足立は笑いながら孝介を押さえ込み、後ろ頭にげんこつを押し付けてきた。しばらく二人で抱き合いながら笑って騒いだ。散々笑って、笑い疲れて息を整えて、足立の腕がやたら自然に自分を抱き締めていることに気が付いた時、孝介は驚いて顔を上げた。
その勢いにつられたのか、足立も同じように驚いて顔を上げ、自分が何をしているのかを悟りあわてて両手を離した。
しばらくどちらも動けなかった。すぐ側にある足立の顔をみつめ、こちらを見返す視線が恥ずかしくて目を落とすと、足立の片手が行き場を失くしていることに気が付いた。
孝介は迷って目を上げた。足立が不安そうにこちらを見ていた。うっとりと夢見るような瞳のなかで、本当に触れてもいいのかと迷っている。
大人でもこんな顔をするんだと思ったら、なんだか可笑しくなってきた。大丈夫だと答える代わりに、孝介はそろそろと顔を寄せていった。足立の指先が頬に触れた。もうさわられることに違和感は覚えなくなっていた。
「……綺麗だよ」
熱っぽい囁き声。孝介は困って微笑した。
足立は頬に手を置いたまま何かを考え込んでいた。瞳があちこちに揺れ、目線が重なると何かを決意するのに、またすぐ迷って逃げていく。
――何考えてるんだろ。
目の奥を覗き込もうと孝介は顔を寄せた。その時には互いが何を望んでいるのかわかっているような気がした。やがて足立がこちらを見た。見られたことにたじろいで視線を落とすと、いつの間にか足立の鼻先がすぐそこにあった。落とした目線を持ち上げるように、あごに当てられた指へとわずかに力が加えられた。抗うことは簡単な筈なのに、何故か孝介はそうしなかった。
唇が重なって、すぐに離れていく。
ほんの数センチ先にある足立の目を孝介は見上げた。あからさまにねだっているように見えなければいいけどと思いながら二度目の口付けを受けた。緊張で震えているのがわかった。生温かいものが唇を押し開くのに合わせて噛み締めていた歯を少しだけ開き、これでいいのかなと混乱しつつも同じように舌を差し出した。
舌先が絡み合った瞬間、言葉にならない悲鳴が洩れていた。足立の背広にしがみつき、背筋を駆け上がった快感の為に逃げ出しそうになる自分を、必死になって押さえつけた。足立は頬に触れていた手を孝介のうなじに差し込んだ。足立の熱が心地よかった。触れられているあいだ、それを一度も嫌だと感じなかった事実に、初めて孝介は思い至った。
唇が離れた。言葉もなく、孝介はただ震えていた。切れ切れに息を吐き、足立を見ようとした時、不意に強く抱き締められた。
背中を抱き返す腕が震えている。息をするのが難しかった。心臓がばくばく言っている。自分たちは何をしたのだと確かめたい気もしたけど、言葉にしたとたん、何故か冗談になってしまいそうで怖かった。
髪の毛を梳く足立の手の動きが孝介を落ち着かせてくれた。互いにギクシャクしながらゆっくりと身を起こし、最初のように座り直した。足立の腕が伸びて自然な手付きで頬に触れ、感触を楽しむように親指を滑らせていく。
「……ありがと」
もう会えないのだろうかと、最初に考えたのはそれだった。部屋に来てから三十分も経っていない筈なのに、これまでとはいろんなものが変わってしまった。なんだか信じられない気もするが、それは確かに二人のあいだで起こったのだ。
「えと――」
足立はふと我に返ったような顔付きで手を離した。がりがりと髪の毛を掻き、困ったようにこちらを見る。
「あの……また会ってもらえないかな」
「え……」
「やだ?」
奴の不安そうな視線で孝介は我に返った。大あわてで首を横に振った。
「よかった」
――なにそれ。
なに、その子供みたいな笑顔。
足立は、孝介がこれまで出会った大人の誰とも違っていた。曲がったままのネクタイ、あちこち好き放題に跳ねている髪の毛。だらしない口元。子供みたいな笑顔。綺麗なものが好きだと言い、綺麗なものにさわりたいと言う。その為には相手がどれだけ困惑しようともお構いっこなし。
なのに、どこか遠い。
なにこれ。なんなんだ、この人。
携帯番号を訊かれ、孝介はつっかえながら答えた。足立は番号を打ち込んで一度だけ孝介の携帯電話を鳴らした。
「今度電話するね。よかったらアパート遊びに来て。…………ちょっと、汚いけど」
「――はい」
足立が腰を上げるのにつられて孝介も立ち上がった。ドアを開ける手前で足立は立ち止まり、ためらいがちに振り返った。
手を伸ばされたのと、こちらが腕を伸ばすのと、ほぼ同時だった。足立は孝介の体を強く抱き締め、それまでの緊張を解くかのように大きく息を吐き出した。
そうして突然笑い出すので、孝介は驚いて顔を上げた。
「いやー…………なんだろなぁ」
力の抜けた笑い声だった。
「なんてーの? なんていうか……あれ?」
「……」
「僕ら、なんでこんなことになってんの?」
そんなの知るか。
「…………こっちの台詞です」
今なら全部冗談に出来る。ただ単に顔をさわられた、それだけだと互いに認識を改めて、終わりに出来る。足立がそうしたいのならそうすればいい。孝介は腕を下ろして棒立ちになり、半ば怒りと共にうつむいた。
沈黙があった。やがて足立の腕に力が込められ、拒絶されていないことを確かめるように、ゆっくりと抱き寄せられた。
「ごめん」
孝介は失意と共にその呟きを聞いた。この時間はなかったことにされるらしい。まぁ、それもそうか。足立の肩にあごを乗せて孝介は考える。それはそうだ、自分だって何が起きたのか、今に至ってもよく理解出来ていない。笑い話にもならないような些細なこととして忘れるのが、多分一番いい方法なのだ。
「謝ってもしょうがないのはわかってるんだけど、ごめん」
足立の言葉が喉の奥に引っ掛かるのがわかった。痛いほどに抱き締められ、苦しくなって離れようとした時、足立のかすれた声が囁いた。
「……君が好きだ」
息が止まった。
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