グラスを合わせる二人の前で、鍋がぐつぐつ煮えている。立ち上る湯気を眺めつつビールを飲んだ孝介は、満足そうに息を吐いた。
「なんか、瓶ビールって味が濃い気がする」
「ねー。おんなじビールなのに、こっちの方が美味しいよね」
 足立もグラスを置いてうなずいた。買い物へ行った時、どうせだからと二本だけ買ってきたのだ。二人ともさほど飲める方ではないから雰囲気を楽しむ為だったが、こういうちょっとしたことでも特別な空気を醸し出してくれるのが不思議だった。
 孝介はさっそく鍋に手を伸ばしている。他は惣菜を買って皿に移し替えた物が殆どだが、帰ってきた孝介はテーブルを見て「食い切れるかな」と嬉しそうだった。二人きりの誕生日パーティーだ。
「この前、不動産屋さん行って話聞いてきたんだけどさ、部屋探すんなら春先に済ませた方がいいって言われた」
「ああ、移動の時期ですからね。早めの方がいい部屋も空いてるだろうし」
「そうそう。おんなじこと言われたよ」
 足立は白菜に息を吹きかけ、「でもなぁ」と唸ってしまった。
「三月じゃまだお金貯まってないだろうし」
「――よろしければ『月森金融』がお手伝いいたします。限度額は三十万、利息はトイチで」
「トイチ!? 誰が借りるかっ」
 肘で殴る真似をすると、「冗談ですよ」と孝介はおかしそうに笑った。今では引っ越しの話題は二人のあいだで当然のものとなっている。
「どういう部屋にしようとか、希望はあるんですか?」
「そうだなぁ……やっぱり台所が使いやすいのがいいかな」
「自炊の素晴らしさにやっと目覚めましたね」
「うん。そこは感謝してる」
 元来面倒臭がりの自分だが、馴れてしまえば案外簡単だった。昔と違って家へ帰れないということもなく、時間も充分ある。ただ、今は孝介が居るからやろうという気になれるが、将来的にはいささか不安が残るのも事実だった。ともかく物を無闇に増やすことだけはしないでおこうときつく自分に言い聞かせた。
「君は、引っ越しはどうするの?」
「……どうしようかな。まだ迷ってるんですよね」
 今だって不満があるわけではない。会社へは比較的近い場所に住んでいるし、堂島家へ行くにも便利だ。そう言って孝介はグラスに残ったビールを飲み干した。
「でも、二部屋はやっぱり多いかな」
「……」
 足立は何も答えないままビールを注いだ。
 いつもと違ってゆっくりの夕飯だった。飲みながらのせいもあるだろう。ケーキもちゃんと買ってあったが、あとでいいと孝介は首を振った。足立も同感だ。料理を片付けるだけで大変だった。今はこれ以上入りそうにない。
 食後のお茶を飲んでまったりしている時、そろそろいいかなと、足立は自室からプレゼントの箱を持ってきて渡した。御丁寧にリボンまで掛けられたそれを見て、孝介は驚きに目を見張った。
「どうしたんですか、これ」
「プレゼント。似合うかなーと思ってさ」
 早く開けてみてよとせっつくと、何故か孝介は渋々といった顔でリボンを解き、箱を開けた。そうして出てきたジャケットを見て「お?」と少し嬉しそうに笑い、箱から取り出して広げてみせたあとで更に満面の笑顔を作った。
「すごい、かっこいいですね」
「気に入った?」
「こういうの大好きなんですよ。ありがとうございます」
 好みから外れていなかったことにまず安堵した。
「着てみてもいい?」
「勿論。サイズ合うかな? 大丈夫かな?」
 孝介は上に来ていたトレーナーを脱いでTシャツ一枚になり、ジャケットを羽織ると腕をあちこちに動かして「大丈夫です」とうなずいた。
「結構あったかいや」
「よかったー」
 そのまま玄関ホールに置いてある姿見の前へ行き、鏡に映った自分の姿をとっくりと眺めている。ここからだと見えるのは横顔だけだが、心底喜んでくれているようだ。
 足立がお茶を飲んでいると、
「すごい嬉しいです。ありがとうございます」
 重ねてお礼を言われてしまった。実際着ているところを見ると、想像以上に似合っていた。孝介はこっちの視線に気付くと両手をゆるく広げ、「似合う?」と訊いた。
「似合う、似合う。すごくかっこいいよ」
「ホント?」
「うん。かっこよ過ぎて惚れ直しそう」
「惚れ直してくれていいですよ」
 言葉の最後は声が震えていた。お互いの顔から自然と笑顔が消え、そのことに気付いた足立はあらためて笑おうとしたが果たせなかった。孝介が上げていた手をゆっくりと下ろし、その合間に、逃げるように立ち上がって背を向けた。
「……えと、イチゴ食べる? 安かったから買ってきたんだ」
 返事も聞かないうちに冷蔵庫を開け、パックを取り出して洗い始めた。沈黙が恐ろしくてたまらず、何を喋ろうかと考える前に言葉が口から飛び出していた。
「あ、全部じゃ多いかな。君、どれくらい食べる? まぁ残ってもまた明日食べればいいんだし、いいよね、……あの」
「……」
「……あ、ケーキもあるんだった。どっちにしようか。ケーキ食べちゃう方がいいかな。あ、でも君、まだいいって言ってたっけ。ね。うん」
「……もういいよ」
 苦笑交じりの声だった。
「もうわかってるから、いいですよ」
 どんな顔をしているんだろう。知りたい気持ちはあったけど、知るのが怖くて振り返ることが出来なかった。
「俺だって自分の執念深さに驚いてるんだ。いい加減、自分でもどうにかしたいんです」
「……」
 足立はイチゴの入ったパックを流しに置いた。水を止め、濡れたままの手でシンクの縁にしがみつく。
「助けてもらえませんか」
「……」
「とどめ刺してください」
 そうして、お願いしますとまで言われてしまった。
 足立は混乱した頭で考えた。今が絶好の時だ。これが最後だ。こうなることをお互いが望んでいた。いつかは来てしまう時が今になっただけだ。
 終わらせてやれ。遺恨無く。


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