足立はソファーに腰を下ろしたまま孝介の部屋の扉をみつめ、扉が開けっ放しの自分の部屋を眺めた。
どんな子と住んでいたんだろう。考えまいとすればするほど想像してしまう。どんな趣味の子だったんだろう。どんな風に部屋を飾っていたんだろう?
そこまで考えた時、何度か足を踏み入れた孝介の部屋の様子を思い出した。パッと見は綺麗に整頓されているような印象を受けるが、案外漫画も小説も雑誌もバラバラに収まっている本棚とか、どこで貰ってきたんだと首をかしげてしまう使い道のないマスコットが詰め込まれた小箱とかが普通に存在していた。孝介の生活の名残りだ。
なのに初めてここを訪れた時、綺麗だと思う以前にがらんとした部屋だなと思った覚えがある。孝介自身、物が無いせいだと何度も言っていた。
あれは以前同居していた人間の痕跡を全て消し去ったせいだ。彼女が出ていったあと、必要な物は自室へ移し、それ以外を全部捨てたに違いない。彼女が持ち去った可能性もあるが、それ以上のことをしなければあれほど綺麗になんてならない筈だ。
自分も同じように消されるんだろうか。
ガチャンという音に驚いて目を向けると、握っていた筈のグラスが手元から外れ、入っていた酒がテーブルに少しこぼれていた。側にあった煮物の皿にぶつかったようだ。幸い倒れることはなかったが、足立はあわててグラスを握り直し、立ち上がって中身を流しに捨てた。
飲み過ぎだ。酔っ払ってるんだ。よくよく見てみれば、焼酎の中身が殆どなくなっている。堂島と二人で呑んだからって、さすがにこれはない。大体今は何時だ。まだ日付は変わっていないのか?
足立はテーブルの上の携帯電話を取り上げて時刻を確かめた。十時を過ぎたところだった。あと二時間もしないうちに新年二日目が終わる。昨日は静かな一日だった。堂島が帰ってしまった今も、怖いくらいに静かだ。
ここを出ていけばこういう毎日が待っている。そう思った瞬間、足立は腰が抜けるようにしてその場にへたり込んでしまった。そうしてこれからの半年間、ずっとそのことに怯えながら孝介と暮らせるんだろうかと不安になり、実際一人の生活が始まってから耐えられるのだろうかと恐ろしくなった。何かに突き動かされて立ち上がり、だが歩き出す力が得られなくてまたへたり込んだ。
――やだな。
どっちも嫌だ。ここを出ていくのも、今のまま孝介と一緒に居るのも。どっちにしても耐えられる自信はない。不安をこらえる為にきつく自分の両足を抱え込んだ。そうして後ろ頭が流し台の下の扉にぶつかった時、そこに収められている凶器の存在を思い出した。日常生活に当然のように溶け込んでいるが、本来武器として存在している刃物。
足立はその場をどくと床にしゃがみ込んだまま扉を開けた。扉の内側に差し込めるよう台が付いていて、そこに二本の包丁が収まっていた。陰になりながらも電燈の光を受けて刃先が輝いている。
逃げればいいじゃないかと、心の底でささやきかける声があった。顔の見えない誰かがこっちを見てにやにや笑っている気がした。恐ろしくなって閉めた扉を足立は再び開けた。
――逃げる?
他にも方法が、と包丁から目をそらして居間のなかを見回した時、自分が半ば本気で死のうとしていることに気が付いた。
「待て」
口に出して言い、自室へと振り返る。そうして、あそこに何か使える物はなかっただろうかと考えた。ロープ。薬? いや、そんな面倒な物など必要ない、今すぐ部屋を出ていけばいい。通りまで行って車の前に飛び出せば――
「待って。……やだよ、待って」
立ち上がりそうになる体を必死で押さえ付けた。そうしながらも走り始めた気持ちは止まらない。大丈夫すぐに終わる、悩む必要なんかない、今すぐ、迷ってたら失敗する。
「待って」
本気で死ぬつもりでいる自分が恐ろしかった。それを止められる物が何もないのが恐ろしかった。頭の半分は実行までの道のりを理路整然と考え、残りの半分は、そんな風にして終わっても困る人など誰も居ないという事実にただ怯えている。
この世に自分を引き止めてくれるものなど、何ひとつ。
それでも足立は居間のなかを見回した。何か引き止めてくれる物はないかと必死になって探し回った。でも有り難いことに、今ここには誰も居ない。自分だけだ。自分が決断すれば全部終わる。あの時出来なかった選択を今するだけだ。何も怖いことなどある筈がないのに。
「やだ……やだよ……」
足立は繰り返し嫌だと呟いて流し台の下の扉を閉めた。目の前のテーブルにしがみついて立ち上がろうとする自分から必死に逃げた。決めちゃいけない。今だけは駄目だ。何度も自分を説得しようとするが、上手くいく見込みはゼロに近かった。実際死ねば終わるのだと考えた瞬間、すーっと肩が軽くなった。こんなに楽になれるのに何故我慢する必要がある? 足立はその自問に答えることが出来ない。
何かないかとまた居間のなかを見回した時、ふとラグマットの上に目が落ちた。孝介がいつも座っている席だ。こうして台所を背にして座るのも、自分のいつもの習慣だった。
孝介の声が耳の奥で呟いた。
『ひとつだけお願いがあるんですけど』
「……なに?」
箸を置いてわずかにうつむき、硬い表情で考え込んでいる。足立は我慢出来ずにもう一度、なに、と訊き返していた。
孝介の言葉を思い出した瞬間、全身から力が抜けた。余程強くテーブルにしがみついていたようで、離したあとの手が震えていた。足立は手の平をみつめ、そのまま両手で顔を覆い、静かに泣いた。死ななくてもいい理由が一個だけみつかった。
孝介との約束。
絶対に黙って居なくならないこと。
安堵したせいか、足立は子供のように泣いてしまった。泣きながら、自分の手を握り返す孝介の温もりを思い描き、何故ここに居ないんだと理不尽にも怒りを覚えた。
会いたかった。
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