そして今夜も携帯電話の画面を眺める日々だ。
 孝介はボタンをいじって発信履歴を表示させた。足立に最後に掛けたのは九月二十一日。もう十日近くも前のことだ。着信はもっと前の日付になっている。最後に電話した時、足立の声に力はなかった。元気がないのはここずっと続いているが、なにかあったのかと訊けば、別に、と素っ気ない返事があるだけだった。
 嫌われたんだろうか。孝介は携帯を握って布団に寄りかかる。そもそも好かれてなんかいなかったのだろうか。やっぱりからかわれていただけなのか。どれが一番傷付かずに済むんだろう。答えを出すのは怖い。でも、こうやってフラフラとどっち付かずで居るのも、やっぱり辛い。
 どうしたいんだろう。俺はあの人にどうして欲しいんだろう。
 突然携帯電話が鳴り出した。孝介は驚いて電話を落としてしまった。あわてて拾い上げると、掛けてきたのはまさかの足立だった。
「……もしもし」
『こんちゃーっす』
「こんばんは」
 わざとらしく訂正すると、足立は投げやりな調子で「どっちでもいいじゃないの」と笑った。酔ってでもいるのか、いつにも増して間の抜けた喋り方だった。
『あのさあ、堂島さんちって土鍋あるかな?』
「土鍋? あると思いますけど……」
『あのね、今日ジュネス行った? 野菜安かったんだよ。またキャベツ買っちゃってさ』
「一玉丸々ですか」
『うん、そう。でね、そろそろいい季節になってきたからキャベツ鍋やろうと思ったんだ。でも探したんだけど土鍋のフタだけなくってさあ』
「キャベツ鍋……ですか?」
『うん。知らない? 食べたことない?』
「ないですね」
 どんな料理なのかも想像がつかない。
『いやあ、キャベツ洗って土鍋で延々煮込むだけなんだ。簡単なんだよ。とろ火でじーっと煮込むから時間はかかるんだけどね。でさ、やろうと思ったんだけどフタがみつかんなくって』
 貸してもらえないか、ということだった。
「とりあえず探してみます。またあとで電話しますから」
『うん。よかったら食べにおいでよ。あ、ご飯食べちゃったかな?』
「……ま、ともかく電話しますから」
『うん。じゃあねー』
 やはり酔っ払っているようだ。だがお陰でいつもの彼の調子が出ているようでもあった。孝介は電話を持って階下へ行くと、台所の棚を探って土鍋を取り出した。新聞紙にくるまれてずいぶんと奥の方に仕舞われていた。もっと寒くなったらおでんでも作ろうか。そんなことを考えながら孝介は電話を掛けた。
『あった?』
「二三人用の中くらいのですけど、ありましたよ。持っていった方がいいんですか」
『あーうん、お願い。待ってるからさ』
 すぐに行きますとだけ返事をして孝介は電話を切った。菜々子に出掛けてくるからと声を掛けると、「おそくなるの?」と不安そうな目で訊かれた。
「そんなには遅くならないと思う。もし眠かったら先に寝てていいよ」
「うん、わかった。いってらっしゃい」
 菜々子に手を振り返して家を出た。
 外はまだわずかに蒸し暑い空気が残っている。このあいだは秋を思わせる風が吹いていた癖に、今夜は半袖でも充分そうだ。
 少しだけ迷ったが、このあいだ足立に教えられた暗い夜道を行くことにした。シャッターの下りた内装屋の脇に入り、遠くに見える外灯を目指して歩き始める。見渡したところ、先を行く人も向かい側からやって来る人も居ないようだった。民家の塀と倉庫に囲まれたこの道は、風が通り抜けることもなく、また道の出口に光もないのでどこまで続くのかも見当が付かない。なるほど、一人で歩くにはいささか気味が悪い。孝介は足早に通り抜けた。
 呼び鈴を鳴らすと、少し待たされたあとに足立がドアを開けてくれた。
「アロハー」
 ふにゃふにゃと締まりのない顔で笑っている。孝介は気後れしながらも笑い返し、ビニール袋に入れたそれを差し出した。
「あ、ありがとねー。ちょっと上がっていきなよ」
 そう言ってビニール袋を受け取ると、足立は返事も聞かずに奥へと入っていってしまった。居室のテーブルの上には卓上コンロと土鍋と、そこからあふれんばかりに入れられたキャベツの姿が見えた。足立はフタをかぶせるとベッドに腰を下ろし、飲みかけだった缶ビールの残りを勢いよく飲み干した。
 窓が開いて気持ちよく風が吹き抜けている。こんな時期に鍋なんて、さすがに早過ぎるんじゃなかろうか。孝介はそんなことを考えながら玄関に立ち尽くしていた。
「寄ってかないの?」
 煙草へと手を伸ばした足立が、今気付いたみたいに振り返った。孝介は少し迷ったのちに靴を脱いで部屋に上がった。
 どうやら足立のなかから掃除という概念は完全に消え失せたようだ。ゴミだけはかろうじてまとめてあるものの、部屋のなかは無秩序が支配していた。よくこれで生活できるものだと感心してしまう。
 台所とベッドをつなぐ短い獣道をたどって孝介は足立の隣に腰を下ろした。足立は煙草の煙を吐き出しながら孝介の頭を抱え込み、「ひーさしーぶりぃ」と歌うように言った。テーブルの周りには何本もの空き缶が転がっている。だいぶ出来上がっている様子だった。
「今火ぃ付けたばっかりだから、ちょっと時間かかるよ」
 そう言って唇を押し付けてくる。酒臭い息に気付いて逃げるように身を引くと、足立は気にした様子もなく首筋に吸い付いてきた。
「ちょ……煙草っ」
 灰が落ちそうになっている。足立は気怠そうに振り返ると腕を伸ばして灰を叩き落とした。どれくらい前から飲んでいるのか、灰皿も吸殻で満杯だった。
 見かねた孝介は灰皿の中身を流しに捨てて上から水をかけた。部屋に戻ると足立はくわえ煙草でこちらをぼんやりと見上げていた。
「あー、ども」
「……もう寝た方がよくないですか」
 鍋など出来上がる前に意識を失ってしまいそうに見えた。火事なんか起こされた日には目も当てられない。だが足立は「やだ」と子供のように言い張って首を振った。
「鍋食べるの。君と一緒に」
「あーはいはい、わかりましたよ」
 孝介は苦笑して隣に腰掛けた。
 コンロの火は今にも消えてしまうのではないかと思うほど弱々しかった。何故強くしないのかと尋ねると、キャベツだけだから、と足立は答えた。
「あのね、適当に千切ったキャベツを洗って、入れてあるだけなんだ。ほかには水もなにも入ってないの。だからあんまり強くしちゃうと焦げちゃうの」
「水も無し?」
「そ、水も無し。キャベツから水分が出るから、それだけでいいの」
 だから時間がかかるの、と言ってもたれかかってきた。足が空き缶を蹴っ飛ばしたが、足立が気にした様子はない。
「何時から飲んでるんですか」
「仕事終わる前」
「はあ!?」
「あーでもね、こーんなちっちゃいヤツひとつだよ。車も運転してないし、うん、へーきへーき」
 そう言ってにまにまと笑っている。孝介は言葉もなかった。寄りかかってくる体を押し戻して座り直させると、もう何度目になるのかわからない「どうしたんですか」を繰り返した。
「最近の足立さん、変ですよ」
「そお?」
「そうですよ。笑ってたかと思うといきなり元気なくなるし」
 突然泣くし、またあの真っ暗な目でこっちを見るし。
 だがそれは酒のせいであるようにも見えた。ふらふらと意味もなく揺れながら煙草をもみ消した足立は、そのまま孝介の手を握り、両手でもてあそび始めた。
「なんか、俺に出来ることとかないんですか」
「……」
「なにかあったんなら話してくださいよ」
 のろのろと足立が振り向いた。やっぱり気のせいではなかったようだ。いつの間にか真っ暗な穴蔵がこちらを見ていた。そこにはなんの感情もない。言葉が返ってこなければ、自分の姿すら見えているのかと疑問に思ってしまうほどだ。


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