弱々しい呼吸が痛ましかった。顔色もやはり良くはない。こうして手をつなぐことで、少しでも苦しみを引き受けることが出来たら、どんなにいいだろう。だが実際はこうして見守るしかないのだ。
菜々子は今戦っている。
自分に出来ることは、ほかにはなにも心配しなくていいのだと、示してやることしかない。
安心した顔で笑ったあと、菜々子は目を閉じた。しばらく誰も口をきかなかった。
「……早く良くなるといっすね」
菜々子の寝顔に、完二が呟いた。
病室を出たところで偶然足立と出くわした。
「おーっと、勢揃いだね、こりゃ」
「こんにちは」
足立は小脇にコートを抱え、大きな封筒を持っていた。遼太郎のところへ行ってきた帰りなのだと言う。
「署に戻る前に菜々子ちゃんの顔見ていこうと思ってさ」
交代にというわけではないのだが、孝介は遼太郎のところへ着替えを届けに行かなくてはならない。皆はこれで帰ると言うから、エレベーターの前まで見送ることにした。
「センセー、ナナちゃんはいつおうちに帰れるクマ?」
エレベーターを待っているあいだ、クマが不安そうな顔を向けてきた。
「うーん……」
「こればっかりは菜々子ちゃん次第だろ」
陽介の返答に、クマはつまらなさそうにうつむいてしまう。
「あーもう、そんな暗い顔しないの」
「そうよクマ。クマが元気ないと、菜々子ちゃんも元気なくなっちゃうでしょ。ホラ、笑って笑って」
千枝とりせの言葉を胸に沁み込ませたあと、クマは大きくうなずいた。
「うん。クマ、元気出す。ナナちゃんが元気になりますようにって」
「そうそう。笑顔が一番だよ」
やって来たエレベーターに孝介をのぞく全員が乗り込んだ。
「じゃ、また明日な」
「お先に失礼します」
「ありがとな」
扉が閉まったあと、さて、と振り向くと、廊下の曲がり角から足立が呼んでいた。
「どうしたんですか」
「ちょっと」
そう言って非常階段の扉を押し開ける。扉を閉めたあと、上からも下からも人が来ないことを確かめた足立は、そっと顔を寄せてきた。
「今日の晩御飯、なに?」
思わず吹き出した。真面目な顔をしているから何事かと思えば。
「そんなこと訊く為にわざわざ――」
「だぁって気になるんだもん」
足立は期待に満ち満ちた表情で答えを待ち構えている。孝介は困って頭を掻いた。実は今晩、足立が泊まりに来ることになっているのだ。なにか作って、と頼まれてしまい、ちょうど孝介もメニューを迷っているところだった。
「なにが食べたいんですか」
「回鍋肉……は、さすがに我慢しよっかな。なんかあったかいもの――あ、おでんがいいっ」
「いいですね。作るのも簡単そうだし」
「じゃあおでんね。ロールキャベツ入れて」
「はいはい」
足立は嬉しそうに孝介の頭を撫でるとドアノブに手をかけた。
「仕事終わったら一度電話するから」
「はい」
二人は扉の内側でこっそりと手をつなぎ、手を離しながら廊下に出た。菜々子の病室に足立が入っていくのを見送ったあと、孝介は遼太郎の病室へと向かった。遼太郎は渡り廊下の向こう、外科病棟の一室に入院している。
「叔父さん、入ってもいい?」
個室のドアは開けられ、入口の薄いカーテンが引かれている状態だった。壁をノックして声をかけると、「悪い、ちょっと待ってくれ」との返事があった。孝介はおとなしく待った。やがて向こう側からカーテンが開けられ、年配の看護師が姿を現した。
「ごめんね。お待ちどうさま」
その看護師は一度ベッドの側へ戻ると、薬の瓶が並ぶ小さな台を壁際に押し遣った。なにか処置をしていたようだ。またあとで来ますからと言い残して去っていくのに孝介は頭を下げ返し、手に持つ紙袋を示してみせた。
「着替え持ってきたよ。あと汚れたのがあれば貰ってくから」
「ああ、すまんな。そこの棚のビニール袋に入ってる」
孝介は新しい着替えとタオルを棚に仕舞うと、代わりにビニール袋の中身を紙袋へと放り込んだ。
「さっき菜々子のところに寄ってきたんだ」
「そうか……」
遼太郎はベッドで横になったままぼんやりと天井を見上げた。孝介は隅に置かれた丸イスを持ってベッドの脇に腰を下ろした。
「俺も行きたいんだが、一日に二回までって決められててな」
「何時に行くかが問題だね」
「さっき出ていった看護師居るだろ? あれが俺の担当なんだが、とにかく口うるさくってなぁ」
遼太郎は苦り切った顔だが、自分だってかなりの重傷だということを忘れられては困る。病院というのは病気や怪我を治す為の場所なのだ。菜々子が心配なのもわかるが、自分の体だって大事にしてもらわないと。
「大丈夫。俺が叔父さんの分まで見舞いに行くから、安心して」
「……畜生。お前と代わりたい」
二人は声を上げて笑った。
入院してから二週間以上が経つが、こんな風に明るく笑う遼太郎を見るのは初めてのことだった。やはり菜々子のことが気懸りだったのだろう。その気持ちは痛いほどに理解出来る。
next
back
top