「別に警察は辞めてもいいんだけどね」
 ある晩、足立はそんなことを言った。居間のソファーでダラダラというかイチャイチャしていた時だ。足立に膝枕をしてもらっていた孝介は、その言葉を聞いて飛び起きた。
「それは駄目です。絶対に駄目です」
「えー? なんでー?」
「いいですか。いくらドジやって左遷されたからといっても、一応あなたは国家試験を通った一級のキャリアなんですよ。そんな人が警察辞めて野に下ってなんの意味があるんですか? そんなもん、一般企業からしたらデカくて使えないお荷物でしかありません。雇ってもらえたとしても警備会社がいいとこですよ。一応剣道やってたから腕にはちょっと自信があるかも知れないですけど、ナイフ持った強盗が目の前に居たら立ち向かえますか?」
「う……努力はする」
「でしょ? そんなヘタレな警備員、盾にも使えませんよ。それだったら石に噛り付いてでも警察に残っててください。腐っても警察大学校卒業したキャリア様なんだから、冷や飯食いでもそれなりの恩恵はある筈です。そして俺を養ってください」
「く、腐ってないよ!? まだ賞味期限内だよ! っていうか君、結局は自分の将来が心配なだけでしょ!」
「当然です」
 足立は顔を両手で覆って泣き真似を始めた。その横に孝介は座り直し、テレビのリモコンを取り上げた。
「まぁ、万が一クビにでもなったら、俺が養ってあげますけど」
 言った側から後悔していた。こんな恥ずかしいこと、言うんじゃなかった。足立は泣き真似をやめていた。ちらりと横目で見ると、びっくりして固まっている。
「……やばい、かっこいい」
「知ってます」
「うわ、憎たらしい」
「足立さんよりマシです」
 襲われた。
 毎日一緒の布団で眠った。夜勤の時は仕方ないが、どんなに遅く帰ってきた時でも孝介は足立を出迎えた。無理しなくていいよと言われたが、他に大してしてあげられることもないし、正直この生活がいつまで続けられるのかもわからない。それならせめて顔が見たかった。一分でも一秒でも長く一緒に居たかった。
 今でも時折、足立は何かを考え込んでいる。でももう何を悩んでいるのかと聞き出すようなことはしない。足立は何かを抱えている。何かを抱えているということを孝介は知っている。孝介が知っているということを、足立も知っている。今はそれで充分だった。いつか話してもらえるなら、それまでに受け止められるだけの人間になっておこうと思う。
「早く大人になりたい」
 そう呟いた孝介を、風呂上がりの足立が無言で立たせた。向かい合い、互いの頭の上を見比べて言うには、
「もう身長は充分だからね」
「……足立さんも気を抜いて横に成長しないでね」
「注意します」
 幸せだった。陳腐だけど、他に言葉がみつからない。
 だから最初は何が起きたのか理解出来なかった。菜々子はまるで眠っているようにしか見えなかった。直視したくない現実ほど、有り得ないくらいリアルに感じられるのだと、この時初めて思い知った。
 確かに病状は思わしくなかった。一進一退を繰り返し、今日は顔色が少し良かったと思えば次の日には元に戻っている。原因もわからず、手の施しようがないと医者も言っていた。だけど菜々子は家に戻りたがっていたし、その為に頑張ると弱々しくも笑っていた。
 菜々子の顔色は青白さを通り越して紙のように白かった。さっきまでの苦しそうな息遣いも表情も全部消えている。だけど、手のなかにはまだ温もりが残っている。そんなことが起きる筈はない。
「……菜々子?」
 呟いた瞬間、病室に静寂が訪れた。顔を上げた孝介の目に留まったのは、電源を切られ、画面が真っ暗になる寸前の心電図モニターだった。あらゆる線が平坦になっていた。脈拍無し、心拍数無し、呼吸無し。静かになったと錯覚したのは、危険を知らせる単調な警告音が切られたからだ。
 呼吸無し。
 孝介の心も静かだった。眠ったように見える菜々子の表情と同じくらい決定的に止まっていた。誰かの怒鳴り声も泣き声も話し声も、何も耳に入らなかった。病室の隅で怯える生田目の顔を見た時には、既に孝介のなかで決まっていた。
 ――殺してやる。
 それは最初、小さな呟きだった。だが小さくとも確かに孝介自身の言葉だった。何故自分に影である「もう一人の自分」が現れないのか、初めて理由がわかった気がした。
 隠したい自分なんかどこにも居ない。今の孝介は欲望のままに生きている。
 病室の隅へと大股で踏み込み、悲鳴を無視して生田目の首根っこを掴む。どこにぶち当たろうがお構いなしに引っ張り出してテレビの前へ据え付けた。
 殺してやる。
 胸倉を掴んで引きずり上げ、後ろ頭をテレビに沈めた。同じことをした筈の殺人者は目の前でだらしなく暴れ続けた。みっともなく泣きわめくたびに、孝介の心は静かに固まり、ひとつのことしか考えられなくなっていった。
 殺してやる……!
 そうしてはいけない理由がみつからなかった。鼻先までを沈め、肩を突っ込み、テレビの枠にしがみつく両手を外して脚を抱え上げる。迷いはなかった。孝介にとってそれは既に決められたことだった。赤く染まった視界のなかで、静かに行われるべき儀式だった。
 これがお前への罰だ。恐怖に苛まれて目一杯苦しみながら死ねばいい。お前がどれだけ泣いて詫びても菜々子はもう生き返らない。
 殺されたんだから殺してやって何が悪い?
「やめてよ先輩!」
 引かれた腕を乱暴に払いのけた。複数の悲鳴が上がり、そこで初めて孝介は気が付いた。真っ赤だった視界が徐々に正常になっていくにつれて、部屋に居るのが自分一人ではないことがわかってきた。
 りせは床に倒れている。側には直斗がしゃがみ込み、目が合うとどういうわけかうつむいた。千枝と雪子は互いに抱き合い、恐怖の眼差しを投げかけている。
「…………なんでだよ」
 完二は迷う素振りで陽介を見た。こぶしを握り締めた陽介は、最後に止まった孝介の視線を受けてもたじろがなかった。孝介はすがる思いで親友を見続けた。
「お願い、やめて」
 雪子のか細い声が沈黙を破った。怒りと興奮で顔を上気させた陽介は、背後に居並ぶ仲間の姿をちらりと眺め、そうしてまた孝介を見た。口惜しそうに唇を噛み、しばらく考えたあと、ゆっくりと首を横に振る。
 味方はどこにも居なかった。
 脚を抱える腕から力が抜けた。生田目の体がずるずるとテレビから吐き出されてくる。床に落ちた生田目は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま再び床を這って逃げ出そうとした。孝介はその後ろ姿を茫然とみつめた。
 綺麗に止まった菜々子の寝顔。
 そうさせない為に自分たちが居たんじゃなかったのか。全てを終わらせたんじゃなかったのか。
 終わった筈なのに。
「なんでだよ!!!!!」
 孝介の咆哮に怯え、生田目は頭を抱えてうずくまった。その口から洩れるかすかな悲鳴以外、誰も何も答えなかった。


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