工具箱のなかには色々な物が収められていた。油で汚れたボロ雑巾、柄の長いドライバーと大きなレンチ、ニッパーやラジペン、かなづち、様々な大きさのネジと釘。
 そういえば菜々子が小学校に上がる前、遼太郎は時々この道具箱を持ち出して車の側で何かをしていた。近くに寄るといつもガソリンの匂いがしたのを覚えている。車のラジオを付けて一人で黙々と作業をこなす遼太郎は、どことなく楽しそうだった。最近はそんな顔を見ることもなくなってしまったが。
「あった。これだろ? 探してたヤツ」
 そう言って孝介が取り出したのは千枚通しだ。まさに求めていた品である。「ありがとう」と言って菜々子は上り框に座り込み、あらかじめ印を付けておいた二つの紙コップの底に穴を開けた。孝介に頼んで工具箱を仕舞ってもらい、居間に戻って毛糸を通した。コップの内側の毛糸をセロテープで留めて出来上がり。
「はい、お兄ちゃんの分」
 片方の紙コップを孝介に渡して菜々子は奥の部屋に向かった。糸がぶつからないよう少しだけ隙間を残して襖を閉め、「いーい?」と声を掛けた。
「いいよ。菜々子喋ってみて」
「うん」
 菜々子は紙コップを両手に持ち、糸が緩まないよう軽く引っ張りながら口を当てた。
「もしもし、菜々子です。聞こえますか?」
 ワクワクしながらコップを耳に当てる。少し待ったのちに、ぼんやりとした孝介の声らしき物が聞こえてきたが、はっきりと何を言っているのかはわからなかった。
「お兄ちゃん、聞こえる?」
 もう一度紙コップに向かって言い、返事を待つ。しばらくしたあと、やはりぼんやりとした声が伝わってきたものの、何を言っているのかは聞き取れなかった。
「菜々子」
 三度目に話し掛けようとした時、襖が開けられた。孝介は紙コップに繋がる毛糸を指先でつまみ上げ、
「毛糸じゃ駄目みたいだな」
「うん……」
 何がいけなかったのだろう。確か学校で作った時は裁縫をする時の細い糸を使った。ああいう糸じゃないと駄目なのかも知れない。
「タコ糸とかあるかも知れない。探してみよう」
「でも紙コップがもうないの。大きい穴開けちゃったけど、これでもできるかな?」
「……どうだろうな」
 さすがの孝介も首をひねっている。少し考え込んだあと、ふと目の前にしゃがみ込んできた。
「それじゃあ、一緒にジュネスに買いに行こうか」
「ジュネス!? 行く行く!」
 菜々子は喜び勇んで答えて部屋から飛び出した。「着替えてくるから待ってて」と孝介が立ち上がった時、不意に携帯電話が鳴り出した。画面を見た孝介の顔が一瞬強張るのを、菜々子は見逃さなかった。
「……もしもし」
 紙コップを菜々子に渡して孝介は背を向けた。ジュネスに行けると喜んだのも束の間、一瞬にして菜々子の胸の内に不安が広がった。
「いえ、今日は、その――」
 うつむきがちに声を聞く孝介の表情は暗い。菜々子は思わず孝介のズボンを掴んで引っ張っていた。
「菜々子だったら、いいよ。お買い物、今日じゃなくても」
 孝介はこっちを見下ろして笑いかけてくる。そうして大丈夫だよと言うように首を振り、頭を撫でてくれた。
「すみません。……はい、また」
 電話は終わってしまった。自分のせいで断ったのだろうか?
 ドキドキしながら言葉を待っていると、携帯電話を仕舞い込んだ孝介が振り返り、再度笑いかけてきた。
「じゃあ着替えてくる」
「……いいの? 用事じゃないの?」
「違うよ。大丈夫。――ついでに夕飯の買い物もしてこようか」
 そう言って歩き出した孝介のあとを、菜々子は追うことが出来なかった。返事がないのを不審に思ったのか、階段を昇ろうとしていた孝介は足を止めて振り返り、こっちを見て不思議そうに首をかしげた。
「菜々子?」
「……えっと、ジュネスじゃなくって、近くのお店だったら、すぐに帰ってこれるよね」
 そうしたら電話を掛けて、お兄ちゃんは出掛けられるよね。そう思いながら言ったのだが、孝介はますます不思議そうな顔をした。そうしてちょっと笑いながら反対側に首をかしげてみせた。
「お兄ちゃんはジュネスに行きたいと思うんだけど、菜々子は他の店がいいの?」
「……ううん。ジュネスがいい」
「じゃあ一緒に行こう。あそこなら道具も全部揃うと思うよ」
「――うん」
 やっと菜々子は安堵して紙コップをテーブルに置いた。そうしてコップを繋ぐ毛糸を眺めて、思い出した。この赤い毛糸は、昔母親が編んでくれたマフラーと同じ色だった。


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