「僕が何したのか忘れたわけじゃないだろ? 君のこと最初から裏切ってたんだよ?」
「……わかってるよ!」
叫んだ瞬間、孝介の目から涙が落ちた。
「俺のこと利用してたんだろ? 俺らのこと陰で嗤ってたんだろ!? 全部知ってるよ! わかってるよ! ……わかってるけど、俺だってどうしようもないんだよ!」
そう言って苛立たしげにこぶしで床を打ち付けた。なんとか抑えようと手首を握ったままの足立には、ぼろぼろとこぼれ落ちる孝介の涙を拭ってやることが出来ない。ぶつけられる怒りをただ受け止めるだけだ。
「俺だってあんたのことなんか忘れてたよ。裁判終わって死刑にならないってのがわかった時に、もうこれでいいんだって、もう終わったんだって自分納得させて、全然関係ないとこで普通に暮らそうって思ったよ。なのに」
「なんにもない」が、いつも目の前にあった。
誰と居ても、どれだけ楽しく過ごしても、ふと目をそらせた瞬間、その誰かが居なくなるんじゃないかといつも不安でたまらなかった。大事に思えば思うほど側に居るのが辛かった。失くしたくないと思い、執着し、病的だと自分でもわかっていながらどうしようもなかった。
菜々子は生き返ってくれた。でも足立は戻らなかった。自ら追い詰め、剥奪し、納得した上でのことだと何度も言い聞かせたのに、それでもやっぱり自分が許せなかった。
足立が居ない。どこにも居ない。
自分から足立を奪ったのは自分自身だ。罪は自らにある。でも自分の行いが間違ったことだとも思えなかった。ああするしかなかった、選択肢はひとつだけだった。そうやって何度も考え、反復し、袋小路に入り込んではのたうちまわった。
だから忘れた。
あの一年間のうちで、記憶のなかから足立を消した。自分は犯人を追い詰め捕えたが、その「犯人」に名前は存在しなかった。自分とは関わりのない、見ず知らずの人間で、だからその人物がその後どうなろうとどうでもいいことだった。
恋人が出来た時は、もう大丈夫だと思った。ぽっかりと開いた心の穴をこの人が埋めてくれるんだと期待した。でも違った。心のなかに入り込みながらも同時に空白は存在し続けた。いつかあの時と同じように突然目の前から居なくなるんだという恐怖がまとわりついて離れなかった。
何がそんなに怖いの?
そう訊かれるたびに答えようとした。大事な人が居なくなったんだと喉元まで出かかっているのに、本当にそんなことがあったのかと考えると、自分でもわからなくなった。その癖、大切だと思えば思うほど失う時が絶対に来るという確信があった。
だってその証拠に、自分は失い続けている。
「なんにもない」がずっとある。
その穴は一生涯、どうやったって埋まる筈がない。そこに収まるべき人を自分は忘れてしまった。何故そんな空白があるのか理由すら思い出すことが出来ない。だから結局は駄目になった。好きになればなるほど手にしているのが怖くなり、結局は自分から全てを遠ざけることになった。
大きな欠落感を抱えたままずっと一人で過ごすのだと、半ば受け入れかけていた。足立が戻ってくるという話を聞くまでは。「犯人」には名前があったのだということを思い出すまでは。
「……」
孝介の話を聞きながら、足立は夢で眺めていた地面のことを思い返していた。既に失われ、陽に晒されるだけの空白。あの時抱えていたそれは、自分にとって幸せの名残りだった。それがあれば他には何もなくても生きていけるような、幸福の象徴だった。
でも結局それはただの空白で、何も生み出しはしない。あの時男が言ったことは正しかったのだ。「見えないところで」孝介がどうなろうと「知ったこっちゃなかった」。自分には思い出が残った、幸福な記憶があった、だから孝介も幸せにやっているんだろうと勝手に思い込んでいた。
一緒に暮らし、孝介が何を望んでいるのかもわかっていながら、見えないフリを続けていた。自分の想いですら誤魔化して、孝介の為だと言い訳をして、逃げ切れるつもりで居た。
君が助けてくれたのに。
『ひとつだけお願いがあるんですけど』
いつも逃げずに向かってきてくれてたのに。
「騙してても、嗤ってても、……も、どうでもいいよっ。俺、足立さんが居ないと駄目なのに、なんでどっか行っちゃったんだよ! なんで居てくれないんだよ!」
この空白は、君でしか埋まらないのに。
「もう置いてかないで……!!」
気が付くとしがみつかれていた。足立は孝介に抱きつかれたまま、しばらくのあいだ茫然としていた。孝介は子供のように泣きじゃくり、時折辛そうに身を震わせた。自分の為に誰かが泣いているのだということを理解するのに、かなりの時間が必要だった。足立は震える腕を上げて孝介の背中を抱き、髪を撫で、恐る恐る力を込めて孝介の体を抱き返した。
「……ごめん」
孝介は泣き続けている。自分の為に涙を流している。
今の今まで、消えれば済むのだと心のどこかで思っていた。その時になればまた怖くなるのだろうが、それでも自分が消えてしまえば、全て解決するのだと安易に考えていた。自分が消えても世界にはなんら関係がない。大勢あるうちのひとつが消えても、気にする人間なんて居る筈がない。そう思っていた。
――結局、
孝介の為と言いながら、自分のことしか見ていなかったのだ。自分が楽になる方法しか考えていなかった。自分が負うべき辛さを誰かに肩代わりさせて、それでいいことにしようとしていた。選ばないことを選んで、また同じことを繰り返すところだった。
いつも孝介に救われる。
自分が繋がっている世界の存在を教えてくれるのは、いつも自分ではない誰かだ。
「ごめん」
泣きじゃくる孝介の体を抱き締め、足立はそれだけを繰り返した。
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