筆先を整えているあいだに授業終了のチャイムが鳴った。孝介は一瞬迷ったが、どうせだからと半紙に向かい、筆を構えた。
「あれ? まだ書いてんのかよ」
後ろの席から陽介がやって来た。提出用の作品を両手に持ってひらひらと揺すり、にじんでいる墨を乾かそうとしている。孝介はうなずいて返したあと、
「なあ、花村」
「うん?」
「……俺は菜々子によると、『見かけ倒し』の男なんだってさ」
脇で吹き出す友人を後目に、孝介は一気に筆を動かした。半紙にでかでかと「ダメ男」と書いて筆を置き、誇らしげに掲げ持つ。提出作品以上の出来栄えなのが非常に口惜しかった。
「うっわ、リーダーすっごい上手」
早々に硯と筆を洗って戻ってきた千枝が、孝介の手にある書を見て感嘆の声を上げた。それに気付いて雪子も振り返った。
「ホントだ。月森くん、達筆だね」
「いや、感想言う場所間違ってるだろ、お前ら」
ボケなのか素なのか判別しかねるといった表情で陽介がぼやいた。孝介は自分の書いた文字を見て大きなため息をついた。
「これ提出したら、絶対に金賞が取れるよな」
「あー……なんか知らんが、魂はこもってるわな」
「提出しちゃえば?」
千枝の提案に従って課題の作品と両方持っていたら、担当の教師は「ダメ男」の文字をじっくりと眺めたあと、大きな二重丸をくれた。そうして「未熟だが勢いはある」との感想をくれた。残念ながら金賞には程遠いらしい。
「二重丸で終了でした」
「おー、でもすごいじゃん。さっすがリーダー」
千枝と雪子が揃って拍手をしてくれた。
「ちなみにそれ、誰のこと?」
「ちょ、天城もいらんこと突っ込むなよっ」
「俺です。今日から俺は『月森駄目男』に改名するから、よろしく」
「……なんかあったの?」
さすがの千枝も心配になったようだ。隣の席で片付ける手を止め、こちらをのぞき込んできた。
「昨日、菜々子と一緒に折り紙してたんだ」
ボランティアで引き受けている折鶴の作成を居間で行っていた時のことだ。暇を持て余していた菜々子が手伝ってくれるというので一緒に鶴を折った。だが同じものばかりで飽きてしまったのだろう、やがて菜々子は部屋から折り紙の本を持ってきて、少し難しい形に挑戦し始めた。
折り紙とひと口に言ってもなかなか侮れない。写真だけ見れば、本当にこんなものが作れるのかと思うような作品がいっぱい載っている。そのなかで作ってくれとせがまれたのが「牛」という作品だった。
「牛? ……って、あの牛?」
「そう。見た目は簡単そうだったんだ。でもやってみると結構細かくって上手くいかなくてさ」
何枚かの折り紙を無駄にしながら奮闘している横で、菜々子は半分あきらめの入った顔をしていた。期待を裏切ってはならないと思えば思うほど、無駄な力が入って余計に上手くいかない。そうしてしまいには、
「『お兄ちゃんってミカケダオシなんだね』って……」
「……え、ちょっと待って。まさか菜々子ちゃん、本気でそんなこと言ったんじゃないよね? ただの言い間違いだよね。ね?」
「うん。まぁ要するに、案外不器用なんだねって言いたかったみたいなんだけど」
上手い言い回しが思い付かなかったらしい。顔をひきつらせつつ別の言い方を教えてあげたのだが、悪気はないとわかっていても、やはり言われた方はショックを受けるものだ。
「『不器用』と『見かけ倒し』か……。確かに『見かけ倒し』の方がグサッと来るね」
雪子の言葉に孝介は深くうなずいた。
「で、結局牛は折れたのか?」
「折れた。菜々子が寝たあとに山ほど練習して、部屋に置いてある」
「じゃあ汚名返上だ。よかったね、月森くん」
「でもさ、菜々子ちゃんの為に一生懸命折り紙練習するリーダーってさ、……ちょっと笑えるかも」
「確かに」
千枝の言葉がおかしかったのか、雪子はくつくつと笑い声を上げ始めた。
「頼むから爆笑はやめてくれよ。さすがに月森がかわいそうだ」
「……俺、やっぱり駄目男に改名するよ」
「待て相棒、早まるなっ」
そうして案の定雪子が笑い転げ始めたので、孝介は逃げるように席を立った。廊下の流し場へ筆と硯を持ってトボトボと向かう。
「なんかお前、すっかり『お兄ちゃん』になってんじゃん」
隣にやって来た陽介が、肩を小突いてからかってきた。
「しょうがないだろ。菜々子は世界で一番可愛い小学生なんだから」
そう言って振り向くと、陽介は微妙な顔で薄笑いを浮かべていた。
「……悪かったよ。半分は冗談だ」
「半分かよっ」
じゃあ残りはどうなんだと陽介は笑った。水にまぎれる墨汁を眺めながら、どうなんだろうなと孝介も首をかしげる。
「でもホント、変な意味じゃなくてさ、……妹って可愛いよ。お兄ちゃんお兄ちゃんってよく懐いてくれてさ」
「ずっと一人で留守番っていうのが続いてたんだろうしな。菜々子ちゃんも、やっぱ淋しかったんだろ」
そうして、なんとなくわかるよと陽介は呟いた。
「花村もそういえば一人っ子だっけ」
「ああ。でもうちは母親が居たからな」
菜々子の母親は、数年前に事故で他界したという話だった。菜々子からの情報だけなので詳しいことはまだわからないが、どうも普通の事故ではなかったようだ。そのせいか、話題を振るたびに見せる叔父の遼太郎の表情も硬く、遠慮してしまってなかなかその先を聞き出せずにいた。
陽介も、以前菜々子から聞いた話を思い出したのだろう。ふっと表情を曇らせ、手元へと視線を落とした。
「どのみちいつかは死ぬってわかっててもさ、……やっぱ辛いよな。しかもあんなに小さいのにさ」
陽介の言葉を聞いた時、どうせ死ぬのに何故生まれるんだろうとちょっと思った。これほど多くの人間が存在するのに、何故これ以上生まれる必要があるんだろう?
辛いことがあるのに。嬉しいことよりも悲しいことの方が多いのに。
別れは絶対にやって来るのに。
孝介はしばらく考えたあと、でも生まれてなければここに居ないんだよな、と思った。ここで陽介と話をすることもなく、稲羽市へ単身引っ越してくることもなく、だから菜々子にも会えなかった筈だし事件のことも知らないままだ。
――もし俺が居なかったら、花村はどうしてたんだろ。
孝介はいつの間にか思索に囚われていた。蛇口から細く水を出してそこへ筆先を突っ込みながら、つらつらと頭に浮かぶ疑問を推し進めていった。
テレビに入る力を得たのは自分が最初だ。もし自分が居なければテレビのなかのことなど気付かないままだろうし、そうしたら雪子は理由もわからないまま行方不明になって、……そして?
今月半ばには完二がテレビへ放り込まれた。……自分が居なくても、それは同じように行われたのだろうか? この先に起こることも、自分の存在とは無関係に続くのか? もしかして別の可能性があるんじゃないのか?
――まさか。
たどり着いた結論に孝介は愕然とした。――まさか、助けるから、誘拐されるのか?
「どしたん?」
少しボーっとしていたようだ。孝介は声をかけられて我に返った。
「……あのさ」
「うん」
だが言葉を口にしようとしたとたん、頭のなかで渦巻いていた思いはぐしゃりと歪み、なにをどう説明すればいいのかわからなくなってしまった。覚えているのは「助けるから誘拐される」という非常に飛躍した理論だけで、でももしそれが当たっていたとしても、やはり解せない部分が残る。
何故彼らが狙われたのか? 何故誘拐が続くのか?
孝介は頭を振って、それまでのことを忘れようとした。考えることも大事だが、その為には正確な情報を手に入れなければならない。
「完二って、まだ学校には来てないんだっけ」
水道を止めて孝介は訊いた。「まだみたいだな」と陽介は首を振る。
「っつうかあいつ、ちゃんと学校来るんだろうな?」
「今度様子見に行ってみようか」
流し場から教室へ戻る途中、陽介がふと窓の外を見た。
「すっげー。久々にいい天気」
窓の外では初夏の眩しい陽射しが照りつけている。学生服では暑いくらいだ。
「――そうだ。今日さ、一緒に昼飯食わない? 俺、弁当持ってきてるんだけど」
「弁当? お前が作ったの?」
「そう。酢豚作ってきたんだけど食べる?」
「食う! お前料理上手いもんな、すっげー楽しみ」
そうと決まれば片付けだと言って、陽介は教室へ駆け込んでいく。孝介は笑ってそのあとを追った。