「ただいま」
「たっだいまー」
玄関の引き戸が開くと同時に、男の声がふたつ重なって聞こえてきた。父親が帰ってきたと喜んだ菜々子は、しかし立ち上がる途中で不審そうな目を孝介に向けた。そうして二人は恐る恐る玄関へと振り返った。
「おう、遅くなってすまなかったな」
台所へ迎えに出た娘の頭を撫でて、叔父の遼太郎はネクタイをゆるめた。その後ろからやって来たのは、
「ども、こんちゃーっす」
相変わらず口元に締まりのない足立透だった。
「なんで当たり前のように入ってくるんですか」
「まあまあまあまあ。はい、これお土産」
アイスの入ったビニール袋を孝介に差し出しかけて、足立はふっと菜々子に向き直った。
「はい菜々子ちゃん、お土産だよぉ」
「アイスだ。ありがとう!」
「いえいえ、どういたしまして」
足立はにまにまと笑いながら菜々子の頭を撫でた。そうして背広を脱いで台所のイスに引っ掛けると、やれやれと言って腰を下ろしてしまった。
「……帰らないんですか?」
「来たばっかなのに?」
そもそも何故当然のような顔をして家に上がり込んでくるのか。そこからして孝介には解せなかった。それは菜々子も一緒のようだ。お土産は有り難く頂戴したものの、冷凍庫へと仕舞い込んだあとは若干手持無沙汰な顔で立ち尽くしている。
「足立は今日、うちに宿泊だ」
早々部屋着に着替えた遼太郎が部屋から顔を出しながらそう言った。
「なんか知らんが風呂釜が壊れたらしくてな。明日修理の人間が来るそうなんだ」
「銭湯だったら商店街の先に一軒だけあるじゃないですか」
「それが『かずさ湯』さん、水曜日はお休みでさぁ。ね、頼むよ。今日一日だけお泊りさせて」
「……とまぁ頼み込まれちまってな。どうせ俺もこいつも明日は非番だし、いいかと思って――」
「お父さん、お休みなの?」
遼太郎の言葉に、菜々子の顔がぱっと明るくなった。
「おぉ。明日の放課後は小学校まで迎えに行ってやろうか?」
「ダメ。お父さんはおうちに居て。それでね、菜々子がかえってきたら、おかえりって言って」
「そんなことでいいのか?」
菜々子にとっては「そんなこと」じゃないんだよ、と孝介は思った。いつも帰りを待ってばかりだから誰かに出迎えて欲しいのだ。孝介も幼い頃はそうだった。仕事の忙しい両親を、無人の家で待つのが常だった。だから菜々子の気持ちは痛いほどに理解出来る。
「菜々子。ご飯の仕度しよう」
「うん!」
孝介が声をかけると、菜々子は今から楽しみで仕方ないといった顔で振り返った。
前回の反省を踏まえてか、今日は二人ともおとなしい晩酌だった。
「菜々子ちゃん、僕と一緒にお風呂はいろっかぁ」
「足立。今なら水風呂入り放題だぞ。好きなだけ浸かっていけ」
「なんだったら俺が上からフタ閉めて差し上げますよ」
……なごやかな夕飯だった。
最初に菜々子が部屋へ行き、やがて孝介も自室へ戻った。本当は少し遼太郎と話をしたかったのだが、足立が居てはそれもかなわない。仕方なくあきらめて翻訳のアルバイトでもすることにした。
そうしてテーブルに向かってからどれくらい時間が経った頃か。
「孝介、ちょっといいか」
遼太郎の声がドアの向こうから聞こえてきた。
「なに?」
「お前、スウェットみたいなの余計に持ってないか」
ドアの向こうに現れた遼太郎は、既に眠そうな目をしていた。翌日が休みだということで気が抜けてしまっているようだ。
「あるけど……ああ、足立さんの?」
「おお。俺の貸そうかと思ったんだが、まともなのがこれしかなくてな」
そう言って遼太郎は自分が着ている服を指でつまみ、引っ張ってみせた。
「っていうかあの人、着替えも持たずにうち来たんですか」
「いやあ、俺もそこまで気が回らなくてな」
遼太郎は自分が責められたかの如く恥じ入ってみせた。孝介はそれ以上言うことが出来ず、あとで持っていくとだけ返事をした。
「すまんな」
「……なんか叔父さんって、足立さんには甘い気がする」
「そ、そうか?」
孝介の言葉は意外なものだったらしく、遼太郎は目をぱちくりとさせている。
「まあ、普段仕事でこき使ってるからな。直属の部下だし、面倒は見てやらんと」
「そういうもの?」
孝介は首をひねる。そんな余裕があるならむしろ菜々子を構ってやれと思ったが、さすがにそこまで出過ぎたことは言えなかった。しかし本人も思い当たる部分があったのだろう、遼太郎はこちらをじっとみつめたあと、無精髭の残るアゴを掻きつつ少し気まずそうに笑った。
「あいつは春に本庁から来たばかりなんだ。現場仕事には不馴れでな。ああいう性格だから署の連中には呆れられてるが、俺ばかりはそういうわけにもいかん。少なくとも警察の仕事を続ける気なら、どこへ行っても通用するように育ててやらんと」
そうして遼太郎は、ふとなにかを懐かしむような目になった。
「昔、俺が先輩にそうしてもらったようにな」
「そっか、叔父さんも昔は新米だったんだ」
なんとなくだが、遼太郎は昔から今の姿でいるような気がしていた。思ったことが顔に出たのだろう、「最初から老けてたわけじゃないんだぞ」と遼太郎は笑い、孝介の頭を小突いてきた。
「じゃあ、すまんが頼む。布団は居間に出してあるからな」
「うん。――あ、ねえ」
呼び止めておきながら孝介は躊躇した。階段の途中で足を止めた遼太郎は、先程から続く笑顔のなかに居る。
「……今度、叔母さんのこと、聞いてもいい?」
「……」
遼太郎は口を結び、そっと視線をそらせた。気まずい沈黙をどう埋めようかと孝介が考え始めた時、再び遼太郎がこちらに向いた。
「悪い。……少し時間をくれ」
「……うん」
「おやすみ」
おやすみなさい、と呟いて、孝介は叔父の背中を見送った。
物音で遼太郎が部屋に入った頃を見計らい、孝介は下へ行った。足立は風呂から出たばかりらしく、下着だけの姿でソファーに座り、濡れた髪の毛をがしがしと拭いていた。足元にはテーブルをどかして布団が敷いてある。
「足立さん、着替えです」
「あーっと、ありがとね」
「クリーニング代千円」
「お金取るの!?」
「冗談ですよ」
足立が着替えているあいだに孝介は玄関へ行き、戸締りを確認した。
「そだ、ついでに三千円払うからさ」
台所へ戻ると、布団に座り込んだ足立はそう言って孝介を手招きした。
「寝る前に、おやすみのキスしてくんない?」
「――はあ!?」
思わず飛び出た大声に自分で驚いてしまった。あわてて口をふさぎ、堂島親子の寝室へと振り返る。幸いにして遼太郎が出てくる気配はなかった。足立へ向き直ると、彼も一応気を遣っているらしく、口の前に人差し指を当てて「声でかいって」とあわてたように言った。
「……なんでそういう話になるんです?」
「だって僕、寝る前におやすみのちゅーしないと落ち着かないんだもん」
――知るか、そんなこと!
孝介は殴ってやりたいのをどうにかこらえ、「アイちゃんに頼んだらいかがですか」と冷たい笑顔で言ってやった。
「あれえ? なんで君が知ってるの?」
「……この前、酔っ払った時に言ってたんですよ」
さすがに代わりにされたとまで教えてやる気にはなれなかった。足立はその名前を聞くと何故かうっとりとした表情になり、「ホントは僕もアイちゃんがいいんだけどさぁ」と言った。
「でも今、アイちゃん居ないし。菜々子ちゃんにお願いしたら、僕、堂島さんに殺されるし」
「ええ、俺も菜々子の為なら犯罪に手を染める覚悟は出来てますよ」
「だからさ」
仕方ないから君で我慢するよと言って、当然のように両手を開いた。
「ね。三千円あげるから」
「冗談じゃないですよ、なんで俺が」
「あれ、不満? じゃあ二千円」
「なんで安くなるんですかっ」
「じゃあ千五百円」
ごちゃごちゃと話が長くなるにつれて値段が安くなるらしい。自分の価値が下がっていくという感覚にどうにも耐えられず、孝介はつい文句を言いそびれてしまう。足立はどうやら本気のようで、あぐらを掻き、開いた両手でじれったそうに孝介を呼び続けている。
「…………わかりましたよ。じゃあ、三千円で」
にたり、と足立が笑った。言いなりになるのは口惜しかったが、わずらわしいことに関わり続けるのも嫌だった。適当に済ませてとっとと部屋へ上がればいい。どのみち、こいつとは一度経験済みだ。
――そう思っていたのに、甘かったようだ。なにがおかしいのか足立はにまにまと笑い続け、「へえええええ」とわざとらしく声を上げた。
「現職刑事の甥っ子くんが、エンコーしちゃうんだあ、へえええええ」
「な……援交ってなんですかっ」
「だってそうでしょ? お金もらっていやらしいことしようってんだから、エンコー以外の何物でもないよねえ。いやあ、真面目そうに見えても、人ってわかんないもんだねえ」
「…………!!!」
「最近の日本は腐ってると思ってたけど、まさかここまでとはなあ。僕、驚いちゃったなあ」
足立のわざとらしい台詞に、言い返す言葉が思い付かない。孝介はこぶしを握りしめながら、なんでこんなこと言われて我慢しなけりゃいけないんだと思った。しかし咄嗟に脳裏へ浮かんだのは遼太郎の姿だった。仕方がない、上司としての叔父の顔に免じて、今だけは我慢してやる。
「……………………俺が払えって言ったわけじゃないでしょうが」
「じゃ、タダでいいよね。はい、おやすみのちゅうー」
なにか色々と解せないものはあるが、ひとまず考えるのをやめることにした。孝介は足立の前で両膝を付き、のろのろと顔を差し出していった。
唇が触れて、当然のように舌が入り込んできた。ぬるりとした感触に触れたとたん、孝介は無意識のうちに逃げ出そうともがいていた。だが首に回った足立の腕が強く孝介を押さえつけており、どうしても逃げることはかなわなかった。それでもアゴを引くようにして顔をそむけ、ようやく出来た隙間から息を吸い込んだ瞬間、また足立が唇を押し付けてきた。
「ん……っ」
いつの間にか足から力が抜けている。気が付くと抱きしめられる腕のなかで、足立の背中にしがみついていた。気持ち悪いと気持ちいいの両方を行ったり来たりだ。鼻にかかった声が洩れるたびに足立はかすかに笑い、そのたびに孝介も我に返って逃げようとするのだが、下半身の鈍い痛みが重くて立ち上がれない。
最後に大きく舌を吸ったあと、足立の唇は離れていった。
「……」
足立はにまにまと相変わらず締まりのない笑顔でこちらをみつめていた。孝介はその背中から手を放し、ゆっくりと身を引いていった。
「ありがとね」
「……っ」
孝介はわざと口を拭った。そうしてよろよろと立ち上がり、無言で背を向けた。
「おやすみ」
返事はしなかった。
目を醒ますと、足立の姿は消えていた。どうやら起きて早々に帰っていったようだ。あいつも忙しいんだかのろまなんだかわかりゃしねえと遼太郎がぼやくのに、孝介はなにも言えなかった。
翌日は朝から曇りがちの天気だった。そろそろ梅雨入りのことを考えなければならないのかも知れない。それでも、完二は救出済みだ。孝介にとっては、それが唯一の明るい事実だった。
「お兄ちゃん」
菜々子と揃って家を出たあと、人通りの少ない道で孝介は呼び止められた。
「あのね、足立さんからお兄ちゃんにって」
そう言って菜々子が取り出したのは五千円札だった。菜々子は大金を持つのが恐ろしいといった顔で、札を孝介に突き付けてくる。
「朝おきたらね、足立さん、お兄ちゃんにわたしてって言って」
「……」
「クリーニング代だって言ってたよ」
「……そう」
「お洗濯したの?」
菜々子のきょとんとした顔に、孝介はどう返事をすればいいのか一瞬だけ悩んだ。
「ちょっと、頼まれもの。――ありがとね」
「うんっ」
頭を撫でてやると、菜々子は嬉しそうに笑った。孝介は金をポケットに突っ込み、菜々子と共に歩き始めた。
鮫川の河川敷でいつものように菜々子と別れた。学校へ向かう足取りは重かった。