部屋へ戻るとメールが届いていた。
『あんた大丈夫だった? 喧嘩してるとこなんて初めて見たからビックリしたよ。でも結構いいパンチ決まってたね。ちょっと見直した』
千枝のメールにはそれから延々と、参考になるカンフー映画の題名が載せられていた。
『花村くん、怪我は大丈夫? 骨とか折れてない? もしよかったら湯治でうちに泊まりに来てくれていいからね』
やはり雪子はどこかずれている。
『明日は肉じゃが』
孝介が弁当を作ってくれるらしい。思わず笑ってしまった。その瞬間、何故か脳裏に「もう居ないんだ」という言葉が思い浮かんだ。
あの人はもう居ない。先輩は死んだ。
不意に涙があふれてこらえきれなくなった。嗚咽を押し殺してひたすら泣いた。悲しいとか口惜しいとか、そんなことを考えている暇はなかった。体が泣くことを要求していた。どこにこれほどの気持ちがあったんだと驚くほど泣き続けた。それまでずれていた何かが、ようやくピッタリと嵌った感じだった。
忙しさにかまけて見ようとしていなかったもの。残された丸テーブルにみつけようとしていたもの。それがなんだったのか、やっとわかった気がした。早紀が居なくなってから初めての涙だった。
ふと泣き疲れて携帯を見ると、孝介からまたメールが届いていた。題名は「ごめん」。
『肉じゃが、失敗したかも』
泣きながら吹き出した。
翌日のバイトは裏方作業に回された。腫れで左目がよく開かないこともあり、レジには出ない方がいいだろうとの配慮だった。本音を言えば何日か休みたかったのだが、前日のうちに吉岡が辞めてしまった為、無理を言うことは出来なかった。
売り場では喧嘩の噂が広まっているようだった。どうやら吉岡があれやこれやと言い触らしていったらしい。だがバイト仲間のうちで陽介は好意的に迎えられた。吉岡の態度に辟易している人間が多かったのは事実のようだ。
何人かは詳しい話を聞きたがったが、許せないことを言われたので我慢出来ずに殴ったとだけ答えておいた。彼らはもっと派手な話を期待していたようだ。だがそれ以上の事実はないので話しようがなかった。
これは誰の為にしたことでもない。自分の為にやったことだ。
「あれえ? どしたの、男前になっちゃってぇ」
野菜売り場でキャベツを並べていると突然声を掛けられた。手を止めて顔を上げると、ジャージ姿の足立が買い物カゴを提げて突っ立っていた。
「……またサボりっすか」
「残念でした、今日は非番でーす」
やたら偉そうに胸を張る姿がひたすら鬱陶しい。よかったっすねと呟いて陽介は作業に戻った。
「ねねね、ジュネスってさ、『雨の日サービス』みたいのってやってないの?」
「なんすか、それ」
「雨が降ったらお惣菜が十パーセント引き、みたいなヤツ。ホラ、クリーニング屋さんでよくあるじゃない」
「あるわけねぇっしょ。っつか、そんなんでいちいち値引きしてたら、あっという間にジュネス潰れますよ」
「じゃあ『霧の日サービス』作らない?」
言いながら足立はキャベツを物色している。陽介は思わず手を止めた。
「霧なんか出ない方がいいんじゃないんですか」
「へ?」
何を言われたのかわからないという表情で足立が振り向いた。陽介の真剣な顔を見て、やっと言葉の意味を理解したようだ。
「……あ、あぁ。ねえ。そうだよねぇ」
ひとつため息をついたあと、よさげなキャベツを選んで差し出した。
「これ、美味いっすよ」
「ホント!?」
「ここにあるなかで一番状態のいいヤツです。美味く食ってやってください」
「ありがとー」
足立はキャベツをカゴに放り込んでホクホク顔だ。このあとお菓子を見に行くという足立の背中に、陽介は声を掛けた。
「明日はちゃんと働いてくださいよ」
「君に言われなくたって、ちゃんとやってるよ」
「働いてくださいね」
「いや、やってるってば」
棚の向こうに姿が消えるのを見送ったあと、陽介はキャベツの残りを並べ、段ボールを畳んだ。台車を押してフロアの裏側へと回る。壁際には棚に並べられるのを待つばかりの野菜たちが、段ボールに入れられて陽介を待っていた。売り場の様子を思い浮かべながら必要な商品を台車に載せる。そして再びフロアへ。
野菜を並べるだけといっても、適当に出来ることじゃない。バラバラに置くだけではすぐに崩れてしまう。ひとつひとつバランスを考え、大きさと鮮度を考慮して重ねていかなければならない。
一見単純でどうでもいいようなことが、実は重要なのだ。
派手な喧嘩をしたからって、それで何が残るわけでもない。吉岡は予定を無視して勝手に辞めてしまった。傷の痛みは昨日以上にひどくなっている。
『私、ずっと花ちゃんのこと、ウザいと思ってた』
あの頃の自分は、中身のない張りぼてを一生懸命に守っていた。見てくれさえ良ければあとはどうでもいいと思ってた。指で弾けば簡単に崩れてしまう薄っぺらな鎧。そんな物がなんの役に立つ?
みんなはすぐに見抜いていた。すぐに見抜ける程度の物しか俺にはなかった。でもこれからは違う。一段ずつしっかりと土台を築いていくように、じっくりと俺自身になっていこう。情けないけど、俺はまだガキだ。自分が何を感じているのかもわからないで人に当たり散らして、それで気が晴れるかと思えば、残った痛みに顔をしかめる始末だ。だらしねえ。
俺はあいつらを面倒事に巻き込んだ。責任を取るというのであれば、まずは全部を終わらせることだ。
それから、あいつらは俺が守る。
どんなことがあっても俺が盾になる。どこまで出来るのかじゃない、絶対に守り切る。それが出来て初めて俺はあいつらと一緒に居る資格がある。
品出しを終えた陽介は周囲の売り場を回り、崩れかけていたオレンジの山を整え始めた。ひとつひとつは小さくても、きちんと積んでいけばどこまでも高い所へ行ける。派手じゃなくていい、誰の目にも付かなくていい、誰にでも出来る当たり前のことをまずは出来るようになろう。当たり前の、たった一人の「俺」になろう。
「頑張ろうぜ」
陽介は小さく語りかけながら、山のてっぺんにオレンジを置いた。
どうでもいいですよ/2012.10.10
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