「あいつら、『ジュネスの関係者』の話が聞きたいんだってよ。お前だったらピッタリだろ」
なんだか今日はやけにしつこかった。確か吉岡は五月いっぱいでバイトを辞めることになっている。その引継ぎの為に少しずつバイトの日数は減っているが、元からさほど金に困っている様子もなかった。多分陽介が素直にうなずかないので意地になっているのだろう。
吉岡が辞めるという話を聞いて、どれだけ安心した顔になったバイト仲間が居るのか教えてやりたくなった。それと同時に実感した。
俺も多分あんな風だったんだ。前の学校で今も連絡を取り合っている奴なんか殆ど居ない。二年に上がってからは一度も連絡などない。俺はあっちの学校では既に存在しなかったことになっている。誰もが日常のなかで先輩を忘れたように、いやもっと軽々と俺のことを忘れている。むしろせいせいしたと笑われていたに違いない。
俺の「お願い」なんかこんな程度のものだった。俺の「ありがとう」なんかに意味はなかった。あんたは俺だ。みっともない、過去の俺だ。
なかなか首を縦に振らない陽介に焦れたのか、吉岡が突然腕を掴んできた。
「な、来いよ。ちょっと話するだけだって。適当でいいんだよ。なんか派手な噂話教えるだけで金が貰えんだぜ」
「――だって、どんなこと話すんすか」
「小西の男関係のことが知りたいんだってさ。ホラあいつ、去年家出したろ? あの時のこととかさ」
いつもみたいに話せばいいんだよ。お前ら、楽しそうに笑ってたじゃねぇか。誰かがバカだとか、あいつ使えねぇとか、誰かが言えばみんなでうなずいてさ、おかしそうに笑ってただろ。
意味も考えずに。どんな事実があるのか知ろうともせずに。
「……いや、ちっと勘弁してください」
「なんでだよ」
「林に頼んでくださいよ。俺じゃなくたっていいじゃないすか」
「だからお前じゃなきゃ意味ねえっつってんだろ? お前、店長の息子なんだし」
「俺だって好きで生まれたわけじゃないっすよ!」
意図せず強い口調になっていた。廊下を通りがかった生徒が驚いたように足を止めた。陽介はハッとして吉岡を見た。奴は口元をひきつらせながらこっちを見ていた。気まずくなった陽介はなるべくそっと腕を引き、「すんませんけど」と呟いた。吉岡は腕を放してくれたが、目の前から動こうとはしなかった。
「なにお前、もしかして小西のこと好きだったとか?」
舐めるような視線から思わず目をそらせていた。
「……んなわけねぇっしょ」
「だよなあ。あいつ援交してたとか噂あるしなぁ」
……みっともねえ。
「去年の家出の話知ってるか? ついてったの、大学生の男だぜ」
浅ましい。
「な、そういうこと話しゃいいんだよ。適当に話しとけばあいつらが勝手に盛り上げて記事書くんだからさ。別に俺だって金の為にやるんじゃないんだ、これは人助けなんだよ。わかるだろ?」
「…………いいですよ」
きっと満面の笑みだった筈だ。だから吉岡も勘違いして嬉しそうに笑ったのだ。でも奴には聞こえていなかったらしい。陽介が言った言葉の最初、「『どうでも』いいですよ」の部分が。
気が付くと吉岡の横顔を殴り飛ばしていた。すぐに女子生徒の甲高い悲鳴が聞こえた。試験が終わってさほど時間が経っていなかった為、廊下には結構な人数の生徒が居た。悲鳴は連鎖反応のように次々と広がり、騒ぎを聞きつけた野次馬たちの歓声と指笛が更に混じり合い、一瞬で混乱の極みへと達した。
「花村!?」
「ちょっと、あんた何やってんの!」
後ろから押さえつける腕を払いのけ、廊下に倒れた吉岡にのしかかり殴り付けた。再び腕を押さえつけられた時、吉岡の蹴りが脇腹に入った。
「ふざけんじゃねえぞ!」
「花村、落ち着けよ!」
「てめえに何がわかるってんだよ、ああ!?」
「花村!」
――なんでだよ。
羽交い絞めにしようとする孝介の腕を無理矢理に払い、吉岡を追った。腰を浮かせて逃げようとしていた吉岡の制服を掴み、力任せに引っ張って更に殴った。バランスを崩して吉岡ともども壁にぶつかりながら倒れ込んだ時、周囲の囃し立てる声が耳に飛び込んできた。
――なんで俺じゃなかったんだ。
よろけながらも起き上がり、吉岡の胸倉を掴んで同じように起き上がらせた。
「ああ!? 言ってみろよ、てめえが何知ってるっつうんだよ!!」
「花村!」
闇雲に繰り出された吉岡の拳が左目に当たり、激しい熱さと共に視界の半分が真っ赤に染まった。だが気が付くと奴も鼻血を出していた。わけもわからず殴り続けた。何を怒鳴っているのか自分でもわからなかった。言葉になんの意味もなかった。拳の痛みにも気付かなかった。いつの間にか数人の教師に取り囲まれ、無残にも力ずくで押さえ込まれながら陽介は咆えた。
――俺が死ぬべきだったのに。
言葉になんの意味もなかった。
――死ななきゃいけないのは俺だったのに。
たったひとつの意識に支配されていた。後悔だ。初めて早紀が居ないのだと実感した。
保健室で治療を受けた後、別々の部屋で事情を聞かれた。先に手を出したことは認めた。それ以外のことは一切喋らなかった。だが吉岡が白状したらしい。途中からやって来た教師に雑誌記者のことを尋ねられ、無理矢理に連れて行かれそうになったので断ったのだと話したとたん、風向きが変わったようだ。
担任の諸岡は謹慎だ、停学だと騒いでいたが、結局は反省文を書かされるだけで放免となった。教師のひそひそ話を耳にしたところ、むしろヤバそうなのは吉岡の方らしいが、そんなのは陽介の知ったこっちゃない。
迎えに来た母親が深々と頭を下げるのは、本当に嫌な光景だった。
夜、父親が話をしに来た。知り合いだった故人をバカにされて腹が立ったのだと、それだけを言った。やり方はともかく、お前は間違っていないと父親は言ってくれた。
『早く怪我治せよ。そんな顔じゃ店に出られないだろ』
あんたはこんな時でも店長なのかと半ば呆れたが、それは父親なりの優しさだったようにも思う。
左目の上の切り傷、その部分の大きな腫れ。右手の痛み。脇腹のアザ。側頭部のコブ。首の鈍痛。主立った負傷部分はそれくらいだろうか。しばらく洗顔には苦労しそうだ。
母親は風呂上がりの息子の顔に絆創膏と大きな湿布を貼り付けたあと、バカ息子はとっとと寝なさいと、わざわざ湿布の上を叩いて部屋へ送り出してくれた。いってぇなと文句が洩れた口で「ごめん」とひと言謝った。
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