孝介は何故か不安を覚えて視線をそらせた。その横顔を見ながら足立は思った。
 ――むしろなにもないからだ。
 なにもないから酔っ払う以外の方法がわからない。とてもじゃないがこんな退屈、正気で過ごせる自信はない。だけど酔っ払ったところで明日は来てしまう。退屈な昨日を終えてやっと今日を退屈に過ごしたのに、また退屈がやって来る。
 どこまで行っても変わらない。ちょっとだけ期待したけどやっぱりあのガキも死ななかった。
 目の前に居るこいつが、こいつらが、邪魔しやがったんだ。
 孝介はためらいながらもまたこっちに向いた。足立に捕えられた自らの手にそっと力を入れて、ね、と言うように小さく笑いかけてくる。その顔を見た瞬間、ガキがなに必死になっちゃってんの、と笑い出したくなった。
 お前らいいな。お前ら、俺のお陰で毎日楽しいんだろ。感謝しろよ? 俺に今そうやって偉そうになんか言えるのも、結局は俺のお陰なんだからな。俺が目ぇかけてやったからだぞ? 感謝しろよ?
 だが実際には笑い声など出なかった。言葉を探すのもひと苦労だ。
「……出来ること?」
「いや、俺なんかじゃ頼りないでしょうけど……」
 足立は握った孝介の手に目を落とした。そもそもなんで孝介がここに居るのか足立にはわからなかった。
 なんで電話したんだっけ? あぁ、鍋? そうだっけ? でも別に電話なんかする必要なかったんだよ。だってフタなんか台所にあるじゃない。っていうか、なんでこんなクソ暑い日にわざわざ鍋なんかしてんの、僕。
 酔っ払って買い物に行ったのは覚えている。安いからキャベツをカゴに入れて、ふらふらとお菓子の棚を巡っている時に――あぁ思い出した、こいつが居なかったからだ。
 あの日のように孝介が現れなかったから。
 いつまで待ってもやって来なかったから。
 だから呼んでやったんだ。あぁ思い出した。
「じゃあさ、強姦させてよ」
 ぴくりと孝介の指が動いた。
「は……?」
「強姦。一回やってみたかったんだよねー。滅茶苦茶に縛って無理矢理とかさ。あ、それとも青姦の方が燃えるかなあ」
 一度喋り出すと驚くほどすらすらと言葉が出てきた。まるで自分の口を使って見知らぬ誰かが喋っているかのようだった。
「知ってる? ジュネスのフードコートにいい感じの死角があってさあ。勿論角度によってはモロ見えなんだけど、まぁ滅多に人が来ない方向だからそういう際どいラインがいいなーってずっと思ってたんだ」
「……」
「ジュネスって君の友達がバイトしてるんだよね? もしみつかっちゃったら、なんて言われるのかねぇ」
 にまにまと笑いながら足立は喋り続けた。そのあいだずっと孝介の指をもてあそんでいた。そんなこと言ったらこいつが逃げちゃうだろ、そう文句を言い立てる自分の為に足立は孝介の手を握り続けている。彼をここにとどめておきたい気持ちと、追い返したい思いとが、胸のなかで戦っていた。
「どっちがいい?」
 目を上げると、孝介は困惑に瞳を揺らしていた。思わず、あれえ? と胸のなかで首をかしげていた。なにこの子、バカじゃないの? こんなこと言われてなに迷ってんだ。
 ――とっとと出ていけよ。
 僕のことなんか早く見捨ててくれ。
 握った手をすぐに離したかった。さっさと帰れと言いたかった。なのに握った手の温もりは相変わらずで、これがあればとりあえず今日は乗り切れるような気がして、離すことが出来ずにいた。
 孝介はなにかを言おうと口を開きかけている。
「五分だけ時間あげるから、どっちがいいか選んで」
 いつものように口元にだらしない笑いを浮かべて棚の目覚まし時計を見た。時刻は八時になろうとしている。都会ならいざ知らず、この田舎では充分遅い時間だ。子供はとうにおうちへ帰っていなければならない時刻。
 ――帰りなよ。
 うつむいて足立は思った。
 悩まなくていいよ。君がそんな心配しなくていいんだよ。……お前が居るから俺が落ち着かないんだってなんでわかんないんだ? そうやって俺の目の前に餌ちらつかせて、――君がこうやって来てくれるから、まだ大丈夫だって思っちゃうのに。
 足立は今、生まれて初めて後悔している。
 なんで君を好きになっちゃったんだろう。なんで君だったんだろう。ずっとずっと会いたくて、毎日でも顔が見たくて声が聴きたくて、でも会えば絶対にわけのわからない怒りとかが湧いてきてどうしたらいいのかわからなくて、ずっと我慢してたのになんで電話しちゃったんだろう。
 今は君を傷付けることしか考えられない。
 君が居れば退屈な今日を乗り切れる、なんにもない明日を待ち受けられる。だけど、君が居るから僕の退屈がまたやって来る。
 あの怒りと憎しみがやって来る。
 孝介は口を開きかけている。迷いながら声を押し出そうとしている。俺はこんなガキにすがろうとしてるのか、それに気付いた瞬間、喉の奥から素っ頓狂な笑い声が飛び出した。
「なーんてね」
 笑い過ぎて咳き込むほどだった。孝介は驚きに一瞬目を見張ったが、すぐまたさっきと変わらない表情に戻った。
「も、やだなぁ。本気でそんなこと言うわけないじゃない。あのね、そんなことしたらさすがの僕も犯罪者だよ? 左遷どころじゃないよ、前科者だよ。も、やだなぁ真剣な顔しちゃってさあ」
 そうしてヒステリックに笑い続けた。なにがおかしいのか自分でもよくわかっていなかった。ただ無理にでも笑っていないと泣いてしまいそうだった。
 やがて笑い疲れてのろのろ振り返ると、孝介は相変わらずの表情だった。その時足立は自分がテレビをつけていないことに初めて気が付いた。
 沈黙のなかで孝介がゆっくりと首を振った。
「足立さんが理解出来ません」
「……」
 温かな孝介の手がわずかに震えている。
「足立さんがなに考えてるのか、俺、全然わかりません」
 自分の言葉に反応するように、孝介の指がぴくりと動いた。足立は笑いを収めて手元へと目を落とした。
「……あのさ、いくら適当に生きてるからって、それでも君より十歳以上も年上なんだよ、僕。そんな、君みたいなクソガキに簡単に理解されちゃったら、僕の立場ないでしょ?」
 言いながらも孝介の手をもてあそんでいた。孝介は抵抗しなかったが、やがてゆっくりと立ち上がった。見上げると、彼はなにかを言おうと口を開きかけて言葉を呑んだ。奥歯を噛み締める合間に、涙がひと粒落ちていった。
「……俺だって好きでガキやってんじゃないですよ!」
 温かい手が逃げていく。孝介が去っていくのを、足立は足音で確かめていた。ドアが開き、大きな音を立ててドアが閉まる。廊下を駆け去っていく足音、階段を走り去る足音。
 部屋に残ったのは沈黙だけだ。
「……クソガキ」
 足立は呟いて頭を抱える。
「クソガキ」
 その人の名前を呼ぶように、愛しい人の名前の代わりに、何度も何度も呟き続けた。


 十月も下旬となれば、さすがに空気も秋めいてくる。陽射しは薄くなり、風は少しずつ温度を下げていく。だがそれは散歩をするのにちょうどいい気温だ。足立はズボンのポケットに両手を突っ込みながら、ぶらぶらと人通りの少ない細道を歩いている。
 ついさっき堂島家の郵便受けに手紙を放り込んできた。稲羽署のパソコンとプリンターを使って作った脅迫状を。
 孝介がどんな反応を見せるのか、知ることが出来ないのは本当に残念だった。でもそれだけだ。今の足立は久し振りに爽快感に包まれている。
 もっと早くこうするべきだった。勿論奴らが素直に言うことを聞くとは思えないが、予想外の展開におろおろする様が見れた筈だ。なんでやんなかったんだろうなあ?
 足立は首をかしげて足を止めた。民家の塀に寄りかかって、陽射しがかろうじて射し込む場所で煙草を取り出し、一服することにした。農家の倉庫と民家の塀に左右を囲まれたこの道は、昼間でも殆ど人が通らない。外灯も真ん中辺りに一本立っているだけだから、夜は薄暗く、たまに痴漢が出るという話も聞くし、暗がりをいいことにカップルがいちゃついていたりもする。
 あの日の自分たちのように。
 足立は煙草をくわえたまま道の途中を眺めていた。確か電柱が立っているあの辺りだったと思う。雨の降る晩、孝介とキスをした。帰ると言うあの子とどうしても離れたくなくて、あと五分、あと三分と、孝介を困らせるまで抱きしめていた。
 なんだか嘘みたいだ、とぼんやり思う。そんな気持ちが自分のなかにあったなんて今ではとても信じられない。
 灰が落ちたのに気付いて煙草を持ち直し、あらためて灰を叩き落とした。目は電柱の側に立つ、あの晩の自分たちを眺めている。
 ――でも確かにあったんだ、と足立は思う。今となっては戻れない過去に、そんな日があったことを、心がきちんと覚えている。あの日どれだけ離れがたくてキスを繰り返したか、息を交わし合ったのか、暑さもものともせずに抱き合ったのかを、心の奥のだらしなく笑う自分が覚えている。
 足立はおかしくなって鼻を鳴らした。そうして、でもそれは昔のことだよ、ともう一人の自分に言い聞かせた。
 通ってきた過去は確かに残っている。でもこの先、もう二度とそんなことは有り得ないだろう。
 多分もう、あんな風に誰かを想うことなど出来っこない。
 足立は煙草を足元に落として踏み潰した。そうしてまたのろのろと歩き出した。電柱の脇を通り過ぎる時、小さく「ばいばーい」と呟いた。
 ばいばい、あの時の自分。幸せだった自分。お前に希望は似合わないよ。


ばいばーい/2011.01.16

2011.02.11 一部加筆訂正


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