テレビから出てきて以来、クマはいつも日暮れを楽しみにしている、と陽介が教えてくれた。ジュネスのフードコートで子供たちに風船を配りながら、赤く染まった太陽が山の端に沈む姿を、じっと、食い入るようにみつめているのだ、と。
「テレビのなかには時間も天気も、あったかいも寒いもなかったから、全部が不思議なんだクマ」
「でも霧が晴れるだろ?」
「霧が晴れるようになったのは今年に入ってからだもの。それまでは、どこまで行っても霧ばかりで……多分、百年近くそんな感じクマ」
百年、と聞いた孝介は、クマの向こう側を歩く陽介と顔を見合わせた。そして同時に視線をクマへと向けた。多分思ったことは同じだろう。
――お前、マジで幾つなの?
だが恐らく、その疑問をまっすぐ向けるのは不毛なことなのだ。なんにもないヌイグルミのなかから、今隣を歩く美少年(?)を誕生させてしまったクマだ。なにがあろうと驚いてはいけない。
当のクマは周囲の疑惑の目など一切気付いていない様子で、でもね、としょぼくれてみせた。
「昨日からずっと曇ってて、空の赤いのが見れないから、つまらんクマ」
「まぁ、天気ばっかはどうしようもねぇからなあ」
「予報ではしばらく曇りが続くそうですよ。でもねクマくん、空が曇っている時の夕焼けも綺麗なんだよ」
「ナオちゃん、それホント!?」
「勿論。だから楽しみにしておくといいよ」
直斗の言葉がよほど嬉しかったようだ。クマは大きく両手を上げると歩きながら何度も飛び跳ねた。その後ろから呆れたように声をかけてきたのは完二だった。
「っつうかクマ、おめぇその呼び方やめろ。聞いてる方が、その……恥ずかしいだろ」
「カンジなんで? ナオちゃんはナオちゃんクマ」
「だからってなあ」
「あー、わかった。完二、妬いてるんでしょー」
「はあ!?」
りせの突っ込みに、完二は顔を真っ赤にして振り返った。
「完二もそう呼びたいなら呼べばいいのに。直斗だってその方が絶対嬉しいよ。ねー?」
「え? いや、僕は別に……」
言いながら腕に抱きつかれて、今度は直斗の方があたふたしてしまう。
「ななななに言ってんじゃごらぁ!」
「ほーら、動揺してる。図星じゃない」
「図星クマ」
「てめぇら……!!」
我慢がならないといった顔で完二はこぶしを握り締める。それを見たりせとクマは大きな笑い声を上げて駆け出した。
「待てごらぁ!」
完二があとを追いかけると二人は更に歓声を上げて逃げ回った。すれ違う人が何事かと驚いて注目している。日暮れの近い広い歩道をクマとりせが二手に分かれて走り、完二はどちらを追うべきか迷って足を止めた。
孝介は呆れながらも笑ってしまった。見ているとクマは一人抜け駆けをするかのように、道のずうっと先の方まで走り続けた。彼が目指す場所はわかっている。ここからでも見えるクリーム色の大きな建物。菜々子と遼太郎が入院している、稲羽市唯一の総合病院だ。
玄関へたどり着いたクマは「センセー、みんなー、早くー」と大声で皆を呼ばわった。
「クマさん、よっぽど来たかったみたいだね」
雪子の言葉に大きくうなずいたのは陽介だった。
「あいつ、夕べからずーっとそればっかでさ」
「昨日も来たのになぁ」
「ま、それ言ったら、うちらもだけどね」
「そうだね」
そう言って雪子と千枝は笑い合った。
菜々子の面会謝絶が解かれたのはつい昨日のことだ。揃って見舞いに行った翌日だから、今日は一人で行こうと思っていた。なのに放課後になって、クマにどうしてもと頼まれたからと陽介に言われ、それが千枝に伝わり、雪子を経て一年生に伝わった。皆それぞれ用事があるだろうに、二つ返事で同道してくれたのだった。
「……みんな、ありがとな」
孝介の呟きに振り返った特捜隊のメンバーたちは、一瞬不思議そうに顔を見合わせたあと、照れたように小さく笑い合った。
「なに言ってんのよ、リーダー。菜々子ちゃんの為だもん、当然じゃない」
「そうだよ。せっかく面会出来るようになったんだもの、クマさんじゃないけど、私だって毎日来たいくらいだよ」
嬉しくも返事に困って視線を陽介に向けると、相棒は温かい目で笑い返してくれた。
「まぁでも、あんま毎日大勢で押しかけても迷惑になっちまうかもだしな。俺らは三日にいっぺんとか、そんくらいにしといた方がいいかもな」
「そっか。菜々子ちゃん疲れさせちゃうんじゃ、逆効果だしね」
「花村くん。クマさんの見張り、よろしくね」
「う、うっす」
「いや、そこまでしなくても……」
菜々子の病室は三階にあった。ナースステーションに近い広めの個室で、ベッドを取り囲むように様々な機械が並び、そこから伸びた管が布団のなかへと消えている。恐らく菜々子の体のあちこちに取り付けられ、脈拍や血圧、心電図のようなものを取り続けているに違いない。
さすがのクマも、病室ではおとなしかった。ほかのみんなも、眠り続ける菜々子の顔を心配そうに眺めている。
孝介はベッドの脇に立ち、そっと寝顔をのぞき込んだ。その時、気配に気付いたのか、菜々子がゆっくりと目を開けた。周りに大勢の人間が居ることにまず驚き、それからそれが知っている人たちだとわかって、小さく笑った。
「ナナちゃん」
クマさん、と、声が出ないまま菜々子が返事をした。孝介はベッドの手すりに片手を掛け、お見舞いに来たよと呟いた。
「痛いところ、ない? 大丈夫?」
菜々子はかすかにうなずいた。それから布団のなかでもぞもぞと手を動かすので、孝介は布団のなかを探って菜々子の小さな手を握りしめた。
弱々しい呼吸が痛ましかった。顔色もやはり良くはない。こうして手をつなぐことで、少しでも苦しみを引き受けることが出来たら、どんなにいいだろう。だが実際はこうして見守るしかないのだ。
菜々子は今戦っている。
自分に出来ることは、ほかにはなにも心配しなくていいのだと、示してやることしかない。
安心した顔で笑ったあと、菜々子は目を閉じた。しばらく誰も口をきかなかった。
「……早く良くなるといっすね」
菜々子の寝顔に、完二が呟いた。
病室を出たところで偶然足立と出くわした。
「おーっと、勢揃いだね、こりゃ」
「こんにちは」
足立は小脇にコートを抱え、大きな封筒を持っていた。遼太郎のところへ行ってきた帰りなのだと言う。
「署に戻る前に菜々子ちゃんの顔見ていこうと思ってさ」
交代にというわけではないのだが、孝介は遼太郎のところへ着替えを届けに行かなくてはならない。皆はこれで帰ると言うから、エレベーターの前まで見送ることにした。
「センセー、ナナちゃんはいつおうちに帰れるクマ?」
エレベーターを待っているあいだ、クマが不安そうな顔を向けてきた。
「うーん……」
「こればっかりは菜々子ちゃん次第だろ」
陽介の返答に、クマはつまらなさそうにうつむいてしまう。
「あーもう、そんな暗い顔しないの」
「そうよクマ。クマが元気ないと、菜々子ちゃんも元気なくなっちゃうでしょ。ホラ、笑って笑って」
千枝とりせの言葉を胸に沁み込ませたあと、クマは大きくうなずいた。
「うん。クマ、元気出す。ナナちゃんが元気になりますようにって」
「そうそう。笑顔が一番だよ」
やって来たエレベーターに孝介をのぞく全員が乗り込んだ。
「じゃ、また明日な」
「お先に失礼します」
「ありがとな」
扉が閉まったあと、さて、と振り向くと、廊下の曲がり角から足立が呼んでいた。
「どうしたんですか」
「ちょっと」
そう言って非常階段の扉を押し開ける。扉を閉めたあと、上からも下からも人が来ないことを確かめた足立は、そっと顔を寄せてきた。
「今日の晩御飯、なに?」
思わず吹き出した。真面目な顔をしているから何事かと思えば。
「そんなこと訊く為にわざわざ――」
「だぁって気になるんだもん」
足立は期待に満ち満ちた表情で答えを待ち構えている。孝介は困って頭を掻いた。実は今晩、足立が泊まりに来ることになっているのだ。なにか作って、と頼まれてしまい、ちょうど孝介もメニューを迷っているところだった。
「なにが食べたいんですか」
「回鍋肉……は、さすがに我慢しよっかな。なんかあったかいもの――あ、おでんがいいっ」
「いいですね。作るのも簡単そうだし」
「じゃあおでんね。ロールキャベツ入れて」
「はいはい」
足立は嬉しそうに孝介の頭を撫でるとドアノブに手をかけた。
「仕事終わったら一度電話するから」
「はい」
二人は扉の内側でこっそりと手をつなぎ、手を離しながら廊下に出た。菜々子の病室に足立が入っていくのを見送ったあと、孝介は遼太郎の病室へと向かった。遼太郎は渡り廊下の向こう、外科病棟の一室に入院している。
「叔父さん、入ってもいい?」
個室のドアは開けられ、入口の薄いカーテンが引かれている状態だった。壁をノックして声をかけると、「悪い、ちょっと待ってくれ」との返事があった。孝介はおとなしく待った。やがて向こう側からカーテンが開けられ、年配の看護師が姿を現した。
「ごめんね。お待ちどうさま」
その看護師は一度ベッドの側へ戻ると、薬の瓶が並ぶ小さな台を壁際に押し遣った。なにか処置をしていたようだ。またあとで来ますからと言い残して去っていくのに孝介は頭を下げ返し、手に持つ紙袋を示してみせた。
「着替え持ってきたよ。あと汚れたのがあれば貰ってくから」
「ああ、すまんな。そこの棚のビニール袋に入ってる」
孝介は新しい着替えとタオルを棚に仕舞うと、代わりにビニール袋の中身を紙袋へと放り込んだ。
「さっき菜々子のところに寄ってきたんだ」
「そうか……」
遼太郎はベッドで横になったままぼんやりと天井を見上げた。孝介は隅に置かれた丸イスを持ってベッドの脇に腰を下ろした。
「俺も行きたいんだが、一日に二回までって決められててな」
「何時に行くかが問題だね」
「さっき出ていった看護師居るだろ? あれが俺の担当なんだが、とにかく口うるさくってなぁ」
遼太郎は苦り切った顔だが、自分だってかなりの重傷だということを忘れられては困る。病院というのは病気や怪我を治す為の場所なのだ。菜々子が心配なのもわかるが、自分の体だって大事にしてもらわないと。
「大丈夫。俺が叔父さんの分まで見舞いに行くから、安心して」
「……畜生。お前と代わりたい」
二人は声を上げて笑った。