「……お父さん、川のこと、なにか言ってた?」
咄嗟に上手い返事が思い付かず、孝介は口ごもってしまう。菜々子はあきらめの表情でうつむいた。
「お父さん、忘れちゃったのかな、お母さんのこと……。お母さんの話、ぜんぜんしてくれないし」
菜々子はベンチの縁をつかんで一度交互に足を揺らした。素足に履かれたピンク色の靴は、汚れのせいで鮮やかさを失い、夜の闇に吸い込まれてしまいそうに見えた。
「きっとお父さん、お母さんを忘れちゃったんだ。しゃしんも、なくなってた。きっとすてたんだ……」
きゅ、と唇を噛み締め、縁を何度も握り直している。孝介は掛けてやる言葉がなにも思い付かなかった。少しの沈黙のあと、菜々子の弱々しい声が聞こえてきた。
「……お父さん……菜々子もすてるのかな……」
「そんなわけないだろ」
だが菜々子はうつむいたままだった。自分の膝の辺りをみつめたまま、言葉もなくなにかに耐えている。孝介は小さな肩を抱き寄せた。菜々子はまた足をぶらぶらと揺らし始めた。だがそれは長くは続かなかった。ベンチの縁から手を離して両手をこぶしに握り締め、一度居心地が悪そうに両肩を持ち上げると不意に力を抜いた。
そうしてもたれかかってくる温もりを感じながら、俺になにが出来るんだろうと孝介は考えていた。遼太郎を責めれば済む問題ではない。だけど、こんな小さな子がこんなところでたった一人きりで色々なことに耐えているなんて、あまりに理不尽だ。「そんなの、俺は見過ごせねぇ……」
「……帰る」
ぎこちない動作で体を起こすと、菜々子は呟いた。それからゆっくりとこちらに振り返った。
「いっしょに帰ろ」
涙をこらえる瞳に、孝介はうなずき返した。同時にベンチから立ち上がり、どちらからともなく差し出した手を握り合って、ゆっくりと暗い夜道を歩き出す。一度うつむいて涙を拭ったようだが、「お前の意見が聞きたい」孝介は見ないフリをした。
菜々子の手は、温かかった。
「お前はどうする、月森」
孝介は声に気付いて顔を上げた。陽介が怒りをギリギリのところで押しとどめたまま、じっとこちらをみつめている。それは睨んでいると形容してもいいくらいの強い眼差しだった。その目を見た時、やっと孝介は自分が居る場所がどこなのかを思い出していた。
生田目の病室。
今ここに居る全員が、なにかを決断しようとしている。
同じように孝介も友人を睨み返した。そうしてゆっくりと目を動かしてほかの仲間たちを見回した。
二人の周囲には特捜隊のメンバーが立ち尽くし、自分の答えを、固唾を呑んで待ち続けている。千枝と雪子とりせは不安そうに、あるいは困惑した顔で。完二は怒りに顔をひきつらせ、直斗は用心深く生田目の様子をうかがいながら。
目が合った瞬間、千枝がなにかを言いかけた。だが場の空気に気圧されて言葉は舌に載らないまま消えていった。そのまま、泣きそうな顔で両手を握りしめるのを確かめたあと、孝介は再び友人に向いた。
「なに勝手に話進めてんだ」
孝介の言葉に、陽介は怪訝そうに片眉を上げた。
「だから今訊いてんだろ。お前はどうすんだよ」
まだなにも答えていないのに、完二が一歩、生田目の側に寄った。気配に気付いたのか、床にうずくまる生田目は怯えて身を引いたが、後ろは壁で少しも下がることは出来なかった。孝介はその様子を目の端で捉えながら小さく笑った。
「テレビに入れるだけで仇取ったつもりか。……お前は優しいんだな」
「んだと……!」
「先輩!」
完二の声がこぶしを握りしめた陽介を止めた。
「内輪揉めしてる場合じゃねっすよ」
「早くしないと警官が戻ってきます」
直斗の冷静な声に落ち着きを取り戻したようだ、陽介は再び厳しい表情でこちらを睨み付けてきた。
「どういう意味だよ」
「俺はそんな程度でこいつを許してやる気はないって言ってんだ」
そう言って孝介は生田目を指差した。
「やるなら徹底的にやってやる、生きたまま切り刻んで手足もいで目玉抉ってそれでも死なせないようにギリギリのところでジワジワいたぶり続けてやる、いっそ死んだ方がマシだと思っても簡単には死なせてやらねぇぞ、何日も何週間でも、必要なら何年間でも――」
「お前……」
「当たり前だろ、なんでそんな程度で満足出来るんだよ! こいつは」
あの子の手は、あの日と同じように温かかった。
「……こいつが菜々子殺したんだぞ……!」
温かかった手は、もう動かない。
菜々子は死んだ。
陽介は気まずそうに視線をそらせた。怒鳴り声に驚いたのか、生田目が小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。
自分の言葉を聞いて、初めて怒りを抱えていたのだと気が付いた。自分よりも幼い命が消える筈などないとどこかで信じていた、それが目の前で呆気なく覆され、しばし茫然としていたようだ。孝介はあらぬ方向へ目をやり、だがどこを向いても見知った顔があることに耐えきれなくて床を睨み付けた。
「先輩……」
りせの気遣うような呟きが背後で聞こえた。誰もなにも言わなかった。呼吸を落ち着かせたあと、孝介は目を上げて友人に視線を据えた。
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