玄関に入ると、一気に疲労が襲ってきた。孝介に言われるまま、居間のラグマットの上へ腰を下ろした。
「お茶でも飲みます?」
買ってきた物や弁当を冷蔵庫に仕舞いながら孝介が訊いた。
「あぁ、うん。貰おうかな」
「じゃあすいませんけど、グラス取ってもらえますか。俺の分も」
流し台の上に作り付けの棚があり、食器は全てそこに並んでいる。言われるままグラスを二つ取って渡した。孝介はペットボトルから緑茶を注いでいる。
「こっちのヤツ、洗っちゃっていい?」
流しに置きっ放しのグラスを示して足立は訊いた。「お願いします」とすぐに返事があった。
再びお茶を飲んでひと息ついていると、「そうだ」と言って孝介が立ち上がった。そのまま部屋へと消えていく。扉を開閉する少しの間に見えた彼の部屋は、他と同じく綺麗に整頓されているようだった。
「はい」
戻ってきた孝介が、突然何かを放り投げた。足立は驚いて身を引き、ぽんと跳ねて床に転がるそれをあわてて目で追った。
茶色い体に細長い手足が付いている。
「え……」
グラスをテーブルに戻し、まさかと思いながら足立は手を伸ばした。そっと顔を持ち上げると、間違いなかった。
「アイちゃん……!」
懐かしくてたまらず、両手で持ち上げて向かい合う恰好で座らせた。頭を撫で、じっと顔をみつめ、抱きしめた。
「……え、え、なんで?」
「荷物処分されるって聞いたから、叔父さんに頼んで引き取ってもらったんです」
孝介は部屋の前に立ったままこっちを見下ろしている。
「礼なら叔父さんに言ってくださいね。ホントは不味いらしいから」
「そうなんだ……ありがとう」
十二年経っているとはいえ、ぬいぐるみは綺麗な状態に保たれていた。所々ほつれたり糸が飛び出したりしているが、面影は記憶にあるままだった。
「……返せるとは思ってなかったですけど」
呟きに顔を上げた。孝介は腕を組んだまま硬い表情でこっちを見下ろしている。だが目はそらさなかった。しばらくそうしてみつめ合い、足立の方が我慢出来なくなって顔をそむけようとした時、不意に孝介が吹き出した。
「……え? なに?」
「いえ、別に」
孝介は表情を取り繕ったが、やがてまたくつくつと笑い出した。
「……な、なに? なに笑ってんの?」
「いえ――」
顔をそむけ、だがちらちらとこっちを見て、また笑う。
「なに。なんなの」
「――四十近いおっさんが、ぬいぐるみ抱いて喜んでるって、なんかこう……」
「……っ」
返事に詰まった足立は、助けを求めるようにアイちゃんを見た。だが勿論アイちゃんはなんの助言もくれなかった。
「だって、う、嬉しいんだもん。しょうがないでしょ」
やがて孝介はゲラゲラと笑い始めた。足立はそれ以上言い返すことが出来なかった。笑われるのは口惜しくもあったが、なんであれ孝介がちゃんと笑っているのを見たのは、出所以来初めてだった。
「喜んでもらえたなら良かったですよ。大事にしてた甲斐がありました」
笑い過ぎて腹が痛いと言いながら孝介は涙を拭う。そうしてそんな自分を恥じるようにまた目を落とすと、
「俺、部屋に居ますんで、何かあったら声掛けてください」
「あ、うん」
自分の分のグラスを持って部屋へと消えた。さっきと同じように閉じられた扉は、それでも自分を拒絶しているわけではないのだと、少しだけ思うことが出来た。
翌日、孝介に頼んで一緒に買い物へ行ってもらった。クリーニング屋へ行くというので付き合った。ネットで検索してもらった結果、畑中硝子店へは電車に乗る必要があるとわかり、念の為に駅の改札と券売機を見に行った。
「人混み苦手で、電車乗れるんですか?」
「…………頑張る」
逃げるわけにはいかないのだと、何度も自分に言い聞かせた。
昨日とは違ったルートでマンションの周囲を歩いてみた。コンビニに行きたいと言ったら、脇道から行った方がいいと孝介が教えてくれたのだ。駅前通りの商店街を昨日とは逆に向かい、パン屋と美容院のあいだの細い道を進む。曲がってすぐのところに小さな飲み屋が何軒か集まっていたが、そこを過ぎると店は殆どなくなってしまった。
道の途中に狭い公園があり、小学生の男の子三人がジャングルジムの周りでアイスを食べていた。どこからか電話のベルが聞こえ、音に振り向いた時、布団を取り込もうとしている年配の女性の姿を見掛けた。今日も陽射しは厳しいが、土地のせいか風向きのせいか、あのまとわりつくような熱気は感じない。
「結構普通の住宅街なんだね」
「栄えてるのは駅の周辺だけですよ。ちょっと外れれば、すぐにこんな感じです」
コンビニでジュースと雑誌を買って帰った。マンションに帰り着くと安堵のため息が洩れた。町に体を馴らすのは、やはり簡単にはいかないようだ。
食事は全て孝介が作ってくれた。あまり料理はしないと言っていたが、案外手馴れているように見えた。そういえば昔から結構器用な方だったな、と足立は思い出していた。会社でもソツなくなんでもこなしてるんだろうなと想像出来た。
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