『お父さんは菜々子より、わるいひととかみんなとかが、だいじなんでしょ!?』
 家を飛び出す前、菜々子が吐き捨てた言葉だ。同年代の子供に比べれば必要以上に辛抱強い彼女が口にした言葉は、文句や悪口ではなかった。それは菜々子の目に見えている父親の姿だった。
 「ほんと」の子供じゃないから。
 そうじゃない、そんなことはない――言って聞かせるだけで満足するというのなら、何百回でも言ってあげた。それで安心出来るというならいくらでも。でも駄目だ。菜々子が欲しいのは言葉なんかじゃない。
 自分にはあげられないもの。あの人しか持っていないもの。
 この町のどこかに隠れている不安の塊を、唯一慰めることの出来るもの。
「孝介!」
 鮫川に架かる大きな橋を過ぎたところで後ろから呼び止められた。見ると遼太郎が息を切らせながら駆け寄ってくるところだった。
「どうだ、居たか?」
 孝介は首を振る。遼太郎は大きく舌打ちを洩らすと足早に歩き始めた。孝介はあわててそのあとを追った。
「どこ行ったんだ……」
 ――鮫川の思い出。
 遼太郎と、今は居ない叔母「……なんで、生きてるのはあいつの方なの?」と、菜々子が共有する思い出。
 叔父さん、と呼びかけようとした時、遼太郎が突然ある方向を見据えて足を止めた。視線の先には空地を均した広場があり、そこにぽつんと建つ東屋があった。
 東屋のベンチに、白っぽい人影がある。
「……菜々子」
 孝介は驚いて歩みを進めた。確かに菜々子だった。ベンチに腰を下ろし、ぶらぶらと所在無さげに足をぶらつかせている。孝介は叔父に振り返った。遼太郎は暗がりのなかの娘をみつめたまま動こうとしない。
「叔父さん」
 孝介が声を掛けると、遼太郎はためらいながら振り向いた。
「……お前が行ってやってくれないか」
「でも――」
「本当の父親じゃない、か」
 そう言って、苦笑するように口元を歪ませた。
「頼む、孝介。迎えに行ってやってくれ。……お前の言うことの方が、あいつも素直に聞くだろう」
 そんなことはない、と言いたかった。だが家を飛び出していった時の様子を思えば、確かに自分が行く方がいいのかも知れない。
 菜々子がみつかった今、遼太郎にも心を安らげる時が必要だ。
「わかった」
 硬い表情でうなずいた。遼太郎も同じように表情を硬くしたまま、小さく頭を下げてくる。
「すまんな。……俺は菜々子が無事なら、それでいい」
 そう言って遼太郎は、再び暗がりの菜々子をじっと「このままでいいとか悪いとか……そういう問題じゃないじゃん」みつめた。そうしてなにかを振り切るように顔をそむけると、背を向けて歩き出した。
 叔父の姿が遠くに消えた頃、ようやく孝介は東屋に向かって歩き出した。足音に気付いた菜々子が怯えたように顔を上げた。
「お兄ちゃん……」
 立っているのが自分だとわかってホッとしたようにも、悲しんでいるようにも見えた。孝介は笑顔を見せながら菜々子の脇に腰を下ろした。
「うちに帰ろう」
「……うん」
 しかし菜々子は腰を上げようとしない。足元を見下ろしてじっと押し黙ってしまう。
 孝介は顔を上げて辺りを見渡した。結局すれ違う人は一人も居なかった。「こんな機会、もう二度と巡ってこない」こんな淋しいところに、一体いつまで居続ける気だったのか。
「よくここまで来れたね。怖くなかった?」
「橋のとこまでは、つうがくろだもん。へいきだよ」
「でもお父さんがみつけてくれなかったら、多分お兄ちゃんじゃわからなかったな」
 そう言うと、菜々子は驚いたように顔を上げた。
「菜々子のこと、さがしてくれたんだ……」
「当たり前だろ」
 菜々子の笑顔は途中で止まってしまった。一度目を伏せたあと、すがるようにまたこちらをみつめてくる。


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