足立は特に残念がるでもなく、また息を吹きかけてコーヒーを飲んだ。そうしてうっすらと立ち昇る湯気でアゴの辺りを温めながら、ぼんやりと無人のフードコートへと視線を投げた。つられて目を向けた陽介は、特定の席を無意識のうちに探してしまう自分に苛立ち、わざとうつむいて鉄板の隅を睨み付けた。
 早紀と最後に話したあの日、彼女が座っていたテーブルは今、冷たい雨に濡れている。
「……捜査、進んでないんすか」
「え? ああ、まぁね」
 ごにょごにょと何かを言ったようだがよく聞こえなかった。そのまま足立はコーヒーを飲み干すと、空の入れ物をカウンターに置き、「御馳走様」と言ってにっかりと笑った。
「仕事行くよ。じゃね」
「……毎度」
 店舗の前に短く突き出している庇の下を通って足立は階段へ向かう。その姿が消えたのを確かめたあと、ゴミ箱へ入れられなかった空の容器を指で弾き飛ばし、陽介は何度目になるのかわからないため息をついた。
 警察に期待するのは間違いだとわかっているが、それでも苛立ちは抑えられない。
 これまで殺人事件などというものが身近で起きたことなんて一度もなかった。祖父母は父方母方共に健在だ。近所で誰かが死んだという話を聞いても、会ったことのない爺さんだったりどこかのおばさんだったりで、つまり当たり前のように死は遠い存在だった。
 山野アナの死体がみつかったという話を聞いた時は、すっげぇことが近くで起こってるんだとしか思わなかった。誰かが死んでも、それは別世界の出来事だった。あの時面白がって笑っていた自分をぶん殴ってやりたい。きっと山野真由美にも、自分と同じように悲しんだり憤ったりしている誰かが居る筈だ。そんな程度のことも想像出来なかったなんて、本当にバカすぎる。
 陽介はコーラを飲み干したあと、弾き飛ばしたゴミを拾おうと店から出た。相変わらずフードコートに人の姿はない。ゴールデンウィークだといっても今日は平日だし、この天気だし、きっともう客は来ないだろう。店を閉めていいか主任に訊いてみよう。そう思って店舗へ戻りかけた時、
「はなむらー。今日はフードコートおしまいだってよ」
 階段へ続く扉から吉岡の姿が現れた。陽介は笑顔が気後れしたものになるのを感じながらもうなずき、「わかりました」と言って、持っていたカップをゴミ箱に押し込んだ。
「うわ、まだすっげぇ降ってんだな」
 庇の下を小走りに吉岡がやって来る。そうして陽介が何も言わないうちに店舗のなかへ入り、店の前を照らす照明のスイッチを切ってしまった。店舗内部にはまだ明かりが残っているし、座席付近を照らす照明も点いたままなのに、一気に周囲が暗くなったように見えた。気付かないうちに夜が迫っていたのかも知れない。
 そのまま吉岡は機材のスイッチを切ったりゴミをまとめたりと、手早く撤収作業を始めている。
「俺、ゴミ箱見てきます」
「ん、頼んだ」
 ゴミ袋を渡してもらって陽介はフードコートを回った。天候が幸いしてゴミは殆ど溜まっておらず、目に付く大きなものだけ拾い上げて袋にまとめた。
「こんな天気じゃ、客来なかったんじゃねぇの?」
 店に戻ると、吉岡はレジの精算をしているところだった。レシートをまとめ、釣銭の額を帳簿に書き込んでいる。
「さっきまで居ましたよ」
「マジで?」
 どんな物好きだよという台詞には、笑っただけで答えなかった。食器を片付け、タオルを洗って漂白し、イスをまとめ、戸締りを確認する。その間、吉岡はずっと小銭をケースに詰めていた。その作業を横目で見ながら、ってか俺一人で閉められるんだけどなと、ぼんやり思った。
 吉岡は八十神高校の先輩だ。ジュネスの開店と同時にバイトを始めたのが何故か自慢らしく、後輩のバイト連中に「困ったことがあったら俺に言え」と決まりごとのように言い聞かせている。
 早紀を介して知り合い、他のバイト仲間数人と何度か飯を食いに行った。良く言えば親分気質で、話をしている分には楽しいが、残念ながら口で言うほど頼りになるわけではなかった。自分の限度を超えた頼みごとをあっさりと引き受け、半分以上人に振っておきながら、どういうわけか「やってやった」という態度を取る。
 多分今も、閉店作業で大変な後輩を手伝ってやっているつもりなのだろうが、陽介からしてみれば体よくサボりに来たとしか思えなかった。鉄板の火を落とした段階であらかた片付けは済んでいる。だがそう言って仕事を取り上げるのも面倒なので、黙って自分の作業をこなすことにした。
「店の方どうですか? 客入ってます?」
「いや、まだすっかすか。――そうだ、花村って五日空いてるか?」
 嫌な予感がした。
「夕方からバイト入ってますけど」
「その前ってなんか予定ある?」
「いえ、特には……」
「じゃあさ、林の代わりに朝から入れない? あいつバイトあるの忘れてて友達と予定入れちゃったんだってよ。バカだよな」
 麻袋に釣銭と売上金を入れ、それを更に店舗の名前が入ったビニールバッグに仕舞いながら吉岡は笑う。陽介は内心でため息をつき、どうしようかと迷ったが、結局引き受けることにした。正直今はこの男とあまり話をしたくない。断る面倒を考えたら、素直に引き受けて終わらせる方が簡単だ。金にもなる。
「いいっすよ」
「マジで!? 助かるわ、ありがとな」
 吉岡はまるで自分のことのように喜んだ。
 林というのは陽介と同じ青果売り場担当の同級生だ。昨日会った時は何も言ってなかったけどなとちらりと思ったが、バイト同士で日程を調整するのはよくあることだし、あまり深く考えなかった。
 店を閉めたあとのフードコートは無人になる。一応ジュネスが開店しているあいだは客席の照明も点けておくが、既に薄闇が迫りつつあるこんな雨の日に、屋上へ出るような物好きは居ないだろう。
 従業員用の裏階段へと通じる扉を開け、念の為にと振り返った時、一瞬で目が例の丸テーブルを捉えていた。
 忘れようと何度も思うのに、思えば思うほど意識がそっちに向いてしまう。もう居ないということはわかっているつもりだ。それでも居ないことを何度も見ていちいち確認しなければいけないのが何故なのか、陽介にはわからない。


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