菜々子が誘拐されて以来、自分を罵ることが孝介の日課となっている。菜々子は確かにテレビに出なかった。だけど噂話は何日も前からあちこちで聞いていた。それを知っていたのに何故防げなかったのかと、今更そんなことを言ったって仕方ないのはわかっているのに、どうしても自分を責めることがやめられない。
今回の出来事はイレギュラーだ。今までの法則から言えば起こる筈のなかった事件だ。そうやって自分を慰めようとするのだが、家へ帰れば事実菜々子の姿はなく、むしろイレギュラーだからこそ気付いてもよかったんじゃないかと思ってしまう。
自分たちなら警戒出来た筈だ。脅迫状だって届いていた。しかもあの内容――大事な人が入れられて、殺される。
今更なにを言っても遅い。菜々子は確かにテレビのなかに居る。りせでなくともそれはわかる。今は無事に助け出すことだけを考えるべきだ。みんなも協力してくれている。でもだからこそひとつのミスが苛立たしく、それを責めたくなるたびに、また怒りが自分に向く。
何故気付けなかった。
何故防げなかった。
もっと早く動いていれば、少なくとも遼太郎は無事だったかも知れない。そうすればこんな風に、いや今はなにを言っても仕方がない。だけどやっぱりあの時、いやもっと以前、一通目の脅迫状が届いた時に、いやもっと前、直斗が誘拐された時、いやもっともっと前、久保美津雄を捕まえに行った時――。
繰り言が頭で止まらない。
この二日間は出来るだけ一人で居ようと決めていた。誰かと一緒に居るとどうしても笑わざるを得なくなる。気を遣ってくれているのはわかるし、だからこそ安心させたいと思うのだが、今はむしろ責められる方が気楽だった。
今は思いっきり落ち込もう。この二日間、存分に自分を責めてやろう。それで気が済めば、きっと立ち上がれる。……多分、大丈夫だ。
そんな風にして一日目が暮れようとしていた。孝介は河川敷の草むらに腰を下ろして、夕暮れに沈みゆく景色をぼんやりと眺めている。とっとと帰ろう。そう思うのに、どういうわけか立ち上がれなかった。
帰れば真っ暗な家が待ち構えている。出迎えの声も聞こえない。家に一人きりで居るのは別に初めてのことではないのに、今はそんな些細な事実に耐えられない。
菜々子が居ない。遼太郎は怪我に倒れている。自分が動かなければどうしようもないのに、今は帰ることすら考えたくない。一人になりたくないのに、誰かと居れば苛立ちばかりが募る。
ああもう、最悪だ。
孝介は頭を抱え込んで息を吐いた。本当にあと一日で立ち直れるんだろうか。弱音を吐くのはあとでいい、頭では理解出来ているのに、歩き出す気力が今は欠けている。
――誰か。
誰にも頼れないとわかっているのに、それでも願うことがやめられない。
――誰か。
自分はどうなってもいい、どうか菜々子だけは無事に。誰か。
頼むから、誰か。
「……うわあ最悪、落し物みつけちゃったよ。しかも生ものだわ、これ。うわぁどうしよっかなぁ。このままほっときたいけど、ここで腐られちゃったら市民の皆様に迷惑がかかっちゃうしなぁ」
声と共に背中をつつく感触があった。孝介はゆっくりと顔を上げ、暗がりのなかでわずかに光を反射する川面へと視線を向けた。
「……足立さん」
「あーでも、交番まで持っていくのは嫌だなぁ。なんかでかいし。暴れそうだし」
「……俺のことはほっといてください」
声が止んだ。代わりに何度も背中をつつかれた。多分爪先で蹴られているのだろう。だが怒る気にはなれなかった。頼むから放っておいてくれ。孝介の願いはそれだけだ。
「クソガキ」
徐々に背中を蹴る力が強まっていく。孝介は両手で顔を覆ってこらえた。
「クソガキ。泣き虫クソガキ」
いつまで経っても足立は居なくならない。とうとう我慢出来ずに立ち上がった。振り向きざまに胸倉をつかんだ時、にまにまと笑う懐かしい顔が目に飛び込んできた。
「おおっとぉ、今度は公務執行妨害ですかぁ? やだね最近のガキはホント、暴れるしか能がなくってさあ」
「――俺のことはほっとけよ!」
ひと月振りの会話がこれかと孝介は泣きたくなった。唇を噛んで怒りと共に足立の胸倉を放し、そっぽを向いた。
「……仕事ならさっさと行ってください」
「それがそういうわけにもいかないんだよねー。君、ご飯食べた? まぁ食べてても食べてなくてもどうでもいいや。愛家行くよ」
行くなら勝手に行け、と孝介は思う。足立はいつもの勝手さで既に歩き出していた。孝介が突っ立ったままでいると、突然に振り返って渋面を作った。
「ほら、子供じゃないんだから」
そう言って腕を取ろうとする。孝介はあわててその手を払った。足立は苛立ちのこもった目でこちらを睨み付けてきた。
「あのね、僕だって君なんかの面倒見たくないよ。でもしょうがないでしょ、堂島さんから気にしてやってくれって個人的に頼まれちゃったしさ」
「……」
「つまり僕の言うことは堂島さんの言うことなわけよ。わかる? ね? 叔父さんがご飯行こうって言ってんだから、君は黙って御馳走になればいいの」
「……腹、減ってないです」
「いいから行くよ」
命令に従うようで気分が悪かったが、言うことを聞かないといつまでもしつこくされそうだった。孝介は仕方なく歩き出した。足立は横についてのんびりと歩きながら、時折こちらを盗み見た。
会話はなかった。
晩飯時のせいか、愛家は少し混みあっていた。孝介は足立と並んでカウンター席に腰を下ろし、差し出された水をひと口飲んだ。
「なに食べる? あ、お金は気にしなくていいよ。堂島さんから貰ってるから」
「……なんでもいいですよ」
足立は定食を二種類頼むと煙草を取り出して火を付けた。嗅ぎ馴れた匂いが無性に腹立たしくて、孝介はそっぽを向き、愛家の汚れた壁を睨み続けた。やがて目の前に生姜焼き定食が置かれたが、箸を付けようという気には当然なれなかった。
「食べなよ」
足立の前には回鍋肉が置かれている。こんな時でもキャベツなんだなと、それがおかしくて少しだけ笑った。
「味がわかんなくてもいいから、とにかく食べな。君、ひどい顔してるよ。死にかけてるみたいだ」
「……」
足立は煙草を消した。箸を取って二つに割り、いただきます、と呟いている。
「今、堂島さんたちになんかあったら君が動くしかないんだから。倒れてらんないんだよ。菜々子ちゃんの為に食べな」
菜々子の名前が出た瞬間、孝介は睨み付けていた。お前がその名前を口にするなと腹のなかで吐き捨てる。結局警察はなにもしてくれなかった。そして今もなにも出来ないままだ。
足立は横目でこちらを見ると、いいから食え、というようにアゴをしゃくった。食欲などわずかばかりもなかった。だが口惜しいことに足立の言うことは正論だった。
自分が動かなければ菜々子は救えない。ほかの誰も菜々子を救ってはくれない。
孝介は震える手を伸ばして箸を取った。のろのろとだが肉を口に放り込み、吐き気を抑えて飲み込んだ。
三十分も時間をかけて、それでも三分の二ほどは片付けた。もう無理だと首を振ると、足立は黙って立ち上がった。
外の空気は寒々しい。季節は秋から冬へと早変わりしつつあるようだ。足立が歩くあとを黙って付いていくと、孝介はいつの間にか堂島家へと帰りついていた。
玄関に立って真っ暗な扉の向こうをみつめる。
「セックスでもする?」
突然足立が訊いた。
「――――はあ?」
さすがの孝介も呆れ顔で振り向いた。足立は他人様の玄関前だというのにまた煙草を取り出して口にくわえようとしている。とぼけた顔でこちらをみつめ、「気晴らしだよ、気晴らし」と軽い口調で続けた。
「一発抜くといい気分で眠れるよ」
「……足立さんはほんっと、そういう話が大好きですね」
「楽に生きる方法に関してはかなりのプロだからね」
そう言って何故か誇らしげに笑う。
「ま、君よりだいぶ年上だし?」
――クソ親父。
孝介は心のなかで吐き捨てる。
だが、それもいいかな、とちょっと思ったのも事実だった。少なくともこの真っ暗な家のなかへ一人で入っていかなくて済む。今のこのぐちゃぐちゃな思いをほんの少しだけでも忘れられる、かも知れない。誰かにすがりたいという気持ちも確かにある。そしてなにより、物事をきちんと考えるのが面倒だった。
「……お願いします」
もうなんでもいい。
誰でもいい。
たまたまここに足立が居た。それだけのことだ。
「部屋行こっか」
足立は取り出した煙草を仕舞って玄関の柱に寄りかかった。