入院してから二週間以上が経つが、こんな風に明るく笑う遼太郎を見るのは初めてのことだった。やはり菜々子のことが気懸りだったのだろう。その気持ちは痛いほどに理解出来る。
この病室は菜々子が入っている特別室とは違い、普通に窓があって外の景色を眺めることが出来た。今日は残念ながらどんよりと曇った空が稲羽市全体を覆っている。そのせいか、いつも以上に早い日暮れを迎えそうだった。
「――そうだ。叔父さん、ありがとね」
不意に思い出して孝介は言った。
「なんだ、急に」
「足立さんにさ」
菜々子がまだテレビのなかに居る時、足立が声を掛けてくれた。それはいいやり方ではなかったのかも知れないが、結果的には支えになってくれた。
『堂島さんから気にしてやってくれって個人的に頼まれちゃったしさ』
だがその話を聞いた遼太郎は、「なんのことだ?」と不思議そうな顔をしてみせた。
「だからさ、俺に飯食わせろって言ってくれたんでしょ?」
「俺が? 足立に?」
『あのね、僕だって君なんかの面倒見たくないよ』
「……違うの?」
遼太郎はしばらく考え込んだあと、
「いつの話だ?」
「叔父さんが入院してすぐくらい」
「……殆ど寝てた覚えしかないな」
孝介はあわてて記憶を探った。
遼太郎が事故で入院してしばらくは、確か集中治療室に入れられていた。骨折の程度や内臓の検査、脳波の検査などで落ち着かない日々だった。あの状態の遼太郎が捜査の関係で話を持ち込まれるとは思えない。いや、確か身内以外――つまりは孝介以外の人間ということだが――は面会謝絶だった筈だ。
足立が個人的に話をする機会が、ないとは言えないが。
『大丈夫だよ』
『堂島さんも菜々子ちゃんも、無事に戻ってくるって』
「どうした」
遼太郎の声で我に返った。孝介はあわてて首を振った。
「なんでもない。――ちょっと勘違いしてたみたい」
「そうか……?」
遼太郎はまだ怪訝そうな顔をしている。孝介は立ち上がってイスを片付けると、「帰るよ」と言って荷物を手にした。
「また来るから」
「おお。ありがとな」
病室を出て足早に廊下を進む。菜々子の病室をのぞいたが、やはり足立の姿はなかった。従妹の寝姿を少し眺めたあと、またね、と呟いて孝介は再び廊下に出た。
今日はおでんだ。ジュネスでロールキャベツを買って帰ろう。山ほど作って、もういらないと白旗を上げるまで食わせてやる――。
足立はコートのポケットに片手を突っ込みながら玄関の奥の光をみつめていた。こうやって一人きりで堂島家を訪れるのは、滅多にない出来事だった。なので意味もなく緊張してしまう。
もう片方の手にはミカンの入った買い物袋。一応土産として買ってきたのだが、もっとほかのものにしておけばよかったかなと、ちょっと後悔しているところだった。
――ま、いっか。
今から別のものを買いに戻ったのでは時間が掛かり過ぎる。今日のところはあきらめてもらおう。そんなことを考えながら足立は扉を開けた。
「こんばんはー」
「お帰りなさーい!」
予想外の言葉が足立を出迎えてくれた。一瞬ほかの誰かと間違えられたんじゃないかと考えてしまった。だが迎えに出てきてくれたのは孝介だったし、三和土に突っ立っているのが自分だとわかっても怪訝そうな顔は一切されなかった。
「えーっと……ただい……ま?」
「お帰りなさい!」
靴を脱いで廊下に上がると、孝介が抱きついてきた。足立は動揺しながらも抱き返した。見ると台所には明かりが付き、居間には夕飯の用意がされてある。温かい部屋の空気と、なによりも自分の帰りを待ち侘びている存在。
――うわー、なんていうか、
「新婚さんみたい〜〜〜、僕今、すっごい幸せ〜〜〜」
思いっきり抱きしめると、孝介はおかしそうに笑い声を上げた。一度短くキスをして、にまにまと笑う口を抑えながら額をくっつけた。
「ただいま」
「お帰りなさい。おでん出来てますよ」
「お腹ペコペコです」
「じゃあ早く手洗ってきてください」
「はーい」
その前にコート、と言われ、代わりにミカンの入った買い物袋を差し出した。
「一応お土産。なんかほかのが良かった?」
「いいえ。ありがとうございます」
ミカンを受け取った孝介は、コートも受け取ると居間へと消えた。洗面所で手を洗いうがいまで済ませると、足立はようやく居間へと向かった。
「着替えちゃいます? 俺のですけど」
孝介はそう言ってソファーを示した。そこにはスウェットとTシャツらしきものが載っていた。せっかくだからと足立は背広を脱いだ。手が触れたので驚いて振り返ると、側にハンガーを持った孝介が立っていた。受け取ろうとしたが断られた。その代わりに彼は脱いだ背広やらなんやらを受け取り、どんどんハンガーに掛けていってくれる。
ずっと我慢していたのだけれど、スラックスを脱いでネクタイに手をかけようとしたところで限界が来た。足立は真っ赤になってその場にしゃがみ込んだ。
「どうしたんですか?」
「……ごめん。ホントにごめん」
ものすごくおかしい人になるけど許して。そう言ったあと、足立はソファーに顔をうずめてうーうーうなり声を上げ始めた。
「……どうしたんですか」
「だって……!!!」
――ヤバい。
今、マジで顔が上げられない。
これは恥ずかしい。嬉し過ぎて恥ずかし過ぎる。だってなんなの、この新婚さん。いやもうマジで。これ新婚夫婦以外の何物でもないでしょ。ちょ、ヤバいって。
家に明かりが付いてて部屋のなかはあったかくて、晩御飯が出来てて帰り待ち侘びててくれる人が居るってただそれだけなのに。
思う存分うなり続けたあと、ようやく足立は気を取り直した。なんとか恥ずかしさに馴れようと努めた、の方が近いかも知れないが。孝介は頑張って笑顔を作り続ける足立の努力など全く気付かない様子で、「なんか、その笑顔、怖いです」と素っ気ない感想をくれただけだった。
おでんにはロールキャベツがゴロゴロ入っていた。ずいぶん煮込んだようで、ちくわも玉子も大根もかなり味が染みている。
「一日くらい寝かせると、もっと美味くなりそうですけどね」
「いやー、このままでも充分美味しいよぉ。あー幸せー」
ほかにも幾つか小鉢が並んでいる。買ってきたのかと聞いたら、ホウレンソウのおひたしだけは自分で作ったと教えてくれた。
「ちょっとずつなんですけど、料理するようにはしてるんですよ。覚えといて損はないし」
「そうだねー。馴れってのは大事だよね」
「……今度キャベツ鍋やってみようかな」
「いいんじゃない? あれは料理って言うか、ただ煮込むだけだけど」
基本キャベツと土鍋だけで出来てしまう、最高に簡単な料理だ。調味料もいらない。孝介は鍋の中身をすくいながら、ちらりとこっちを見た。
「足立さん、食べに来てくれます?」
「勿論!」
「じゃあ今度はそれで」
そう言って孝介は嬉しそうに笑った。
食後の一服の最中、孝介は早々片付けに入っている。煙草を吸い終えた足立は台所に行って孝介の手から食器洗いのスポンジを奪い取った。
「洗い物ぐらいはやるよ。君、向こう行ってな」
「でも……」
「っていうか、お願いだからなんかさせて。なんか部屋が広くて落ち着かないの」
「なんですか、それ」
じゃあお風呂沸かしてきますと言って孝介は奥へ消えた。その後ろ姿を眺めながら足立は、一緒に暮らしたらこんな感じなのかな、とちょっと考えたがあわてて否定した。いやいやいや、落ち着け自分。相手はまだ高校生だから。ね?
だがその高校生が、十歳以上も年下の子が、自分なんかを好きだと言ってくれているのだ。
――あー、なんか、
懺悔するのにちょうどいいかも。
などと考えて、足立はおかしさに気付き、苦笑した。
――なーんて、ね。
そんなこと、出来るわけがない。もし真実を話したら、孝介の顔から一瞬にして笑顔が消えるだろう。そこには狼狽と驚愕が順々に現れ、そして最後には軽蔑が残る。怒りと憎しみが向けられる。それを受け止める勇気は、残念ながら自分にはない。
ずるいのは承知の上だが、今の状態なら上手くいくのではないだろうか、と足立は思っていた。生田目は逮捕されたが立件するにはかなり難しい。心身の消耗が激しく、まともに調書すら取れない状態だ。このままなら証拠不十分で不起訴になる可能性が高い。第一、テレビに入れて殺しました、なんて、どうやって証明するっていうんだ? 誰かを放り込んで、死体が挙がるのを待つか? まさか。
そうだ、このままいけば大丈夫だ。――足立は胸のなかで繰り返す。数人の誘拐でなんらかの罪に問われるかも知れないが、それだって殺人に比べれば全然マシな筈だ。
大丈夫。きっと上手くいく。
「……」
だが一抹の不安が足立の手を止めた。
――あーあ。
ってことは、なにか? 僕は一生あの子を騙し続けなきゃいけないわけか。まぁそれは今もそうなのだが、この先何十年も続くのだと考えると、確かに気は重い。
でもま、しょうがないよね。足立は思い直して土鍋のフタを持ち上げた。最初からわかってたことだよ、うん、今更今更。まぁこのままだったら生田目さんも釈放されるかも知れないし、死んじゃったあの二人はちょっと可哀そうかも知れないけど、でもホラ、僕の幸せの為の礎になれたと思えば浮かばれるよね、きっと。所詮あいつら、その程度の生き物だったわけだし――。
足音に気付いて振り返った。孝介が風呂場から出てきつつなにかを言いかけ、足立の顔を見た瞬間、不意に怯えたように立ちすくんだ。
「ん? どしたの?」
足立は洗い物を続けながら訊いた。孝介は声をかけられて我に返ったのか、ぎこちなく笑顔を作ると首を振った。
「なんでもないです。――お風呂、二十分くらいで沸きますから」
脳内にお花畑を広げていた足立は、なんだろうと一瞬疑問に思ったが、すぐに忘れてしまった。