この病室は菜々子が入っている特別室とは違い、普通に窓があって外の景色を眺めることが出来た。今日は残念ながらどんよりと曇った空が稲羽市全体を覆っている。そのせいか、いつも以上に早い日暮れを迎えそうだった。
「――そうだ。叔父さん、ありがとね」
 不意に思い出して孝介は言った。
「なんだ、急に」
「足立さんにさ」
 菜々子がまだテレビのなかに居る時、足立が声を掛けてくれた。それはいいやり方ではなかったのかも知れないが、結果的には支えになってくれた。
『堂島さんから気にしてやってくれって個人的に頼まれちゃったしさ』
 だがその話を聞いた遼太郎は、「なんのことだ?」と不思議そうな顔をしてみせた。
「だからさ、俺に飯食わせろって言ってくれたんでしょ?」
「俺が? 足立に?」
『あのね、僕だって君なんかの面倒見たくないよ』
「……違うの?」
 遼太郎はしばらく考え込んだあと、
「いつの話だ?」
「叔父さんが入院してすぐくらい」
「……殆ど寝てた覚えしかないな」
 孝介はあわてて記憶を探った。
 遼太郎が事故で入院してしばらくは、確か集中治療室に入れられていた。骨折の程度や内臓の検査、脳波の検査などで落ち着かない日々だった。あの状態の遼太郎が捜査の関係で話を持ち込まれるとは思えない。いや、確か身内以外――つまりは孝介以外の人間ということだが――は面会謝絶だった筈だ。
 足立が個人的に話をする機会が、ないとは言えないが。
『大丈夫だよ』
『堂島さんも菜々子ちゃんも、無事に戻ってくるって』
「どうした」
 遼太郎の声で我に返った。孝介はあわてて首を振った。
「なんでもない。――ちょっと勘違いしてたみたい」
「そうか……?」
 遼太郎はまだ怪訝そうな顔をしている。孝介は立ち上がってイスを片付けると、「帰るよ」と言って荷物を手にした。
「また来るから」
「おお。ありがとな」
 病室を出て足早に廊下を進む。菜々子の病室をのぞいたが、やはり足立の姿はなかった。従妹の寝姿を少し眺めたあと、またね、と呟いて孝介は再び廊下に出た。
 今日はおでんだ。ジュネスでロールキャベツを買って帰ろう。山ほど作って、もういらないと白旗を上げるまで食わせてやる――。


 足立はコートのポケットに片手を突っ込みながら玄関の奥の光をみつめていた。こうやって一人きりで堂島家を訪れるのは、滅多にない出来事だった。なので意味もなく緊張してしまう。
 もう片方の手にはミカンの入った買い物袋。一応土産として買ってきたのだが、もっとほかのものにしておけばよかったかなと、ちょっと後悔しているところだった。
 ――ま、いっか。
 今から別のものを買いに戻ったのでは時間が掛かり過ぎる。今日のところはあきらめてもらおう。そんなことを考えながら足立は扉を開けた。
「こんばんはー」
「お帰りなさーい!」
 予想外の言葉が足立を出迎えてくれた。一瞬ほかの誰かと間違えられたんじゃないかと考えてしまった。だが迎えに出てきてくれたのは孝介だったし、三和土に突っ立っているのが自分だとわかっても怪訝そうな顔は一切されなかった。
「えーっと……ただい……ま?」
「お帰りなさい!」
 靴を脱いで廊下に上がると、孝介が抱きついてきた。足立は動揺しながらも抱き返した。見ると台所には明かりが付き、居間には夕飯の用意がされてある。温かい部屋の空気と、なによりも自分の帰りを待ち侘びている存在。
 ――うわー、なんていうか、
「新婚さんみたい〜〜〜、僕今、すっごい幸せ〜〜〜」
 思いっきり抱きしめると、孝介はおかしそうに笑い声を上げた。一度短くキスをして、にまにまと笑う口を抑えながら額をくっつけた。
「ただいま」
「お帰りなさい。おでん出来てますよ」
「お腹ペコペコです」
「じゃあ早く手洗ってきてください」
「はーい」
 その前にコート、と言われ、代わりにミカンの入った買い物袋を差し出した。
「一応お土産。なんかほかのが良かった?」
「いいえ。ありがとうございます」
 ミカンを受け取った孝介は、コートも受け取ると居間へと消えた。洗面所で手を洗いうがいまで済ませると、足立はようやく居間へと向かった。
「着替えちゃいます? 俺のですけど」
 孝介はそう言ってソファーを示した。そこにはスウェットとTシャツらしきものが載っていた。せっかくだからと足立は背広を脱いだ。手が触れたので驚いて振り返ると、側にハンガーを持った孝介が立っていた。受け取ろうとしたが断られた。その代わりに彼は脱いだ背広やらなんやらを受け取り、どんどんハンガーに掛けていってくれる。


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