孝介も菜々子も共に一人っ子だ。そしてこの先、兄弟姉妹が増えるだろうとは露とも思っていなかった。だが五月三日、里中千枝に誘われて菜々子と一緒に出掛けて以来、孝介は「お兄ちゃん」と呼ばれるようになった。
言葉というのは不思議だ、と思う。菜々子に呼びかけられるたびに、それが少しずつ自分に馴染んでいくのがわかった。菜々子の向ける笑顔が以前よりもまっすぐ入ってくるようになった。言葉に出来ないほどの微妙な変化を日々感じている。それが嬉しくもあり、同時に恥ずかしい。文字で表すと「くすぐったい」。だがそれは喜ばしい部類の居心地の悪さだった。
孝介はにまにまと笑う口元を叩いて自分を戒めた。来週は中間テストだ。少し勉強でもしよう。
「……うわあ」
戸締りをしようと思ってふと居間を振り返ると、なにやら黒い物体がソファーに伸びているのをみつけてしまった。孝介は一瞬見ないフリをして二階へ上がってしまおうかと考えたが、それは既に無視出来る程度を超えていた。
いつの間に上がったのやら、もう一人の酔っ払い、足立透がソファーに大きく伸びてでかいイビキを立てている。
――帰ったんじゃなかったのか?
孝介は玄関へ行きかけて足を止めた。足立を追い返すのなら鍵はまだかけられない。だがあの様子では、たとえ起こしたところで無事に自宅へたどり着けるとも思えなかった。仕方なく孝介は玄関に鍵をかけ、二階の自室から毛布を取ってきた。
「足立さん」
ゆさゆさと肩を揺すると、足立はおかしなうなり声を上げてごろりと向こうを向いてしまった。
――なに、この駄目な大人。
子供の頃、警察官に憧れたことが実はある。駅の側の交番に立つ制服を着たおまわりさんは、やはり戦隊物のヒーローに次ぐ「かっこいい人」の象徴だった。孝介は今、自分の憧れがビシビシと音を立てて崩れていくのを実感していた。刑事と言っても所詮は人間。わかってはいるけれど、もう少し夢を見せてくれたっていいじゃないか。まだ十六歳の少年なんだから。
「足立さん、……いやもう寝ちゃうのはしょうがないですけど、とりあえず背広だけは脱ぎましょうよ。皺に」
「あーーーーっとぉ、誰かが呼んだぁ」
声に反応したのか、突然足立が起き上がった。しかし完全に寝ぼけているようだった。据わった目でこちらをじっとみつめたあと、誰と勘違いしたのか「アイちゃあ〜ん」と言っていきなり抱きついてきた。
「ちょ!? 放してくださいよ!」
「アイちゃ〜ん、おやすみのチュウーーーーー」
「――――――――!!!」
人間というのは本当に悲しい生き物だ。普段は誰よりも冷静だと評される孝介だが、やはり所詮は十六歳の若造ということだろうか、なんの罵倒の言葉も口にすることが出来なかった。毛布を握っていたせいで足立を突き飛ばすことも出来ず、いやそんなものは放り出してしまえばいいのだが、そんな簡単なことすら思い付かない。迫ってくる足立の顔を見たくもないのにみつめたまま、孝介は悲鳴さえ上げられずにいた。
頭のなかは真っ白だ。
がっぷりと噛みつくように口をふさがれた。――ここまでだったらまだ冗談に出来た。本音を言えば冗談などで誤魔化すようなことは微塵もしたくなかったが、酔っ払いが寝ぼけているという事実と「こいつら駄目人間」という孝介のなかで確立しつつあるレッテルを確実なものにすることでなんとか耐えられた。
しかし残念なことに舌が入ってきた。避ける暇もなかった。
――ちょっと待て!
逃げ遅れた舌を絡め捕られた瞬間、気絶しそうになった。なにが気絶って、これは孝介の記念すべきファーストキスだ。しかもディープキス。ファーストでディープである。気絶もしたくなる。
――ちょっと待て!!
しかも追い打ちをかけるかの如く、気持ちいい。
――ちょっと待ってお願いだから!!!
いつの間にかわけのわからないものに向かってお祈りを捧げていた。これまでの数分間をやり直せるならなんでもする、あるいは今すぐ俺を気絶させてくださいそして記憶喪失にしてください、本気で孝介は祈っていた。
げに恐ろしきは酔っ払いである。パニックからなんとか立ち直り、腕に絡む毛布を外して足立の背中と頭をガシガシ殴るまでの約一分間、孝介は存分にキスを堪能されていた。自分を誰かと勘違いしている故なのだろうが、離れようともがけばもがくほどに足立は腕の力を強めてくる。
どうにか腕をほどいて立ち上がった時、初めて足立は夢から醒めたような顔でこちらを見た。
「あれぇ?」
「……………………!!!」
怒りと動揺で言葉が出てこない。ひとまず、あれえ? じゃねぇだろと思ったが、口をついて出た言葉は、
「とっとと寝ろ!」
起こそうとしてた癖に。
足立はまだ半分夢のなかに居るかのような顔でこちらをぽかんとみつめている。その顔に毛布を叩きつけると、孝介は足音を立てて階段を駆け上がった。寝ている筈の菜々子や遼太郎に気遣う余裕などかけらもなかった。
自室に入った孝介は扉を閉め、ずるずるとその場に崩れ落ちた。そうして頭を抱えた。
――最悪だ。
記念すべきファーストキスだった。ファーストなのにディープだった。しかも相手はあの足立だ。これ以上の最悪条件は有り得ない。
――家に帰りたい。
稲羽市に引っ越してきて、初めて孝介はそう思った。
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