――布?
「おわぁ!」
 それが布でないことに気付いた瞬間、足立は背中の痛みも忘れて飛び退いた。布だと思っていたのはアメーバ状の生き物だった。ドロドロとした全体の中心部分がゆっくりと持ち上がり、そこにある赤い二つの穴ぼこがじっと足立を見据えると、だらしなく伸びた細い腕でもってアスファルトの上をじりじりと這いずり始めた。
 足立はあわてて立ち上がると方向も確かめずに駆け出した。霧ではっきりしないながらも前方に再び四つ辻を認めた時、今度は別の物体を発見した。
 こっちは丸っこい形状のもので、やはり細い腕と真っ赤な二つの穴ぼこが開いている。それは辺りの霧にまぎれるようにふわふわと宙に浮いていた。
「……飛んでるし」
 やだ、なにあれ、きもい。
 まるで気体が抜けかかっているキャラクターものの風船のようだ。足立は道の両端を囲む壁にぴたりと体をくっつけ、風船のなり損ないの行方を見守った。
 しばらく観察を続けた結果、それはひとつの地点で緩い円を描くように飛び続けていることがわかった。足立は壁の片側に寄り、化け物が逆側へ遠ざかった時を狙って脇を駆け抜けた。そうやって何度か化け物と遭遇するたびに、タイミングをうかがっては逃げ続けた。
 そうしてたどり着いた先はあろうことか行き止まりだった。道路の行く手を大きな岩が塞いでいる。うげ、と思ったのはすぐ側に化け物が浮いているせいであり、しかもそいつが何故か嬉しそうに近寄ってきたせいだ。
 足立は化け物の姿を目に捉えたままじりじりと後退した。しかし後ろには大きな岩。目の前には風船の化け物。進退窮まるってこういうことか、と妙な納得をしながら更に後ろへ下がった。背後へ伸ばした手が岩に触れた。嫌だ最悪、と思った時、足立はなにかに蹴躓いてバランスを崩した。
 背後にある岩へ倒れかかったのに、足立はなににもぶつからなかった。ずるりと体が粘着質の膜を抜ける感覚があり、そのままどこかへと落ちていった。
「――あだっ!」
 本日二度目の着地。しかも背中から。
「せ……背骨折れるっての」
 呟きながら足立は体を起こした。今度は下敷きになってくれる奇特な化け物は居なかったようだ。壁に寄り掛かりながら立ち上がる。そうして周囲を見回した。
 そこは壁に囲まれた四角い空間で、足立は角のひとつに向かって立っていた。角の左右の壁に出入口があり、その口を塞ぐように見馴れたものが幾重にも張られている。
 黄色地のテープに黒で「CAUTION」と「DANGER」の文字。
「あー……」
 寝癖だらけの髪の毛を掻きむしる。背中を押さえながら右側へ行った。テープの隙間からのぞくと、その向こうに道は続いているようだった。霧が漂っている為に視界は悪いが、そのなかに例の化け物がふわふわと浮かんでいるのもわかった。多分左側も同じだろう。
 ――やれやれ。
 ひとつため息をつくと、足立は自分が現れた大きな岩の下へと戻った。
 壁に支えられた大岩はその中心に穴が開いていた。指でつつくと、薄い粘膜のようなものを感じる。色は赤黒く、まるで腐乱しつつある肉のような色だった。
 しばらく思い悩んだあとで覚悟を決めた。段になった岩に足を掛けて穴のなかへ顔を突っ込んだ。膜をすり抜けた向こう側に似たような色の空が現れる。霧のなかを浮いていた化け物がちょうどこちらに振り返り、足立の姿をみつけると嬉しそうに両手を上げて、ふわふわと頼りなく浮かびながら側へ寄ってこようとした。
 足立は穴から顔を抜いた。こちら側もやはり気色の悪い黒と赤の空だ。炎は大きさが変わっていない。
 ふと周囲を取り囲む壁に目をやった。壁と言ってもそれは建造物とは呼べないような代物だった。コンクリートを地面へ広げたあと、そこに適当なものをあれこれ放り込んだように見えた。
 壁には様々なものが埋まっていた。多いのは道路標識だ。折れ曲がった支柱はあちこち白いペンキが剥げており、なかの鉄パイプが剥き出しになっていた。ずいぶん長いあいだ野晒しになっていたようで、支柱にも一緒に埋まっている鉄筋にも錆が浮いていた。
 壁の前をゆっくりと歩いていた足立は見覚えのある写真を目にして足を止めた。何故か愛読していた拳銃の雑誌が埋まっている。コンクリートにうずもれたページの端を爪で引っ掻いたが、残念ながら表紙がめくれることはなかった。この壁にもやはり立ち入り禁止のテープが一緒に埋まっていた。
 埋蔵品の観察に飽きると、壁の切れ目から顔を覗かせて遠くを眺めた。燃え上がる炎を背景にぽつりぽつりとビルが建っているのが見えた。こちらに向けて窓が開いているようだが、明かりはひとつも見えなかった。それどころか崩れかかっているビルもある。
 顔を抜いて壁にもたれ、ポケットに両手を突っ込んでため息をつく。
 違和感の原因がようやくわかった。予想はしていたが、やはり自分以外の人間は居ないようだった。もっとも、こんな場所でほかの誰かに出会ったらそっちの方が驚いてしまう。
 ここはテレビのなかだ。今誰かと出会うとしたら、あのガキ共以外には有り得ない。
 足立は壁に寄り掛かったままスーツのあちこちを探った。幸いにして煙草はみつかった。なかの一本を取り出して火を付け、あらためてため息をつくように深く煙を吐き出した。
 その最中でみつけたものがもうひとつだけある。
 灰を叩き落としながら背広の内側へ手を入れると、握り馴れたそれが指に触れた。ケースから引き抜いてグリップを握る。まるで何年間も握り続けたかのように、グリップの形は手の平に馴染んだ。
 三十八口径のリボルバー式拳銃。確認すると弾は一発だけ入っている。
 ――さて。
 煙草を吸い込んで考える。さてさて。だが足立は煙草を吸うあいだに拳銃を戻してしまった。これの使い道はあとで考えよう。弾が一発だけというのが、なにかを示唆しているようで気に食わない。
 煙草を吸い終えたあと、足元に落とそうとしてふと思いとどまった。壁に振り返り、火が付いたままのそれを押し付ける。
 壁はなんの抵抗もなく煙草を呑み込んでくれた。
「はは、便利だね」
 アパートの壁もこんなんだったら片付けが楽だったのに。そう思った次の瞬間、もうそんなことを心配しなくてもいいのだと気が付いた。片付けるべき部屋は捨ててきた。今更、どこへ帰れというのか。
『足立さん!』
 孝介の叫び声が耳の奥でこだました。足立は聞こえない振りをして目をつむり、小さく首を振る。
 ――行かなきゃ。
 どこからともなく湧き上がる義務感に従い、足立は立ち入り禁止のテープの前へ立った。手を掛けて下に引くと、それは呆気なく破れた。こちらとあちらに留まっていた霧が互いにぶつかり合い、混じり合う。もつれ合うようにして自由を得た霧のなかを足立は歩き出した。どこかに向かって。


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