「足立さん?」
どこかに隠れているのかと思って声を掛けたが、相変わらず返事はなかった。いよいよ本気で不安になった孝介は、家中を隅々まで探し回った。本来人が隠れそうもない天袋のなかまで確認したが、やはり家のなかには誰一人居なかった。
――なんだ、これ。
見た目も作りもまるっきり自分が知っている堂島家だ。なのに、肝心の住人が居ない。
孝介は恐ろしくなって玄関を飛び出した。だが外には霧が漂い、辺りは薄暗く、下手に歩き回ると遭難する恐れがあった。何故自分一人だけでこんなところに居るのか理解出来なかったが、このまま外に出るのは危険だ。仕方なく孝介は家に戻り、ソファーに座り込んで頭を抱えた。
なんでこんなことになっているのかが思い出せない。
しばらくのあいだ断片的に残る記憶を順番も滅茶苦茶なまま頭のなかで並べていたが、ふと視線を上げた時、電話機の姿が目に入って孝介は立ち上がった。
今更のようにポケットから携帯電話を取り出す。しかし画面は真っ暗だった。電源ボタンを押したが反応はない。バッテリーが切れたのか――それとも、この霧のなかでは使えないという意味か。
孝介はフラフラと電話の前へ歩いていって受話器を持ち上げた。繋がっていることを知らせるツーという音が延々と続いている。ボタンを押そうとして指を伸ばし、だけど、どこに掛けたらいいのかがわからなくて手を戻す。110番? 119番? そもそも菜々子はどこへ行ったんだ? 何故叔父さんは帰ってこない?
「……どこだよ」
絶望と共に受話器を置いた。
ソファーに戻り、横向きに座って両膝を抱え込んだ。この霧はいつになったら晴れるのか。果たして夜は明けるのか。この無人の家に誰かが戻る日はやって来るのか。答えの出ない疑問がグルグルと頭を回る。
孝介は今、一人だ。
どうしようもなく一人きりだ。
テレビは怖くてつけられなかった。電源を入れたら、画面の向こうに見知らぬ自分が立っている気がした。怯える自分を見て、所詮お前なんかその程度だと笑われるような気がした。外ではきっと自分が出ていくのを何者かが待ち構えている。薄暗い外に出て視界の効かない霧のなかで、自分を食い物にしようと息を潜めている。
カチカチと何かが鳴った。自分の歯の根が噛み合わず、歯と歯がぶつかる音だった。
どれ位そうしていたのかわからない。突然玄関の扉が開いた。
「ただいまー」
孝介は驚いてソファーから飛び降りた。あわてて駆け寄ると、足立が扉に鍵を掛けているところだった。
「……お帰りなさい」
「お、たっだいまー」
三和土の足立はこちらを見上げて呑気に笑っている。霧の世界、無人の家のなかで、足立だけが妙に目立って見える。孝介は茫然と突っ立っていた。足立は何も言わない孝介を見て首をかしげ、「どしたの?」と呑気に訊いた。
「……足立さん一人ですか?」
「一人だよ。なんで?」
――なんでだろう。
誰かが自分を捕まえに来るのだと思っていた。大勢の人間が押し掛けてきて、有無を言わせずに連れていかれるのだと思っていた。そうでなければ永久に一人きりでここに居続ける羽目になるのだと、漠然と考えていた。
「君こそ、一人なの?」
ふと笑顔を収めて足立が訊いた。何故そんな当たり前のことを訊かれるのかわからなかったが、孝介はうなずいた。
「一人ですよ。……ずっと一人でした」
「そう」
足立は靴を脱ぎながら「僕もだよ」と呟いた。
「僕もずっと一人きりだった」
目の前に立って、真剣な顔でみつめてくる。
「……足立さんには、俺が居るじゃないですか」
「うん。そうだね」
そう言って小さく笑い、額を軽くぶつけられた。互いに抱き合い、腕のなかにちゃんと相手が居ることを確かめる。足立はここに居た。孝介もここに居る。
「君もだよ」
耳元で足立が囁いた。
「君にも、僕が居るよ。一人じゃないよ」
「……じゃあ二人きりだ」
「そうだね」
何故かおかしくて孝介は笑った。霧のなかをどうやって足立がここに辿り着けたのかはわからない。でも、もうそんなことはどうだっていい。一人だと思っていた世界に、足立が居てくれた。そして今も居てくれる。それで充分だった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
顔が近付いてくるのを見て、孝介は静かに目を閉じた。完全に目を閉じる寸前、足立の瞳の奥で暗闇が小さく笑っているのが、かすかに見えた。
ニュースを見ていると天気予報が始まった。予報では今日の霧は薄めだと言う。電車が遅れなければそれでいい。孝介はグラスのジュースを飲みながら考えた。
「そろそろ時間だろ」
「うん」
遼太郎の言葉に返事をしてジュースを飲み干した。グラスを置き、荷物を持って立ち上がる。
「悪いな、最後だってのに送ってやれなくて」
「いいよ。仕事でしょ? 気を付けてね」
靴を履く後ろに遼太郎が立っている。孝介は身支度を整えて振り返った。遼太郎は柱に片手をついてこちらを見下ろしていた。
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