絡を付けられるのだと思うと、不思議なことに遼太郎も安心出来た。この春に菜々子は小学校へ上がり、少しずつだが行動範囲も広がっていく。だがどこに居てもボタンひとつで繋がれるのだと思うと、不安は幾分か解消された。
 仕事にかまけて碌々相手をしてやれない埋め合わせを、おもちゃのような電話一個で済ませようとしていることには気付いていた。しかしこれ以上はどうしようもない。みんなが安心して暮らせる町にする為に――その言葉は事実だが、残念ながら毎日どこかしらで事件が起こっている。
 娘を安心させたいが故に娘の側に居てやれない。まったく、刑事というのは因果な商売だ。
 そんな遼太郎の悩みなど露とも知らず、菜々子は枕の側に携帯電話を置いて眠るようになった。これがあればいつでもお父さんとお話が出来る。そう思うだけで勇気が出た。小学校へ通い始めた頃のなんとなく落ち着かない時は、電話があるんだから、ボタンを押すだけでお父さんが来てくれるんだからと、何度も自分に言い聞かせた。
 菜々子にとって電話はお守りだった。世界中の誰よりも強くてかっこいい、お父さんそのものだった。
 そのお守りに「お兄ちゃん」という文字が登録されたのは、五月の連休が終わる日のことだ。遼太郎にせがんで入れてもらった。それまで三番に入っていた小学校の事務室の番号を予備登録に移し、代わりに孝介の携帯電話の番号が入れられた。
 番号が間違っていないことを確かめる為に、菜々子から一度電話を掛けた。目の前に居る孝介の手のなかで彼の電話が鳴り始め、画面に表示された「菜々子」の文字を、彼も照れくさそうに見せてくれた。
 最初は、新たにやって来たこの男の人とどう接すればいいのか、よくわからなかった。
 従兄という人で、お父さんのおうちの人の子供で、菜々子とも少しだけ血が繋がっていて、だから全然他人というわけじゃない。遼太郎にそう説明されたけど、菜々子からしてみれば、高校生というのは遼太郎と同じくらい異次元に近い存在だ。
 でも嬉しいことに、孝介は夕飯の頃には大抵家に居てくれた。突然呼び出されて菜々子を一人きりにするようなこともなかった。学校であったことを話してくれたり、勉強を見てくれたりもする。菜々子の話をいつも最後まで聞いてくれる。一緒に遊んでくれる。
 側に居てくれる。
 母親が居なくなった頃、家のなかはどこまで行っても果てが無いように感じられた。何かを探すように無意識のうちに扉を開け、がらんとした部屋を前に、こんな筈じゃなかったのにと立ち尽くすことが多かった。ある筈のない何かをずっと探し続けて部屋から部屋へと移動した。でもどこにも求めるものはなくて、そのうちに何を探しているのか自分でもわからなくなって、怖くて、一人きりで泣いた。
 今はあの頃とは違う。呼び掛ければ応えてくれる声が側にある。その声は、家の端がどこまでなのかを教えてくれた。お父さんともお母さんとも違うけど、おんなじように優しくてあったかい。
 菜々子のお守りには大事な人の名前がある。それはとても嬉しいことだけど、でも最近菜々子は思うのだ。
 自分にとって電話がお守りであるように、お兄ちゃんの電話のなかにも大切な人の名前があるのかも知れないな、と。菜々子の知らない、見たこともない誰かの名前が入っているんじゃないのかと。
「今からですか?」
 困惑したような声に菜々子は振り向いた。
 夕飯を済ませ風呂が沸くのを待っている時、孝介の電話が鳴り出した。画面を見て孝介は一瞬だけ嬉しそうな顔をしたが、すぐにそれは戸惑いへと変わった。今も階段の側の暗がりでこっちに背を向け、抑えた声での話が続いている。
「いや、駄目じゃないですけど……」
 孝介は壁に寄り掛かり、片足だけを階段に乗せ、爪先で軽く隅の方をつついていた。こちらに聞かせまいとする静かな声は、なんとなく不安をあおられる。気にしないフリでテレビに目を戻したが、やっぱり我慢出来ずに菜々子は振り向いた。
 その時、電話の向こうからの声に耳を澄ませながら、孝介は静かに微笑んでいた。「なんでですか」と笑い返す顔に、もう戸惑いの色は見えない。
 ――誰とお話してるんだろ。
 大人の世界は、自分が想像も出来ないくらいに広くて複雑だ。
「わかりました。……はい、じゃあ」
 孝介が電話を切った。菜々子はあわててテレビに向き直った。見ていた筈の「魔女探偵ラブリーン」は、間もなくエンディングが終わろうとしていた。
「ごめん、菜々子」
 そう言いながら孝介は座り込んできた。携帯電話を握ったままこっちの顔を覗き込んでくる。極力平静を装いながら「なぁに?」と菜々子は訊いた。
「お兄ちゃん、ちょっと出掛けてくる」
「――うん、わかった。気を付けてね」
 大人というのは忙しい生き物なのだということを、菜々子は遼太郎から学びつつあった。自分よりもずっと大人の世界に近い孝介だ、こんなこともある。従兄は申し訳なさそうに「ごめんな」と繰り返して立ち上がった。
「遅くなったら先に寝てていいからね。あとお兄ちゃんが出たら、ちゃんと戸締りして」
「大丈夫だよ。お留守番、馴れてるもん」
 言った途端、孝介の顔に後悔の念が滲んだ。菜々子はあとを追いかけるようにして立ち上がり、
「お父さんもすぐに帰ってくるよ」
「……そうだね」
 見送りを兼ねて玄関まで一緒に歩いた。靴を履いて立ち上がった孝介は、もう一度振り返って「行ってきます」と笑いかけてきた。
「いってらっしゃい」
 同じく笑いながら手を振り、扉が閉められるのを見守った。そうして足音が消えたのを確認したあと、玄関に鍵を掛けた。
「お兄ちゃん、忙しいなぁ」
 わざと声に出してそう言った。
 ――誰だったんだろ。
「よし、お父さんが帰ってくる前にお風呂入っちゃおう。うん」
 わざと一人で声を上げた。そうしないと気付いてしまいそうだった。
 あの電話はお兄ちゃんにとってもお守りで、菜々子の知らない秘密が入っている。その秘密を、自分はすごく知りたがっているということに。


 暗がりのなかを駆け出してからすぐに孝介は走るのをやめた。あまり急いで行って、そんなに会いたかったのかと思われるのも癪だった。内装屋の脇の細道に入り込み、握りしめたままだった携帯電話をズボンのポケットに押し込んで、なるべく急ぎ過ぎないよう早足で歩いた。なのに、やっぱり知らないうちに駆け足になっている。
 細道を抜ける時、心臓がドクドクと大きく脈を打っていることに気が付いた。孝介はあわてて足を止めて呼吸を整えた。
 ――なんなんだよ。
 いくらなんでもはしゃぎ過ぎだ。足立に会うってだけじゃないか。何がそんなに嬉しいんだ。
 しかし次の瞬間には、そんな風に自分を叱りつけたことも忘れて駆け出している。道路を渡り、道を曲がって、どこかの飼い犬に吠えられても足は止まらない。二階建てのアパート、青い扉。孝介が思い描くのはそれだけだ。
 外灯のぼんやりとした光のなかに見覚えのある外階段をみつけて、やっと孝介は走るのをやめた。息を整えながら、ゆっくりと錆び付いた階段を上がる。ここは比較的駅に近い場所だが、道を何本か奥に入っている為か、車の通る音は聞こえなかった。呼び鈴を鳴らそうとした時、一度背後を自転車が通り過ぎただけだった。
「はーい」
 外にも聞こえるベルに続いて、すぐに足立の声が飛んでくる。なんだかあわてたような声だった。扉から離れて待っていると、鍵を外して扉が開けられ、下はジャージ、そして何故か上半身裸の足立が現れた。
「や、どぉも。早かったね」
 言いながら足立は両腕に掛けたトレーナーを頭からすっぽりとかぶった。襟から顔を出して頭を振り、いつものだらしない顔でにへらと笑う。
「さっき帰ってきたばっかりだったんだ。――ま、入って」
 足立はそう言って孝介の腕を掴み、狭い玄関のなかへと引き入れた。そうして身を乗り出して扉を閉め、鍵を掛けた。
 すぐ側にある横顔をなんとなく眺めていると、足立はそのまま扉に片手を付いて振り向いた。目が合った瞬間に腕を引かれ、身構える隙もなく唇が重ねられ、すぐに離れていってしまう。
「外じゃキス出来ないからね」
「……っ」
 見上げた瞳がからかうように笑っている。顔を覗き込まれる恥ずかしさに耐えられなくて、孝介はうつむいた。
「映画二本借りてきたんだ。どっち観たい?」
 足立は何もなかったかのように明るく言って再度腕を引いた。孝介はあわてて靴を脱ぎ、あとに従って歩き出した。腕から離れた手がそのまま下がって手を握ってくる。その動作がまるで当たり前のようになされるのが、なんだかおかしかった。
「二本って、何があるんですか?」
 手を握り返して孝介は訊いた。
「かたっぽはサスペンス映画。僕としてはこっちがお勧めかな。もう一本はAVだよ」
「……は?」
「だからAVだってば」
 足立はベッドの手前で足を止めて振り返った。そうして何がおかしいのか、わざとらしいほどににたりと笑った。
「アダルトビデオ。ホラ、君の歳じゃ借りられないでしょ? だから代わりに借りてきてあげたの。僕って親切だよねぇ」
「どんな親切なんですかっ」
「あれ、観たくないの?」
 意外だと言わんばかりの表情で問い返され、孝介は返事に詰まった。なるほど、手を握ってきたのは逃げられないようにする為か。なんでこんな男に会う為にわざわざあんなに走ってきたんだ。自分の愚かさが呪わしい。しかしAVはちょっと観たい。っていうかかなり観たい。
「…………今度にしときます」
「なーんだ、残念」
 足立は手を離すと台所に戻っていった。取り残された孝介は仕方なくベッドに腰掛けた。そうしてテーブルを見た瞬間、思わず吹き出しそうになった。レンタルショップの青い袋の上に、何故かアダルトビデオのパッケージが載っていた。ちなみにOL物。
「ホントにいいの?」
 足立が戸口から顔を出して覗いていた。
「アイちゃん投げますよ」
 そのひと言で足立の顔が引っ込んだ。片手に持っていたアイちゃんを元に戻しながら、お前はとんだ人のところに買われてきちゃったんだねぇと、しみじみ同情してしまった。


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