真っ白な空間に次から次へと現れる四角い枠を足立はどんどん抜けていく。
最初空間に放り出された時はすぐに底へたどり着くんだろうと漠然と思っていた。だけど予想以上に滞空時間は長く、しまいには底なんてないんじゃないか、このまま延々落ち続けることになるんじゃないか、っていうか今更どっかに落ちたところで絶対無事じゃないよね? だってこれ結構長く飛んでるし、こんだけ勢いあったら普通地面にぶつかってぺしゃんこになるでしょ、あぁ嫌だ、僕痛いの嫌いなんだけどなぁ、そう思った時、真っ白だった空間が闇に包まれ更に闇が薄れて天蓋が現れた。
どろどろと黒い雲が重く垂れ込めた空。
それが、足立が初めて目にしたテレビのなかの光景だった。
空だ、と呆気にとられながら足立は思った。僕、どこから入ったんだっけ? 飛行機から放り出されたわけじゃあるまいし、なんで空?
足立は落ちながらなんとか顔を下に向けようとする。不思議なことに風圧はさほど感じない。見ると、はるか下方に町が広がっている。靄で周囲は隠されてしまっているが、道路らしきものと建物らしきものが目に飛び込んできた。だけど、なにかがおかしい。なんだろうと思っていると、視界の隅に一羽の鳥が現れた。真っ黒なカラスだ。そこへ仲間がやって来た。二羽、三羽、どこからともなく姿を現し、先頭の一羽が進む方へ方向を同じくして飛び始める。
十羽、二十羽。
それはあっという間に巨大な集団となった。それでもまだどこからか後続のカラスがやって来て集団に加わり続けている。奴らが集まっている部分はまるで空に開いた真っ黒な穴のようだった。空中を移動する大きな穴。足立が宙を落ちながらじたばたと暴れ始めたのは、その穴が自分に向かって飛んできていることに気付いたからだ。
「ちょ……」
ちょっと待って、と言って手を伸ばしたところで聞き入れてはもらえなさそうだった。どんどんと大きくなる穴は巨体を伸ばして足立を呑み込もうとしている。恐怖に駆られた足立は身を縮め、両腕で頭をかばうように抱え込んだ。次の瞬間、真っ黒な穴が全身を包み込んだ。
想像していたような痛みや衝撃は全くなかった。下から吹き上げていた風が弱まって、代わりに右から左へとなにかが滑らかにすべっている。
足立は恐る恐る顔を上げた。目の前は真っ暗だった。しかし視界を覆っているものがひと塊の物体ではなく、大量に密集している小さな生き物なのだと理解出来たのは、真っ暗ななかに時折わずかな光が射し込むせいだった。
生き物が互いにぶつかり跳ね飛ばされ、あちこち移動を繰り返している為に、穴には隙間が出来ていた。その隙間もすぐに別の生き物が埋めてしまい、だがそのお陰でまた小さな隙間が出来る。やがて隙間の幅が広がっていったかと思うと、真っ黒な集団は目の前を過ぎ去っていた。足立はなにが起こったのか理解出来ず、ただ左右の腕と腕のあいだの狭い空間に取り残された、真っ黒な一匹の蝶をみつめていた。
蝶々?
頭を抱えていた腕をほどいて片手を伸ばした。蝶は足立の手の周囲で遊ぶように飛び回り、やがて人差し指の上に止まり羽を休めた。一二度ゆっくりと羽を広げては閉じるという行動を繰り返したあと、蝶はぱったりと動きを止めてしまった。
落ちながら足立は笑った。おいおい、なに優雅に休んでるんだよ、僕今地面に向かって落ちてる最中なんだけど?
再び下方から風が吹き付けてくる。落下は続いているのだと思い出した瞬間、人差し指がぴくりと痙攣するみたいに動いた。その振動を合図に蝶は休憩を終わらせることにしたらしい。艶やかな羽を広げるとふわりと宙に舞い上がり、一度の羽ばたきで姿を消した。
まるで手品のように蝶は消えてしまった。
「なんだよ」
蝶が飛んでいた辺りへ手を伸ばしながら呟いた。もうそこにはなにもない。足立は虚空をつかんで目を閉じた。ちぇ、こんな終わり方なんてホント、ついてないよなあ。
閉じた視界の周囲が徐々に赤く染まっていく。太陽に照らされた明るさではなく、もっと暴力的な赤さだ。なんとなく恐ろしくなって目を開けた。
視界に映し出されたのは燃え上がる大きな炎だった。なにが燃えているのか勢いは衰えることを知らず、空を焦がさんばかりに背を伸ばしている。
あちこちから上がる火の手が足立を出迎えてくれた。ようこそ、そう言って手招きをするように大きく炎が揺れた。その時背中がなにかにぶつかり、足立はテレビの底へとたどり着いた。
ぴぎゃ、というか、むぎゅ、というか、とにかく変な声が聞こえた。小さな動物が上げるような甲高い悲鳴だ。足立は背中を打ち付けた痛みでしばらく起き上がることが出来なかったから、その悲鳴がどこから聞こえてきたのか探す気にはなれなかった。動物のことなんか気にしている場合じゃない、背中、っていうか、マジで痛いんだけど。
足立は痛みに顔をしかめつつ腕を伸ばす。手の平がざらついたアスファルトに触れた。どこか怪我でもしたんじゃないかと恐る恐る体を起こす。なんとか起き上がることが出来た。両膝を付いて上体を伸ばし、背中の痛む箇所を片手で押さえながら、足立は自分の落下した周辺を見回した。
「……なに、ここ」
足立が居るのは四つ辻のど真ん中だった。前方と右側に道は伸びているが、どこまで続いているのかここからでは見当もつかなかった。周囲は薄い霧が漂って視界を遮ってしまっているし、とにかく暗い。
空を見ると相変わらず真っ黒な雲が重々しく垂れ込めており、その裾を焦がすように大きな炎が揺れていた。燃えている個所はここから見ると遠くのようだ。あちこちから火の手が上がっている為に、雲そのものが燃えているようにも見えた。
足元でなにかがもぞもぞと動くのに気付き、足立は視線を下に向けた。どうやら落ちてきた時それを下敷きにしてしまったようだ。そのお陰で大けがをせずに済んだらしい。
足元にあるのは黒い物体だった。アスファルトの上に黒っぽい布のようなものが広がっており、その一部分が風に吹かれ、ぱたりぱたりと腕でも動かすように揺れていた。なんだろうと思って手を触れようとした時、なんの前触れもなく布が鳴いた。
ぴぎゅ。
足立は伸ばしかけていた手を引っ込めた。布はもう一度、なにかを訴えるかのようにか細い声で鳴いた。
きゅう。
そうしてまた、布の一部分がぱたりぱたりとアスファルトを叩く。まるで生き物のようだ。なんか、こんなおもちゃがあった気がする。空気を入れて膨らませて、お腹を押すとこんな感じの声で鳴き声を上げるのだ。そう考えた時、布の別の部分が動いて足立を見た。
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