麦茶を飲み終えたあと、畑中が作業場を見せてくれた。大きなガラスが鉄製の枠のなかに何枚も収まっている。これを窓枠のサイズに合わせて切り取り、嵌め込むのだそうだ。
「え、手で切れるんですか?」
「切れますよ。勿論道具は使うけどね」
 そう言って見せてくれたのは、名前もズバリ「ガラスカッター」という代物だった。細長い握りの先端部分が、カッターの刃の代わりに小さな丸いボールになっている、一見しただけでは何に使うのかわからない道具だ。
「こうやってね」
 木屑の上に集められていたガラスの切れ端をテーブルに乗せ、定規を当てて上から下へと引く。そのあとガラスを裏返し、カッターの尻の部分で二三度切った部分をなぞると、簡単に二つに分かれてしまった。
「すごいっ」
「あんたもすぐ出来るようになるさ」
 畑中はやや誇らしげに笑って言った。
「どうだい。こんな仕事だけど、うち来るかい?」
 否やのあるわけがなかった。畑中は嬉しそうに背中を叩くと、「じゃあ決まりだ」と言って脇の入口に顔を突っ込み、「おーい」と奥さんを呼んだ。
「作業ズボン出してくれないか」
「わかりました。サイズは?」
「Lでいいんじゃないか。上着は在庫あったっけ?」
「あるけど、明日でいいわよね。着てくるんじゃ暑いだろうし」
「だな」
 足立は店のなかに戻された。イスに座るよう促される。その時電話が鳴って畑中が出た。どうやら資材の発注の連絡らしく、「いや、週末に間に合えば」などと言っている。
「……あの」
 電話が終わったのを見計らって声を掛けると、畑中はカウンターの向こうに座りながらこっちを不思議そうに見た。
「あの……自分のことは、聞いてますか」
 刑務所から出てきたばかりなのだとは、さすがに言いにくかった。だが畑中はわかっているようで、何度もうなずき、
「堂島さんからね。全部聞いてるよ」
「……」
「心配しなさんな。別に脱獄してきたってわけじゃないんだろ?」
 そう言ってからからと笑った。
「うちは前にも似たような境遇の人雇ったことがあるんですよ。そいつは結婚して、嫁さんの実家の方に移るっていうんで辞めてったけどね」
「そうですか……」
「仕事さえ真面目にしてくれりゃ構わんですよ。誰だって挫折する時もあるし、間違う時だってある。でもやり直せるのが人間だ」
 足立は一瞬言葉に詰まった。
「……ありがとうございます。よろしくお願いします」
 膝の上で両手を握り締め、深々と頭を下げた。
 タイミングを計っていたのか、話が終わったところへ奥さんがやって来た。手に紙袋を提げている。畑中がそれを受け取り、なかを示しながら説明してくれた。
「制服ってほど上等なもんじゃないけど、一応うちの作業着。着替えるところないんで朝来る時にはいてきてもらえますか。上着もあるけど、まぁ今は暑いし、お客さんのところ行くんじゃないなら、みんな着ないで済ませるかな」
「一応二本入れておきましたけど、もし古くなったりしたら言ってくださいね」
「はい」
 翌日からさっそく通うことになった。二人は店の外まで見送りに出てくれた。
「それじゃあ、失礼します」
「お気を付けて」
「明日からよろしくな」
「――はい」
 通りに出た足立は、夜になったらさっそく堂島に電話しようと考えた。そうして帰る道すがら、時計屋で小さな目覚まし時計と安い腕時計を購入し、汗を掻くだろうからとハンドタオルを何枚か購入し、着替え用にとTシャツを何枚か買い込んだ。学生の姿の目立つ駅前通りを歩き、ふと不動産屋の前で足を止めた。
 正面のガラスに幾つも物件の間取りが貼り付けてある。単身者用のワンルームや1Kの部屋を眺めてみた。家賃は確かに高くはないが、借りるとしたら部屋代だけでは済まない筈だ。礼金はなしのところも多いが、敷金はどうしても必要になるし、前家賃や仲介手数料を考えるとなると、ひと月やそこらであの部屋を出るのは難しいだろう。
 雇ってもらったばかりで金を借りることなど出来るわけがない。それに、堂島へ返す金もある。
 ――どうしよう。
 この前はすぐに出ていけばいいと安易に考えた。昨日の晩までそうするのだと思っていた。でも。
『俺が足立さん、捕まえたんじゃないですかっ』
 このままではまた同じことの繰り返しだ。逃げて、見ないフリで誤魔化して、自分だけが楽になれる。
 何も変わらない。
「……」
 不動産屋の入口が開いて、制服を着た女性が出てきた。足立を見るとにこりと笑い、
「お部屋をお探しですか? 他にも物件がございますし、よろしかったら――」
「あ、いえ」
 なかへどうぞと言われるのを断り、足立は歩き出した。
 来た時よりも電車は混んでいたが、不思議とあまり気にならなかった。
『誰だって挫折する時もあるし、間違う時だってある』
 帰りの電車のなかで畑中の言葉を思い返していた。でも、やり直せるのが人間だ――。


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