そいつは脇をちらりと見た。次の瞬間、見覚えのある食器が四角い盆に載って現れ、いい匂いが漂ってきた。と、同じようなものが次から次へと現れ山積みになる。いつの間にか見上げるほど高く積まれていた。
「腹なんか減ってないだろ?」
声に気付いて振り返ると、呆れたような顔でこちらを見ていた。足立はあわてて我に返った。
「こ……こんなに食べられるわけないでしょ!?」
叫んだ瞬間、全てが消えた。もったいない、と思わないでもなかったが、事実腹は減っていなかった。そいつはズボンのポケットに両手を突っ込むと「戻ってこいよ」と繰り返した。
「……僕に言ってんの?」
「ほかに誰が居るんだ」
「……どこに戻れってのさ」
そいつは片手を出すと、無言で自分の胸を指差した。
足立は思わず鼻で笑ってしまった。
「君、なに? 僕とおんなじ顔してるけど、もしかして頭かわいそうな人?」
「俺がかわいそうなら、お前もかわいそうなんだな」
そう思いたいのならそれでもいいんじゃないのかと言ってそいつは笑った。笑う合間に顔の輪郭がぼやけ、黒くドロドロとしたものに変わり、そこにぽっかりと二つの穴が現れた。
なんにもない目で、じっとこちらをみつめてくる。
「覚えてるだろ」
足立は一歩後ろに下がった。だがすぐ壁に背中がぶつかってしまった。腕のなかで化け物がきゅうきゅうと騒いでいる。頼むからおとなしくしててくれ、足立は心の底から願う、そうでないとこっちにまで恐怖が伝染してきそうだ。
「まさか忘れてないよな」
「……忘れてないよ」
答えて唾を飲み込んだ。だが目はそらせてしまった。じっと見ていると吸い込まれそうになる。
なんにもない、穴蔵の目。
「あのさ」
話をそらそう。咄嗟にそう思った。まともに相手をしちゃいけない。そうでないと、あの目を見たいという欲求に逆らえない。
「ここ、なんなの? テレビのなかってのは知ってるんだけど、なんでこんな廃墟なのかな」
「……」
「あと、この道、どこまで続いてるのかな? 僕行かなきゃいけないんだけど、ホラ、全体のどの辺りに居るのかわかると嬉しいんだけど」
「……」
「……答えてよ」
ちらりと目を上げる。そいつは出した手をポケットに戻していた。
「ここはお前だ」
突き放すようにそいつは言った。
「ここが廃墟なのはお前のなかがカラッポだからだ」
「……安っぽい台詞だね」
「自分の才能の無さを恨め」
そうしてくつくつと喉の奥で笑う。
「ここはお前だ」
そいつは繰り返した。
「お前の望んだ世界。お前自身。……なんとでも好きに思えばいい。それで、どこに行こうってんだ? どこに行ったってお前があるだけだぞ」
「……そんなの、あんたに関係ないだろ」
「戻ってこい」
優しく諭すような声。足立は頑として目をそむけ続けた。
「意地を張ったってどうしようもないだろ。ここにはお前しか居ないんだ」
「あんたが居るだろ」
「そうだ。俺と、お前だけだ。……なあ、戻ってこいよ。また一緒に楽しくやろう」
「……わけわかんないんだけど」
「戻ってこい」
「うるさい!」
意を決して睨み付けた。奴は困ったように肩をすくめるだけだった。
「この姿が気に食わないのか? こっちの方がいいのかな?」
不意に全身の輪郭がぶれたかと思うと、黒っぽい姿が現れた。ステッチ入りの見覚えのある制服。
「足立さん」
聞き覚えのある声。
「戻ってきてください。……こんなところで、どこ行こうって言うんですか」
馴染みのある喋り方。足立はきつく目を閉じた。壁に寄り掛かって化け物を抱きしめながらもう一方の腕で頭を抱える。違う、これは幻覚だ、こんなところに孝介が居る筈はない、あんな顔で心配するなんて有り得ない。だけど頭でどれだけ否定しようとも、その声を渇望していた事実からは逃れられない。
「……なんだよ、やめろよ」
「足立さん」
目を閉じていても、彼がどんな表情を浮かべているのかがわかる。あの心配するような声は幾度も聞いた。夏から秋にかけて何度も問い掛けられた。
「どうしたんですか」
そう、そんな風に。
「やめろよ……っ」
近付いてくる気配。不意に、頬に手が触れた。足立は驚いてその手を振り払った。目を開けると孝介が振り払われた手を押さえ、茫然と突っ立っていた。
「あ……いや、あの……」
頭が混乱する。いつか、本当にこんなことがあった気がした。あの傷付いた表情には見覚えがある、そう、確か九月の終わり頃だ。最悪だった夏。どん底に居た自分。
「……足立さん」
孝介は気丈にも笑ってみせた。
next
back
top