風に乗って煙が流れるのを、彼は飽きもせずに眺めている。
足立は煙草を指に挟んで持ち、そのまま唇をすぼめて細く煙を吐き出した。そうして流れる煙をそっと捕まえて彼の体をぐるりと回るよう悪戯すると、彼は「すごい、すごい」とまるで子供のように喜んでくれた。
「足立さん、なんでも出来るんですね」
「まぁ、大抵のことはね」
「でも歩き煙草は行儀が悪いと思いますよ」
「うわ、生意気な」
ちょっと可愛いとか思った自分がバカだった。足立はむくれながら煙草を放り出した。地面に落ちた煙草を歩くついでに踏み潰し、山道の先を目指す。
岩が朝日に照らされて、薄暗がりのなかにうっすらと影を落とし始めていた。足立は彼の手を引きながら空の端を眺めている。本当に、今日はおかしな日だ。今か今かと待ち侘びているのに、まだ太陽が姿を現さないなんて。
「足立さん」
腕を引かれて足を止めた。振り返ると彼はさっき踏み潰した吸殻を気にしているようだった。
まったく、君はどこまでいい子ちゃんなの。
「いいんだよ」
「よくないですよ」
「いいの。あれはね、目印なの」
そう言うと彼は不思議そうにこっちを見た。思わず笑ってしまう。
「あとから来る子に、ここだよって教えてるの。だからいいんだよ」
「――あとから来る子?」
「そう」
少しイライラしながら彼の手を引いた。再び歩き出しつつも、彼が疑問の眼差しを投げかけているのがよくわかった。足立は問い掛けを封じる為にひたすら歩いた。岩が作る影を踏みしめ、なんで早く夜が明けないんだと心のなかで八つ当たりをしながら。
「誰が来るんですか?」
煙草が吸いたい。
足を止めて背広のあちこちを探り、煙草を取り出して口にくわえた。ライターで火を付けようとするが、風が邪魔をするお陰でどうしても火が付けられない。とうとう彼の手を離して風に背を向け、炎を手で覆ってやっとのことで火を付けた。
肺の奥まで煙を吸い込む。中学の時に吸い始めて、二十歳の時にはやめられなくなっていた。多分肺のなかは真っ黒だろうが、まぁ関係ない。どうせもう――
「足立さん」
煙を吐き出した時、彼の手を離してしまっていることに気が付いた。既に彼の両手はポケットのなかに仕舞われており、腕を伸ばそうとするのに、何故か咎められた気分で動くことが出来なかった。
「誰が来るんですか」
彼が手を伸ばす。くわえた煙草を奪っていく。当たり前のように口にくわえると、実に美味そうに吸い込んだ。
「ねえ?」
――太陽が昇らない。
足立は地平線を睨み付けた。周囲の空がゆっくりと、本当にゆっくりと明るくなりつつある様をイライラしながら待ち続ける。陽が昇ってしまえばこっちのもんだ、――何故か足立はそう考えている。いつからそう思っていたのかは覚えていない。だけど、確かその筈だ。
絶対に。
「なに見てるんですか」
「――見ればわかるでしょ。日の出待ってるんだよ」
ずっと思ってた。いつか君に見せてあげたい。この高台からの風景、全部が見通せる一番高い場所。
「おかしなこと言うんですね」
苦笑する声が聞こえた。振り返ろうとした時、足元になにかが投げ出された。火が付いたままの煙草だった。ゆらゆらと頼りなく、か細い紫煙が立ち昇っている。消さなきゃ。目印だ。そうして足を上げようとした時、向かい側からの淡い光に照らされて煙草の影がうっすらと現れた。
太陽が、
「朝なんか来るわけないじゃないですか」
空にぽっかりと浮かんだ、まん丸の月を背後に、あの子が立っている。
「……」
言葉が出てこない。動くことも出来ない。
彼は検分するようにじっとこっちをみつめ、口の端を持ち上げて笑うと、音もなく消えた。足立はよろけるようにして二三歩歩き、また足を止めた。
月がぎろりと睨み付けてくる。風が吹いて突然山道が消えた。現れたのは誰も居ない高台で、居るのは自分と、……自分だけだ。誰も居ない。あちこちに吸殻が落ちていて、その全部がゆらゆらと煙を吐き出している。
目印。
――お前に希望は似合わないよ
そよ風のさなかで誰かの嘲笑が聞こえた。煙草は狼煙のように盛大に煙を吐き出すと全てがいっぺんに消えた。まるで最初からなにもなかったかのようだ。
事実なにもない。
「……っ」
足立は奥歯を噛み締める。ありったけの悪口をぶちまけたい衝動に駆られたが、ぶつける相手はどこにも居ない。こぶしを握り、自分の足を叩き、我慢出来なくて頭を殴りそのまま頭を抱えて地団駄を踏んだ。うめき声だけは自らに許して思いっきり地面を蹴り付け、そのままこぶしを叩き付けるようにして倒れ込んだ。地面を殴り付けて咆哮を上げ、やがて咆えることに疲れると、怒りのうちで笑いながら身を起こした。
空には真っ赤な月が浮かび、こっちを睨み付けている。同じように睨み返しながら立ち上がり、スーツについた埃を払った。
――笑うなら笑え。
好きに出来るのも今のうちだ。この世界を我が物顔で走り回るあのガキ共を始末したら、じっくりと時間をかけてお前も呑み込んでやる。そうだ、もう少しだ。もう少しで全部が終わる。あとちょっとで、
――あの子が来る。
呑み込んだ世界のなかで奴らが動くのがわかった。足立は右手で心臓の辺りを押さえつけて、落ち着け、と自分に言い聞かせていた。だが逸る思いは手の平の下で力強い鼓動となって表れていた。
会うのは何日振りだろう。最後にちゃんと話したのがいつだったのか、もうはっきりと思い出せない。だけどずっと待っていた。あの子だけを待ち望んでいた。邪魔者を始末したら、あの子と二人っきりで平和に暮らそう。事件は解決した。生田目が全部犠牲になってくれる。そうだ、いつだって悪いのはほかの奴らだ。俺はいつも自分が思うとおりにしただけなのに、なんでそれを責められなきゃいけないんだ。
空には真っ赤な月が浮かんでいる。
冷たい風が心地よかった。足立は両手に息を吹きかけて手の平をこすり合わせた。この手を握る彼の温もりを思い、抱きしめた時の感触を思い浮かべた。今日は寒いから鍋がいいかな。冷え切った頬を両手で押さえながらそんなことを考えている。そういえば彼の家に泊まりに行く約束をしていた。ずっと前から決めていたのに、結局まだ行けてない。
連絡しなきゃ。早く終わらせて電話するんだ。面倒なことは全部終わる。連絡して、どこかで待ち合わせて、買い物でもして一緒に帰ろう。ほら、もう月が昇ってる。間もなく夜がやって来る。
帰ろう。――足音に気付いて振り返った。高台の入口に子供たちが集まっている。先頭に立つ彼が、空の月を眺めていた。どこか懐かしそうな顔が無性に嬉しかった。足立はにへらと笑いかけていた。
――やっと来てくれた。
ずっと待ってたんだよ。いつから待ってたのか覚えてないくらいずっと前から、君が来るのを待っていた。でもおかしいな、なんで余計な奴らが一緒なのかな。いくら恥ずかしいからって、デートに友達連れてくることはないんじゃないの。付いてくる方も気が利かないよねえ。空気読めないにも程があるよ。
冷たい風が吹き付ける。吐く息が白くけぶり、孝介の口元をうっすらと隠してすぐに消えた。それは彼の存在を確かに伝える証拠だった。
足立は一歩、よろけるようにして歩いた。差し出しかけた手をあわてて止めて、誤魔化す為にこぶしを握った。この高台は世界のどん詰まりにある。ここから望んだ場所へ行く為には案内が必要だ。きっとあの子は道をひとつしか知らない筈だから、僕が案内してあげなくちゃ。
大丈夫だよ。すぐに終わる。
面倒なことはさっさと片付けて、一緒に帰ろう。誰も居ない町、二人だけの平和な世界に。
next
back
top