千枝が構えた瞬間、孝介はあれ、と思った。いつもに比べて勢いが付き過ぎている。まぁ今更失敗もないだろうと思って黙っていたのだが、何故か嫌な予感ほど的中するものだ。案の定千枝は踏み込み過ぎてその場でこけた。
「陽介、頼んだ」
「はいよっ」
 孝介は指示を出しておいて雪子を見る。彼女は落ち着いた様子で敵を見据えていた。そうして隙あらば千枝のフォローに回ろうとしている様が見て取れた。お陰で攻撃に集中出来る。しかし構えた刀は必要なかったようだ。スサノオの姿が現れた次の瞬間、敵は全て消え去っていた。
 近くにほかのシャドウが居ないことを確かめてから、孝介は千枝の側へと駆け寄った。手を差し出して起き上がろうとするのを手伝ってやる。
「大丈夫か?」
「いったぁー。お尻打った」
 千枝は大仰な動きで自分の尻をさすっている。危ない場面だったにも関わらず、孝介は思わず笑ってしまった。
「里中って、意外と本番に弱いタイプ?」
「ち、違うってば! 今のはたまたまっ」
「お前、さっきから『たまたま』が何回続いてんだよ」
「うっさいなぁ!」
 言い種が気に食わなかったらしい、千枝は陽介に向かって蹴りを繰り出した。何故それがさっき出なかったんだと言いたくなるほど華麗な蹴り技だった。「武器付けたまんまはやめてぇ!」と陽介が逃げながら悲鳴を上げた。
「あはは、花村くん、頑張って逃げてー」
 隣にやって来た雪子が腹を抱えて笑った。しかしその笑顔の隅に隠し切れない疲労が表われていることに、孝介は気付いていた。
「お前ら、いい加減にしろ。一旦戻るぞ」
「へーい」
 ダンジョンの攻略には時間がかかる。しかし帰るのは一瞬だ。孝介たちが姿を現すと、入口付近で無聊をかこっていた残りのメンバーが驚いたように振り返った。
「お帰り、先輩。どうする? 一旦戻る?」
 案内役のりせが小走りに寄ってくる。孝介はうなずいて入口広場までの案内を頼んだ。
「みんな、行くよー」
 りせの掛け声と共に皆はぞろぞろと歩き出す。
 わずかに頭痛を覚えた孝介はメガネを外して目頭を揉んだ。メガネを外すと視界は一斉に霧に覆われ、仲間の姿を追うことも難しくなる。ひとつ息をついたあと、孝介はメガネをかけ直した。その時、横に千枝が居ることに初めて気が付いた。
「ごめん。あたし今日、ミス多過ぎるね」
 片手を上げて小さい声で謝ってくる。
「それはお互い様だろ。言いっこなしにしようよ」
「でも……」
 歩きながら千枝は暗い顔でうつむいた。自分が原因で探索を早く切り上げたのではないかと考えているようだった。孝介はしばらくその横顔を眺めていたが、「一人で戦ってるわけじゃないだろ」と言って笑ってみせた。
「自分だけでなんとかしようって考えなくていいんだよ。俺らが居るんだからさ、もっと頼ってくれてもいいと思うんだけど」
 その言葉に、千枝はハッとして顔を上げた。以前カツアゲグループに絡まれた時のことを思い出したらしい。孝介がうなずくと、千枝は恥じたようにうなずき返してきた。
「うん。……ありがと」
 入口広場ではキツネが待ちくたびれたような顔で出迎えてくれた。孝介はその頭を撫でたあと、「作戦ターイム」と言って皆を呼び寄せた。
「今日の探索はこれでおしまいにします。みんな家に帰ったらゆっくり休んでください。あと先に宣言しとくけど、明日と明後日は探索来ません」
「えー!?」
 一斉に上がった驚きの声には、多分に抗議の音色が混ざっていた。
「ちょ、先輩、どういうことっすか」
「そうですよ。久慈川さんが言うには、もう少しで最上階にたどり着くって――」
「お前ら、とりあえず落ち着け。な?」
 陽介が皆を静かにさせたあと、代表するように疑問の眼差しを投げかけてきた。孝介はひとつ息をつくと、集まったメンバー全員の顔を見渡した。
「俺たちは死にに行くわけじゃない」
 そのひと言に、皆が息を呑んだ。言葉の意味が理解されていることを確かめる為に、孝介はもう一度全員の顔を見渡した。
「俺たちは死ぬ為に戦ってるわけじゃないんだ。菜々子が心配だっていうみんなの気持ちは嬉しいし、勿論俺だってそうだ。だけど菜々子を助ける為にほかの誰かを犠牲にしていいかっていうと、そうじゃない。俺たちは誰も怪我をせず、危ない目にも遭わず、なおかつ絶対に菜々子を助け出す。それ以外のやり方は認めない」
「センセー……」
 クマが不安そうに声を上げた。孝介は空気を和らげようと小さく笑い返した。
「武器の準備もあるし、一昨日から立て続けにこっち来てるし、ちょっと休憩しようと思うんだ。今の調子ならあと一日でやれると思う。菜々子を助ける為にも、万全の体調で臨みたいんだよ」
「……わかった」
 陽介はうなずいたあと、残りのメンバーへと目を向けた。不承不承といった感じだが、ほかの皆もそれぞれにうなずいている。孝介は安堵のため息を吐き出すと、「じゃあ帰ろう」と大きく言って歩き出した。
「にしても、二日も休むのはなんでなんすか?」
 テレビの枠へ手を掛けた時、納得がいかないのか完二が不満そうに尋ねてきた。
「その日、天気予報で雨が降るっていうからさ」
「そんで?」
「レアシャドウに会えるかも知れないだろ?」
「それっすか! 先輩、結構現金っすね」
「現金で悪かったな」
 首に腕を掛けて締め上げてやる。完二はあわてたように腕を押さえてじたばたと暴れ始めた。
「ちょ、ギブギブ!」
「はーい二人とも、そんなトコで遊んでると後ろから蹴り飛ばすよー」
 千枝の明るい声が背後で高らかに宣言をくだした。孝介と完二は靴跡を頂戴せずに済むよう、あわててテレビをくぐってジュネスへと戻っていった。
「っかぁー、今日も暴れたなあ」
 ジュネスの家電売り場に戻った陽介は、テレビの前で大きな伸びをした。その隣では、完二が暗い顔つきで腹を押さえている。
「俺、腹減ってたまんねっす」
「愛家でも寄ってくか?」
「あ、あたしも行く!」
 陽介の呼びかけに大喜びで手を上げたのは千枝だった。
「雪子はどうする?」
「私はいいや。ちょっと遅くなっちゃったから、今日は帰るね」
「直斗もたまにはどうよ」
「いえ、僕も帰ります。天城先輩、よかったら途中まで一緒にどうですか」
「いいよ。じゃあ行こっか」
 帰宅組の雪子と直斗を見送ったあと、陽介は気合いを入れてこぶしを握りしめた。
「よっしゃ。行くぜ、相棒!」
「いや、俺も帰るよ」
「あれえ?」
 拍子抜けした顔で皆が振り向いた。
「先輩、帰っちゃうの?」
 りせの言葉に、なんと言って返せばいいのかわからなかった。テレビのなかから戻ってきた今、孝介が考えているのは、とにかく早く一人きりになりたいということだけだった。言葉に詰まっていると、「ま、いいじゃん」と陽介が助け船を出してくれた。
「今日は俺らだけで行こうぜ」
「そっすね。んじゃあ、お疲れっす」
「お疲れクマ」
「また明日ねー」
 一階の食品売り場で買い物をして帰ると言って、孝介は皆を見送った。にぎやかな話し声と共に一団が去っていく。最後の一人の背中が見えなくなると、孝介の顔から自然に笑顔が消えた。上げていた手を下ろし、疲労で出来上がった大きなため息を、腹の底から深々と吐き出す。
 ――疲れた。
 二日間の休みを言い渡したのは、なにより自分の為だったのかも知れない。そんなことを考えながら孝介は皆と逆の方向に歩き出した。いつも探索のあとはそれなりに疲労を抱えるが、今回ばかりは事情が違う。
 テレビに捕まっているのは菜々子だ。そして恐らく生田目も一緒に居る。
 孝介は階段をとぼとぼと下りながら、この一週間のことを思い出していた。文化祭が終わり雪子の好意で旅館に泊まり、それからしばらくは気の抜けた日々が続いた。大きなイベントのあとはいつだってそうだ。日常に馴れるまでに時間がかかる。
 でも、だからって忘れてはいけないことまで忘れていた。事件はまだ続いている。それを思い出したのは、愚かしいことに二通目の脅迫状が届いてからだった。しかもそれを遼太郎に知られてしまった。
 それだけじゃない。マヨナカテレビに菜々子が映った。菜々子が消えた。遼太郎が生田目を追って事故を起こした。孝介は遼太郎の入院手続きの為にバタバタと夜を過ごし、それから休む間もなくダンジョンの攻略に入っている。
 二日間の休みは間違いなく自分の為だ。精神的にも肉体的にも限界が近付いているのを感じていた。誰かがミスをするたびに声を荒らげて罵りたくなる、そんな自分が嫌でたまらなかったのだ。
 食品売り場の惣菜コーナーを回ったが、孝介の目を惹くものはなにもなかった。それでもなにか食わなければ体に悪いと思って小さな弁当を買い込み、暗くなった河川敷を通って家へと向かった。
 玄関で鍵を取り出し、真っ暗な家の扉を開ける。出迎えてくれたのは寒々しい空気と、沈黙だけだった。


小説トップ next