行き止まりにぶち当たるたびに岩を抜けた。向こうとこちら側との行き来は自由のようだった。二つほど岩を抜けた辺りで足立は歩き疲れて休憩した。その頃にはもう化け物から逃げなくなっていた。奴らは側へ寄ってもなにもしてこなかったし、むしろ嬉しそうに近寄ってきた。それに、どこへ行っても奴らが居る。逃げるのはいい加減飽き飽きだ。
 アスファルトに腰を下ろし、壁に寄り掛かって煙草を取り出した。火を付けて吸い込み、煙を吐く。ここに来てからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。腕時計を見たが針は止まっていた。足立は腕時計を外すとためらいもなく壁のなかへ押し込んだ。大学へ入学する頃、父親が買ってくれたものだった。ずっと使っていたのは思い入れがあったからじゃない、ただ単に壊れなかったからだ。
「あーあ」
 アスファルトに寝転んで赤黒い空を見上げた。煙草をくわえて組み合わせた両手の上に頭を載せる。雲は動く気配を見せない。物音も一切聞こえない。
 静かだ。
 ――なんでばれちゃったかなあ。
 灰を叩き落として考えた。
 そもそも病院で奴らに会った時から嫌な予感はしていたのだ。それでも生田目の搬送は終わっていたし、今更妙なことも言い出さないだろうと安心していたのに、まさかあんな小さな失敗をしつこく覚えていやがるとは。
「クソガキ」
 ごろりと横になった足立は、白鐘の澄ました顔を思い出していた。あいつは一時期行方不明になった人物を詳しく調べるべきだと、捜査の会議でしつこく主張していた。久保美津雄が逮捕されたあとも、それが模倣殺人である可能性を声高に言い続けた。
 お陰で生田目が逮捕されたじゃない。なんでそれで満足しなかったのよ。
 やれやれとため息を吐き出して煙草を消した。なんだかここで吸う煙草は旨くない。そういえば喉が渇いたり腹が減ったりすることもないようだった。もしかしたら本当は感じているのかも知れないが、その感覚はどこかに消えていた。体のなかからあらゆるものが消えて、かすかすの張りぼてになってしまったような気がする。
 まあ、ある意味当たってるけど。
 足立は体を起こしてテープが張られた出入口をみつめた。立ち上がって手を掛けるとテープを破って道路の先を眺める。ちょうどいいことに、霧のなかを丸っこい奴が飛んでいた。ふわふわと漂いながらこちらに振り向いた時、試しにおいでおいでと手を振ってみた。化け物は喜びを示すかのようにほそっこい両手を上げ、ゆらゆらと漂いながら近くへやって来た。
 手を伸ばして小さな体に触れた。向こうも小さな手で顔にぺたぺたとさわってくる。まるで子猫がじゃれついてくるかのようだ。足立は苦笑を洩らして化け物を腕に抱いた。化け物は少し驚いたようだが、おとなしく腕のなかに抱かれていた。
 そうして壁に寄り掛かると再び座り込んだ。腹に当てるようにして化け物を抱きしめ、またため息をつく。
 ――だから言ったんだ。
 君がぬいぐるみだったら良かったのに。そうしたらどこにでも一緒に行けた。なんで僕が今こんなところでこんな化け物抱いて満足しなきゃいけないと思ってんの? 君のせいだからね?
 君にあんな力があったから。
 ――違う、と足立は首を振る。そうじゃない。原因はそんなことじゃない。考えるまでもない、そもそも始めたのは自分だ。
 自分があの二人をテレビに落とした。それがきっかけだった。だから足立は孝介に出会った。君に出会ったから好きになった。
 最初から君を騙していた。一生騙し続けるつもりだった。君の側に居られるならなんでもした。こうなってしまった今でも、もし戻れるなら君の隣に戻りたい。
 誰よりもなによりも一緒の時間を過ごしたい。君を自分だけのものに。
 もう無理だけど。
「……っ」
 化け物を胸に抱いたまま足立は髪の毛を掻きむしった。涙はようやくのことでこらえた。今更遅い。全部遅い。後悔するのはもう飽きた。今はやるべきことをするだけだ。
 顔を上げてテープの破れた出入口を見る。
 ――行かなきゃ。
 そう思ったけれど、もう少しだけ休んでいくことにした。立ち上がる気力を掻き集めるには時間が必要だった。なに、焦ることはない――足立は自分に言い聞かせる。どうせここからは出られないんだ。焦る必要はない……。
 いつの間にか眠っていたようだ。胸に抱いた化け物がじたばたと暴れるのに気付いて足立は目を開けた。
「なに。どしたの」
 化け物はある一点をみつめてきゅうきゅうと鳴いている。足立はその箇所を同じようにみつめた。壁に取り囲まれた四角い空間、その壁と壁がぶつかる角のところに、突然目が現れた。
 ぎょっとしてみつめていると、やがて目はなにかに押し出されるかのように突出してずるりと壁を抜けた。それにつられるようにして腕が現れ、足が現れる。最初はうっすらとしかなかった輪郭がはっきりして、それは人の体となった。
 寝癖だらけの髪の毛、曲がったネクタイ、よれよれのスーツ。――見覚えのある顔。
 足立は化け物を抱いたまま腰を上げた。腕のなかの化け物は逃げ出したいようだったが、同じくらい逃げ出したかったので必死になって押さえつけていた。
「戻ってこいよ」
 そいつは言った。最初化け物に向かってそう言っているのだと思い、足立は身を引いて化け物を押さえ込んだ。
「この子返して欲しかったら、愛家の回鍋肉定食持ってきなよ」
 足立の言葉を聞くと、そいつはバカにするように鼻で笑った。同じ顔であっても笑われると腹が立つものだ。ムッとして睨み返した。


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