困惑したような声に菜々子は振り向いた。
 夕飯を済ませ風呂が沸くのを待っている時、孝介の電話が鳴り出した。画面を見て孝介は一瞬だけ嬉しそうな顔をしたが、すぐにそれは戸惑いへと変わった。今も階段の側の暗がりでこっちに背を向け、抑えた声での話が続いている。
「いや、駄目じゃないですけど……」
 孝介は壁に寄り掛かり、片足だけを階段に乗せ、爪先で軽く隅の方をつついていた。こちらに聞かせまいとする静かな声は、なんとなく不安をあおられる。気にしないフリでテレビに目を戻したが、やっぱり我慢出来ずに菜々子は振り向いた。
 その時、電話の向こうからの声に耳を澄ませながら、孝介は静かに微笑んでいた。「なんでですか」と笑い返す顔に、もう戸惑いの色は見えない。
 ――誰とお話してるんだろ。
 大人の世界は、自分が想像も出来ないくらいに広くて複雑だ。
「わかりました。……はい、じゃあ」
 孝介が電話を切った。菜々子はあわててテレビに向き直った。見ていた筈の「魔女探偵ラブリーン」は、間もなくエンディングが終わろうとしていた。
「ごめん、菜々子」
 そう言いながら孝介は座り込んできた。携帯電話を握ったままこっちの顔を覗き込んでくる。極力平静を装いながら「なぁに?」と菜々子は訊いた。
「お兄ちゃん、ちょっと出掛けてくる」
「――うん、わかった。気を付けてね」
 大人というのは忙しい生き物なのだということを、菜々子は遼太郎から学びつつあった。自分よりもずっと大人の世界に近い孝介だ、こんなこともある。従兄は申し訳なさそうに「ごめんな」と繰り返して立ち上がった。
「遅くなったら先に寝てていいからね。あとお兄ちゃんが出たら、ちゃんと戸締りして」
「大丈夫だよ。お留守番、馴れてるもん」
 言った途端、孝介の顔に後悔の念が滲んだ。菜々子はあとを追いかけるようにして立ち上がり、
「お父さんもすぐに帰ってくるよ」
「……そうだね」
 見送りを兼ねて玄関まで一緒に歩いた。靴を履いて立ち上がった孝介は、もう一度振り返って「行ってきます」と笑いかけてきた。
「いってらっしゃい」
 同じく笑いながら手を振り、扉が閉められるのを見守った。そうして足音が消えたのを確認したあと、玄関に鍵を掛けた。
「お兄ちゃん、忙しいなぁ」
 わざと声に出してそう言った。
 ――誰だったんだろ。
「よし、お父さんが帰ってくる前にお風呂入っちゃおう。うん」
 わざと一人で声を上げた。そうしないと気付いてしまいそうだった。
 あの電話はお兄ちゃんにとってもお守りで、菜々子の知らない秘密が入っている。その秘密を、自分はすごく知りたがっているということに。


 暗がりのなかを駆け出してからすぐに孝介は走るのをやめた。あまり急いで行って、そんなに会いたかったのかと思われるのも癪だった。内装屋の脇の細道に入り込み、握りしめたままだった携帯電話をズボンのポケットに押し込んで、なるべく急ぎ過ぎないよう早足で歩いた。なのに、やっぱり知らないうちに駆け足になっている。
 細道を抜ける時、心臓がドクドクと大きく脈を打っていることに気が付いた。孝介はあわてて足を止めて呼吸を整えた。
 ――なんなんだよ。
 いくらなんでもはしゃぎ過ぎだ。足立に会うってだけじゃないか。何がそんなに嬉しいんだ。
 しかし次の瞬間には、そんな風に自分を叱りつけたことも忘れて駆け出している。道路を渡り、道を曲がって、どこかの飼い犬に吠えられても足は止まらない。二階建てのアパート、青い扉。孝介が思い描くのはそれだけだ。
 外灯のぼんやりとした光のなかに見覚えのある外階段をみつけて、やっと孝介は走るのをやめた。息を整えながら、ゆっくりと錆び付いた階段を上がる。ここは比較的駅に近い場所だが、道を何本か奥に入っている為か、車の通る音は聞こえなかった。呼び鈴を鳴らそうとした時、一度背後を自転車が通り過ぎただけだった。
「はーい」
 外にも聞こえるベルに続いて、すぐに足立の声が飛んでくる。なんだかあわてたような声だった。扉から離れて待っていると、鍵を外して扉が開けられ、下はジャージ、そして何故か上半身裸の足立が現れた。
「や、どぉも。早かったね」
 言いながら足立は両腕に掛けたトレーナーを頭からすっぽりとかぶった。襟から顔を出して頭を振り、いつものだらしない顔でにへらと笑う。
「さっき帰ってきたばっかりだったんだ。――ま、入って」
 足立はそう言って孝介の腕を掴み、狭い玄関のなかへと引き入れた。そうして身を乗り出して扉を閉め、鍵を掛けた。
 すぐ側にある横顔をなんとなく眺めていると、足立はそのまま扉に片手を付いて振り向いた。目が合った瞬間に腕を引かれ、身構える隙もなく唇が重ねられ、すぐに離れていってしまう。
「外じゃキス出来ないからね」
「……っ」
 見上げた瞳がからかうように笑っている。顔を覗き込まれる恥ずかしさに耐えられなくて、孝介はうつむいた。
「映画二本借りてきたんだ。どっち観たい?」
 足立は何もなかったかのように明るく言って再度腕を引いた。孝介はあわてて靴を脱ぎ、あとに従って歩き出した。腕から離れた手がそのまま下がって手を握ってくる。その動作がまるで当たり前のようになされるのが、なんだかおかしかった。


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