仮出所を果たしてから二ヶ月が過ぎた。もうじき十一月も終わる。
この二ヶ月のあいだに増えた物がある。自分の部屋、仕事、同居人。新たに買い込んだ洋服。戻ってきた物は運転免許証と携帯電話。
免許証は失効していたものを手続きした。携帯電話はそのあとしばらくして買った。最初はいらないと思っていたが、ないと不便だと孝介に言われ、同じ通信会社の物を購入した。
部屋に居る時、たまに孝介が隣の部屋から掛けてくる。内容は、明日仕事で遅くなるとか、当日でもいいだろ、っていうか一々電話するなここ来て話せ、というようなことばかりだ。それでも電話越しに話していると、なんとなく昔のことを思い出して温かい気持ちになり、同時に落ち着かないような、居たたまれないような気分になった。
未だに足立のなかで歴史が上手く繋がっていない。
電話越しに聞こえる孝介の声は高校生の頃と殆ど変っていない。電話の向こうには当時の彼が居て、その声に応える自分はまだ刑事という身分で、まだ稲羽市に住んでいる――そんな錯覚を何度も覚えた。
だけど目に見える風景は確かに「今」で、だから実は聞こえてくるこの声は過去からやって来ている、本当はもう孝介はどこにも居ない。あの霧のなかに消えてしまった。電話のたびに、そんな妄想じみた考えが頭に絡み付いて離れなかった。
声が聞こえていても不安は拭い切れず、結局は足立が自室を出て孝介の部屋の扉をノックすることになった。大抵孝介は笑って出迎えてくれる。そうして互いに電話を切り、同じ空間で言葉を交わした。話すのは大体孝介の方だ。学生時代のこと、友達のこと、仕事のこと。堂島や菜々子のこと。東京での生活、相変わらず仕事熱心な両親のこと。孝介の言葉によって、やっと足立の歴史が動く。
仕事にもだいぶ馴れてきた。最初は戸惑うことばかりだったが、社長の畑中が辛抱強く色々なことを教えてくれた。社長の奥さんである香代子は店番をしていることが殆どで、一緒に現場に出るのは畑中と、只野という二十三才になる青年の二人だけだった。
只野は畑中の遠縁にあたる人物らしい。高校生の頃から小遣い稼ぎのアルバイトをしていて、そのまま就職したのだそうだ。ぶっきらぼうで言葉数は少なく、いかにも職人というような昨今珍しいタイプの若者だが、根は真面目で責任感が強く、手元が覚束ない足立の作業をいつも見守ってくれている。
同棲中の彼女が居るとのことで、昼はいつも弁当持参だ。二人で結婚資金を貯めている最中らしい。
自分のような人間が役に立つだろうかと最初は不安しかなかったが、二人のお陰でなんとか続けられた。それに意外なところで重宝された。
「ただいま」
ある日店に戻ると、奥さんの香代子が渋い顔付きでノートパソコンの前に座っていた。カウンターの隅に置いてあり、常に電源は入っているが、殆ど地図の検索にしか使われていないという代物だった。
「どうした」
畑中が訊くと、どうやら経理のソフトに入力をしている最中なのだが、間違った手順で終わらせてしまい、途方に暮れているらしい。サポートにも電話をして折り返しの連絡を待っている最中なのだが、一時間経ってもまだ電話がないとのこと。
「カズ。おい、ちょっと来い」
畑中が只野を呼んだ。一番年が若いんだから機械には強いだろうということらしいが、只野は香代子が差し出す分厚いマニュアルを見ただけで「無理っすよ」と首を振った。
「お前、ネットとかよく見てるだろ」
「そりゃ見るけど、見てるだけですって。そんなんわかりませんよ」
足立はマニュアルを受け取ってなかを開いてみた。文章量は多いが、順を追って見ていけばなんとか流れはわかりそうだった。
「これ、どうしたいんですか?」
「まだ月末じゃないのに月締めの処理をしちゃったの。元に戻したいんだけど、やり方が全然わからなくって……」
そう言って香代子はくたびれたようにため息をついた。だいぶ長い時間、悪戦苦闘したようだ。足立はマニュアルをめくってそれらしき箇所をみつけ、ソフトを立ち上げてもらい、香代子に代わってパソコンの前に座った。
ソフトを動かしてみると、何故こんなに分厚いマニュアルが要るんだと思うほど操作は呆気なかった。経理のことなど足立は微塵もわからなかったが、香代子の希望を聞いて求める状態に戻すのに、さほどの手間は掛からなかった。
「すごい。戻っちゃった」
見馴れた画面になったと香代子は手を叩いて喜んでいる。後ろからのしかかるようにして画面を覗き込んでいた畑中が、いきなり足立の肩に両手を置いて揉み始めた。
「……お前、すげぇな」
「え、いや、全然すごくないですよ」
「いや、すげっすよ」
只野までもが尊敬の眼差しを投げかけてくる。足立は困って、はあ、と言うだけだ。
以来少しずつだが事務仕事の方も任されるようになった。現場へ出ない為に香代子とは挨拶をする程度で終わっていたが、そのお陰で徐々に打ち解けることも出来た。
足立は日常に馴染みつつある。
時々堂島が電話をくれた。仕事はどうだとか、困ったことはないかとか、毎回お決まりの台詞で始まる電話だ。
なんとかやっていることを伝えると、そうか、それならいいんだがと言って、互いに言葉に詰まってしまう。元々喋ることが得意ではない堂島だ。ついでのように、孝介はどうしていると訊かれて電話を代わり、そうすると向こうでも菜々子に受話器が渡されるらしく、会話の途中でいきなりぞんざいな言葉が飛び出してくる。だがそれは愛のある悪口のようなもので、側で聞いていると笑ってしまうことが多い。
足立もたまに菜々子と話す。食事はちゃんと取っているのかとか、そろそろ寒くなってきたから風邪なんか引かないでねなどと、妙に説教じみた台詞を投げかけられるのが、なんだかおかしかった。そうしてまた堂島に戻り、
『……ま、元気でやってるんならいいんだ』
少しの沈黙のあと、じゃあまたなと言って電話は切られる。最後に、何かあったらすぐに連絡しろよと、いつも必ず付け加えられた。
足立も孝介も仕事はカレンダー通りの為、休日はいつも重なった。大抵は土曜日に二人で家の掃除を済ませ、買い物へ行き、溜まった洗濯物を片付けた。一人の時はそんなことなどしようとも思わなかったが、自分だけじゃないと思うと、体を動かすのが苦痛ではなくなった。
何も予定のない日曜日には――そして大抵どちらにも予定は存在しなかった――我慢出来なくなって孝介が動き出す。といっても大したことじゃない。映画のDVDを借りてきて一緒に観るとか、孝介の車でどこかへドライブに行くとか、何故か急にケーキを焼くから手伝えとか、そういうことだ。
同居生活は楽しかった。ふと気を抜くと、ずっと昔からこんな風にして一緒に過ごしているような、そんな錯覚すら覚えた。いつまでもこうしていられたらいいなと思う時は多々あったが、それが出来ないことを、二人とも薄々は気付いていた。
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