「足立さん、はい」
「あー」
 足立の大きく開いた口のなかに、孝介は剥いたミカンのひと房を指で放り込んだ。
「意外と美味しいね、これ」
「いけますよ」
 答えた孝介は、テレビに目を向けたままミカンに付いた筋を指先で取り、自分の口に放り込んだ。後ろから足立がねだると、またひと房入れてくれる。なんか小鳥に餌やってる気分です、と孝介が笑った。
 風呂から上がった二人は居間でダラダラと時間を過ごしている。足立はソファーに座らず床に腰を下ろして寄りかかり、後ろから孝介の体を抱きしめていた。土産に持ってきたミカンは案外好評なようだ。
「足立さん、朝ご飯パンでいいですか?」
「いいよー。――っていうか、作ってくれるの?」
「どうせ俺も食べるし……簡単にですけど」
 もう本当に言葉が出ない。足立は孝介の体を抱きしめた。あぁ本当に、出来ることならこのままここに住んでしまいたい。そう言うと、孝介は苦笑した。
「大袈裟ですよ」
「そんなことないよ。独り暮らしが長いとね、誰かがご飯作ってくれるとか、お風呂用意してくれるとか、そういうのが本当に有り難いことなんだって身に沁みるんだよ」
 実感が湧かないのか、そんなもんかなぁと孝介は首をかしげている。
「いつから独り暮らししてるんですか?」
「大学入った時。ま、あの時は実家とあんまり離れてなかったから、掃除だけはしてもらってたんだけど」
 そう言って足立は口を開いた。孝介はミカンをつまんで口の前まで持ってきて、
「あれ? でも足立さんの実家って、都内ですよね?」
「うん。僕、家が嫌いでさ」
 孝介が不思議そうに振り返った。開けたままの口にミカンを入れて、じっとみつめてくる。
 足立はミカンを噛みながら思わず笑ってしまった。
「そういうの、想像出来ない?」
「……ちょっと、難しいかも」
 足立は孝介の体を抱き直し、頬を擦り寄せた。
「君はいい家庭に育ったんだね。うらやましいよ」
「――そんなことないですよ。うちの親なんかいっつも仕事で家に居ないし、今だって俺のことほったらかしでとっとと海外行っちゃうし」
「君のこと、信頼してるから出来るんでしょ」
「そうなのかな……」
 孝介は憮然と呟いてテレビへと視線を向けた。
「淋しい?」
「……そりゃあ、少しは。でも今は、逆に向こうに戻らなきゃいけないってのが辛いかな」
「友達いっぱい出来たしね」
「……菜々子も叔父さんも、早く良くなるといいな……」
「そうだね」
 不意に孝介が手を重ねてきた。足立はその手を握り、きつく孝介の体を抱きしめた。
「足立さんとも離れちゃうし」
「……」
 脇から顔をのぞき込むと、孝介は拗ねたように唇を噛み締めている。
「君まで海外行っちゃうわけじゃないでしょ」
「そうだけど……」
「会いに来てよ。僕も会いに行くからさ」
「……はい」
 足立は口を開けた。
「お母さん、餌ください」
「誰がお母さんですかっ」
 孝介は笑って足を叩いた。
 新しいひと房を放り込んだあと、孝介が恐る恐るといった感じで振り向いた。
「あの……ちょっと訊いてもいいですか」
「んー? なに?」
 孝介はしばらくためらう素振りを見せた。なに、と言って足立は催促するように一度孝介の体を揺すった。孝介は顔を前に戻し、足立の片手を握りしめた。
「……足立さんって、昔、嫌な目に遭ったりしたんですか」
「嫌な目? うーん……まぁ、最大なのはやっぱり左遷かなぁ。ま、結果的にはよかったんだけど」
「そういうことじゃなくって」
 困惑気味に笑って孝介がまた振り向く。そのままじっとみつめられた。何故か心配するような目付きだった。
「なに? どういうこと?」
 孝介はまだためらっている。
「その……怒らないでくださいね」
「うん」
「……足立さん、時々すごく怖い顔するんです」
「怖い顔?」
「顔っていうか、怖い目付き。……さっきも、ちょっとしてた」
「いつ?」
「洗い物してくれてる時」
 記憶を探ったが、思い当たる節はない。生田目のことを考えていたとは思うのだが――。
「夏とか、多かった気がします。あの……足立さん、ちょっと様子が変だったし、なんかあったのかなって」
「……」
 ――ああ。
 ある意味最悪の夏だった。久保美津雄が捕まって事件が終わったかに見えたあの頃。
 ――ああ、そうだろうね。
 胸のなかで呟いた時、その更に奥の方で黒いものがもぞりと顔を上げた。それはアメーバ―のようにドロドロと伸び、持ち上がった顔らしき場所に二つの穴が空いて足立を見た。――ああ、それはそうだろう。なんてったって最悪の夏だった。せっかくのお楽しみが台無しになったんだ、なぁ? そりゃあ腹も立つさ。そうだろ? しかもこんなガキが邪魔しやがったんだぞ。なにやってんだよ、ホラ、そこにあるじゃないか。
 真っ黒な顔の、ぽっかりと空いた二つの目の下が裂けて、大きな口が現れた。口と言ってもそれはただの虚空で、目玉と同じように奥にはなにもない。その口はにたりと笑うと、足立の顔を前へと向けさせ、なにを話しているのかわからない四角い入口を指差した。
 ――ホラ、なにやってんだ、簡単なことじゃないか。そこへこいつを放り込めば全部終わる。いや、また始まるんだ。またあの楽しい春がやって来るぞ。お前、興奮してただろ? こんなに楽しいことはないって喜んでたじゃないか。
 あれをもう一度。……ホラ。簡単だよ。
 足立は唾を呑み込んだ。口のなかがカラカラに渇いていて、それは単純な行為なのにひどく難しいことに感じられた。
 ――もう一度?
 そうだよ、思い出せ。あの時、最高にワクワクしてただろ。あれが戻ってくるんだ。わかるか? 戻ってくるんだよ。
「――足立さん」
 軽く頬を叩かれて足立は我に返った。孝介はこちらに向き直り、膝立ちになって心配そうな顔を見せていた。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「……」
「……今、そんな顔だった?」
 孝介はうなずいた。足立は頭を掻いてうつむいた。
 ――ああ。
 そうか、隠し切れていたつもりだったけど、案外顔に出ていたのか。困って目を上げると、孝介は相変わらず不安そうにこっちをみつめていた。
「……たまに、足立さんが怖いんです」
 かすれた声の呟きに、だろうね、と足立は呟き返す。
「僕もだ」
 孝介を求める声、孝介を憎む声。そのどちらもが自分のなかに存在している。どっちが本当か、ではなく、どちらも同等の意義と比重を持って。
 今すぐ帰れ、という声が聞こえた。このままここに居続ける資格なんかお前にはない。だが足立は腕を伸ばしてしまう。誘うように手を広げると孝介が抱きついてきた。そのままごめんなさいと言うので、わけがわからなくて顔を上げた。
「なんか、嫌なこと思い出させちゃったんじゃ……」
 足立は小さく笑って首を振った。
「そんなんじゃないよ」
 孝介はまだ不安そうな目をしている。言ったことを後悔しているらしい。足立は手を上げて孝介の髪の毛を梳いた。なにか言いたそうな顔をしていたが、続く言葉はなかった。
 足立は腕を放して孝介の両手を握り直した。互いに向かい合って座り、握り合った手を床に置いて、額をくっつけた。
「まだ怖い?」
「今は、別に。……でも、たまに怖いって思う時があります」
 でも、と孝介は繰り返す。
「それも足立さんなんだな、って」
 ――君を一生騙し続ける僕を。
 孝介は顔を上げた。目が合うと、ぎこちなく笑ってみせる。足立は泣きたいような気持ちになり、あわてて目をそらせた。
 ――君を裏切り続けている僕を、どうか。
 頬の辺りに孝介の視線を感じた。ちらりと目を向けると、彼は不思議そうにこっちを見ていた。涙の浮かびかけた目を見られたくなくて、足立は再びそっぽを向いた。なのに孝介は無理矢理横から顔をのぞき込んできた。逃げるとまた追ってくる。しばらく無言で追いかけっこをするうちに、意味もなく二人とも笑い出していた。
「もー、なに!?」
「こっちの台詞ですよ!」
 やがてなにがおかしいのかわからないまま二人は笑い転げた。畳の上に寝転がってまた髪を梳き、布団敷こう、と呟いた。
「やらしいことしよ」
「………………はい」
 孝介は照れながらも、笑ってうなずいた。
 布団を敷いているあいだ、キャベツ鍋をいつやろうかという話になった。
「今度の週末は?」
「来週、期末テストなんですよね」
 ここのところバタバタしていたから、少し勉強しないとまずい、と孝介が言った。
「じゃあテストが終わったら」
「だったら大丈夫です。来週の土曜日とかどうですか?」
「来週っていうと……十二月三日か。うん、多分平気だと思う」
「じゃあその日に」
 孝介から受け取った枕を布団に据えながら足立は振り返った。
「……また泊まりに来てもいい?」
「勿論」
 孝介は玄関へ行って戸締りを確認している。足立は煙草へ手を伸ばしかけて、ふと思い出し笑いをした。
「なんですか?」
 怪訝そうな顔つきの孝介を手招きで呼び寄せる。
「ね。おやすみのちゅーして」
 それで孝介も思い出したようだ。呆れたように笑って、目の前へ両膝を突いてきた。
「アイちゃんでなくていいんですか」
「君じゃないとヤダ」
 嬉しそうに笑う唇が重ねられた。足立は孝介の体を抱き寄せて何度もキスをする。そのまま布団に押し倒して、上からじっと顔を見下ろした。
 乱れた髪の毛を梳いて整えてやるあいだも、孝介の視線はしっかりと足立に向いていた。明日になったら自分のアパートへ帰らなければいけないのだという事実が、どうしても信じられなかった。
 なんでこういう毎日じゃないんだろう。足立は髪の毛に手を差し入れたまま考えた。夜寝る前には孝介の顔を見て、朝起きたら一番に孝介を見る、――そういう日々を望んだっていい筈だ。この町へ来て以来、心を動かされたものは二つしかない。
 あの力と、孝介自身。そして今の足立は、そのどちらをも手にしている。
「……なんかホントに、幸せ過ぎて死んじゃいそう」
「死んじゃ駄目です」
「はーい」
 抱き寄せる腕に誘われて足立は唇を重ねた。唇が離れたあと、孝介は恥ずかしそうにゆっくりと目を上げた。
「……足立さん」
「うん?」
 首に回った腕が足立を再度抱き寄せる。しばらく逡巡したあと、
「足立さん、大好き」
 孝介の呟く声が聞こえた。


ちょうどいいかも/2011.02.07

2011.02.13 一部加筆訂正


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