ずっと我慢していたのだけれど、スラックスを脱いでネクタイに手をかけようとしたところで限界が来た。足立は真っ赤になってその場にしゃがみ込んだ。
「どうしたんですか?」
「……ごめん。ホントにごめん」
 ものすごくおかしい人になるけど許して。そう言ったあと、足立はソファーに顔をうずめてうーうーうなり声を上げ始めた。
「……どうしたんですか」
「だって……!!!」
 ――ヤバい。
 今、マジで顔が上げられない。
 これは恥ずかしい。嬉し過ぎて恥ずかし過ぎる。だってなんなの、この新婚さん。いやもうマジで。これ新婚夫婦以外の何物でもないでしょ。ちょ、ヤバいって。
 家に明かりが付いてて部屋のなかはあったかくて、晩御飯が出来てて帰り待ち侘びててくれる人が居るってただそれだけなのに。
 思う存分うなり続けたあと、ようやく足立は気を取り直した。なんとか恥ずかしさに馴れようと努めた、の方が近いかも知れないが。孝介は頑張って笑顔を作り続ける足立の努力など全く気付かない様子で、「なんか、その笑顔、怖いです」と素っ気ない感想をくれただけだった。
 おでんにはロールキャベツがゴロゴロ入っていた。ずいぶん煮込んだようで、ちくわも玉子も大根もかなり味が染みている。
「一日くらい寝かせると、もっと美味くなりそうですけどね」
「いやー、このままでも充分美味しいよぉ。あー幸せー」
 ほかにも幾つか小鉢が並んでいる。買ってきたのかと聞いたら、ホウレンソウのおひたしだけは自分で作ったと教えてくれた。
「ちょっとずつなんですけど、料理するようにはしてるんですよ。覚えといて損はないし」
「そうだねー。馴れってのは大事だよね」
「……今度キャベツ鍋やってみようかな」
「いいんじゃない? あれは料理って言うか、ただ煮込むだけだけど」
 基本キャベツと土鍋だけで出来てしまう、最高に簡単な料理だ。調味料もいらない。孝介は鍋の中身をすくいながら、ちらりとこっちを見た。
「足立さん、食べに来てくれます?」
「勿論!」
「じゃあ今度はそれで」
 そう言って孝介は嬉しそうに笑った。
 食後の一服の最中、孝介は早々片付けに入っている。煙草を吸い終えた足立は台所に行って孝介の手から食器洗いのスポンジを奪い取った。
「洗い物ぐらいはやるよ。君、向こう行ってな」
「でも……」
「っていうか、お願いだからなんかさせて。なんか部屋が広くて落ち着かないの」
「なんですか、それ」
 じゃあお風呂沸かしてきますと言って孝介は奥へ消えた。その後ろ姿を眺めながら足立は、一緒に暮らしたらこんな感じなのかな、とちょっと考えたがあわてて否定した。いやいやいや、落ち着け自分。相手はまだ高校生だから。ね?
 だがその高校生が、十歳以上も年下の子が、自分なんかを好きだと言ってくれているのだ。
 ――あー、なんか、
 懺悔するのにちょうどいいかも。
 などと考えて、足立はおかしさに気付き、苦笑した。
 ――なーんて、ね。
 そんなこと、出来るわけがない。もし真実を話したら、孝介の顔から一瞬にして笑顔が消えるだろう。そこには狼狽と驚愕が順々に現れ、そして最後には軽蔑が残る。怒りと憎しみが向けられる。それを受け止める勇気は、残念ながら自分にはない。
 ずるいのは承知の上だが、今の状態なら上手くいくのではないだろうか、と足立は思っていた。生田目は逮捕されたが立件するにはかなり難しい。心身の消耗が激しく、まともに調書すら取れない状態だ。このままなら証拠不十分で不起訴になる可能性が高い。第一、テレビに入れて殺しました、なんて、どうやって証明するっていうんだ? 誰かを放り込んで、死体が挙がるのを待つか? まさか。
 そうだ、このままいけば大丈夫だ。――足立は胸のなかで繰り返す。数人の誘拐でなんらかの罪に問われるかも知れないが、それだって殺人に比べれば全然マシな筈だ。
 大丈夫。きっと上手くいく。
「……」
 だが一抹の不安が足立の手を止めた。
 ――あーあ。
 ってことは、なにか? 僕は一生あの子を騙し続けなきゃいけないわけか。まぁそれは今もそうなのだが、この先何十年も続くのだと考えると、確かに気は重い。
 でもま、しょうがないよね。足立は思い直して土鍋のフタを持ち上げた。最初からわかってたことだよ、うん、今更今更。まぁこのままだったら生田目さんも釈放されるかも知れないし、死んじゃったあの二人はちょっと可哀そうかも知れないけど、でもホラ、僕の幸せの為の礎になれたと思えば浮かばれるよね、きっと。所詮あいつら、その程度の生き物だったわけだし――。
 足音に気付いて振り返った。孝介が風呂場から出てきつつなにかを言いかけ、足立の顔を見た瞬間、不意に怯えたように立ちすくんだ。
「ん? どしたの?」
 足立は洗い物を続けながら訊いた。孝介は声をかけられて我に返ったのか、ぎこちなく笑顔を作ると首を振った。
「なんでもないです。――お風呂、二十分くらいで沸きますから」
 脳内にお花畑を広げていた足立は、なんだろうと一瞬疑問に思ったが、すぐに忘れてしまった。


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